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いつかどこかで見た映画 その153 『ボクたちはみんな大人になれなかった』(2021年・日本)

監督:森義仁 脚本:高田亮 原作:燃え殻 撮影:吉田明義 出演:森山未来、伊藤沙莉東出昌大萩原聖人大島優子SUMIRE篠原篤平岳大片山萌美高嶋政伸篠原悠伸岡山天音奥野瑛太佐藤貢三カトウシンスケ吉岡睦雄渡辺大知徳永えり原日出子

 精神科医で評論家としても高名な斎藤環氏に、2001年刊行の『若者のすべて』という著書がある。《この本は、1999年から2000年にかけて、主として博報堂の広報誌『広告』に掲載された原稿をまとめたもの》で、当時の若者たちへのインタビューをまじえつつ彼ら彼女らの「意識(と無意識)」を多角的に論じた1冊だ(以下、カッコ内は本書より)。
 ひさしぶりに手にとってパラパラと読み返して、さすがにケータイは一般化していたがスマホやSNSはまだ普及していない当時との時代差[ギャップ]を感じさせるところはあるものの(……それ以外にも、たとえばいまだに「原宿系、渋谷系」などといった若者たちの“棲み分け”ってあるんだろうか? 等々)、それでも20年後の今も“変わっていない”と思える事例分析[ケーススタディ]も多い。特に、本書のサブタイトルでもある「ひきこもり系VSじぶん探し系」という枠組みは、現在なお彼ら彼女たちのある種の傾向または“呪縛”するものとしてあるんじゃあるまいか。
 ここでいう「ひきこもり系」と「じぶん探し系」とは、本書によれば次のように説明される。《自己イメージ(「自分がほしいもの」と言い換えてもいい)が定まらないものは過度にコミュニケーションを志向し、いっぽう自己イメージが定まっているものは、他人よりはむしろ、みずからの内的過程に魅了される。ここで、かりに前者を「じぶん探し系」、後者を「ひきこもり系」と命名してみよう》。
 つまり「じぶん探し系」とは、《コミュニケーション・スキルが高く、現在の対人関係の中でみずからの場所を容易に定めることができる。(中略)しかし将来にわたって自らの存在の核となるような根拠に欠けるため、その意味での不安は強くなるのだ。そうした不安や自信のなさから、「じぶん探し」へと至ることは、十分に予測できる》。
 いっぽうの「ひきこもり系」は、《自分の関心領域の中に、「自分」や「自信」を確保しているため、およそ「じぶん探し」とは無縁である。しかしコミュニケーション・スキルは、おそらく渋谷系(=「じぶん探し系」)ほどは高くないだろう。一つには(中略)相手によって態度を使い分けることが出来ないためもあろう》ということになる。
 そして20年後の現在、見渡せば誰もがひとりになるとケータイやSNSなどネット世界に沈静し、ブログやツイッターに書き込むことで「自己像」に浸ったり、出会い系サイトや、あるいは延々とほとんど無意味なコトバをLINEでかわしながら「友人」を増やす以外は、黙々とスマホのゲームに時間を費やしたりしている。もはや若者にかぎらず、60代より下の者たちのほとんどすべて(とは、まあ言いすぎだとしても)が、そうやってひきこもったり、自分をもてあましたりしているようにみえる。つまり、“誰もが大人になれなかった”のが現代ニッポンの風景なのではあるまいか。ーーしかし、とあらためて思う。では、こんな時代の「大人」とはいったいなんだろう?
 映画『ボクたちはみんな大人になれなかった』の冒頭まもなく、カタカタというキーボードの音とともに「46歳、ボクはつまらない大人になってしまった。」という文字[テロップ]が登場する。いきなり作品タイトルを“裏切る”文言が登場することに虚をつかれていると、それは主人公が書いている小説の一節で、映しだされるのはコロナ禍で閑散とした2020年の深夜の新宿だ。そこで森山未來演じる主人公といっしょに酔っぱらっている男が、やがて若い頃からの知りあいだった元劇団員の七瀬(篠原篤)であることも観客は知らされるだろう。
 主人公の名前は、佐藤誠。テレビのバラエティ番組などのテロップやタイトルを制作する、美術制作会社に勤めている。5年前に恋人の恵(大島優子)と別れ、同じ頃に人気テレビ番組の打ち上げパーティー会場で知りあった売れないグラビアアイドルの彩花(片山萌美)とホテルにしけ込む佐藤。が、そこでFacebookから「知り合いかも」と送られてきたメールの通知画面に「小沢(加藤)かおり」とあるのを見て、がく然とする。そして夫や子どもたちとの幸せそうな彼女の投稿写真を見やりながら、「なんか、普通だね」とつぶやくのだ。
 佐藤にとって加藤かおり(伊藤沙莉)は、かつて「自分より好きになった人」だった。出会いは25年前、アルバイト先の工場で、年長の同僚である七瀬が読んでいたアルバイト情報誌の文通コーナー(!)にはじまる。そこにあった「この文通コーナーから最初に読む方、ご連絡ください。20歳女、犬キャラ」というメッセージにひかれた佐藤は、「小沢健二、好きなんですか?」というたった1行の手紙を書いて送る。その「犬キャラ」こそがかおりなのだった(……ちなみに「犬キャラ」とは、小沢健二のファースト・アルバムのタイトル『犬は吠えるがキャラバンは進む』を略したもの)。
 だが、そういったふたりのなれそめを観客が知るのは、ほとんど終盤にさしかかってからだろう。なんとなればこの映画、2020年にはじまって1995年までどんどん時代をさかのぼっていくからだ。
 2011年には恋人の恵が結婚話をもちかけ、それに対し「震災後、結婚する人って増えてるんでしょ……なんか普通だなと思って」とはぐらかす佐藤。その数年前には、今の会社に就職したときからの同僚だった関口(東出昌大)がテレビ局のプロデューサー(高嶋政伸)をぶん殴り、仕事を辞めてしまう。そのとき「やりたいことをやれよ。小説とか書いてただろ」と関口に言われたものの、かおりとの日々ばかりが思い出されてキーボードを打つ手がいっこうに進まない。
 2000年の冬には、実業家の佐内(平岳大)が主催するパーティーで言葉を交わしたスー(SUMIRE)と、今は小さなバーを営む七瀬の店で落ちあい彼女の住むマンションにむかう。が、そこの所有者は佐内で、彼女はここで客の“相手”をしていた。かおりとの関係が終わったばかりのこともあって、スーにひかれていく佐藤。しかし佐内が脱税と売春斡旋容疑で逮捕され、彼女も街から姿を消してしまう。
 そう、前年の1999年の大晦日の夜を最後に、佐藤とかおりは別れていた。いつものようにお気に入りだった渋谷のラブホテルの一室で、ノストラダムスの予言どおり地球が滅びなかったことに“失望”しながら過ごすふたり。ふと同棲話をもちかける佐藤に、かおりは「なんか……普通だなって思って」とだけ答える。そして翌朝、帰り際に「今度CD持ってくるね」という言葉を残して、かおりは佐藤から去っていったのだ。
 ここから観客は、1998年から1995年へと時代を遡りながら佐藤とかおりの「恋と青春の日々」を目撃することになる。ラフォーレ新宿など当時の渋谷の街並みや、ファッション、音楽、ポケベルやMDプレーヤーなどのガジェット、その他にも時代性をおびた固有名詞をいたるところに散りばめ、“あの頃”の空気感を画面に充満させながら(……とにかくこの映画、美術や小道具などさりげないところに手間と予算[カネ]をかけている。それもまた本作の大きな魅力のひとつにちがいない)、主人公たちの姿を通して“あの時代”の「若者のすべて」を追体験するのである。
 ……渋谷のエスニック系衣料雑貨店に勤め、買い付けのためひとりでインドに長期滞在したり、音楽やファッション、本、映画などの趣味もとにかく他人といっしょであることを嫌うかおり。彼女にとっては「普通じゃない」ことが絶対的な“価値基準”であり、「おもしろい」のだ。だが、そんな「普通/普通じゃない」や「おもしろい/つまらない」といった“白か黒か”という単純な価値判断に「自分」を見出すかおりは、それゆえ魅力的ではあるがどこかあやうい。先の斎藤環の本を引くなら彼女はまさに渋谷系、つまり「じぶん探し系」そのものではないか。
 一方の佐藤といえば、洋菓子を箱詰めにする工場でアルバイトをしながら無為な日々をおくっていた。しかしかおりと出会って、彼女から「キミは大丈夫だよ、おもしろいもん」と“承認”されることで、不透明だった「自分」とようやく折り合いをつけることができる。そして、社長の三好(萩原聖人)が起ち上げたテレビ業界の裏方的な美術制作会社に就職し、同じ日に入社した関口とふたりで仕事に追われながら、休日にかおりと過ごす渋谷のラブホテルでのひととき。実は小説を書きたいと思っている佐藤に、中島らもの小説(『永遠も半ばを過ぎて』)について語りながら「キミの身体にも、成仏してない言葉が詰まってるよ」と励ますかおり。彼女は、自分といっしょにいるときも佐藤が常に“内省的”であることに気づいている。彼は典型的な「ひきこもり系」男子であったのだ。
 もっとも、だからといってこの映画を、そういった「じぶん探し系VSひきこもり系」の文脈ですべて語れるとは思っていない。燃え殻というペンネームの作者による原作小説は未読だが、その映画化である本作は、主人公の佐藤をとりまく様々な人物模様こそが魅力なのだから。七瀬や関口、スーといった、主人公にとって重要な存在はもちろん、実業家の佐内や社長の三好ほか脇の人物たちまでキャラが立っているというか、すこぶる人間くさくて面白い。そこでは「かおり」という存在すら“そのひとり”にすぎないのである(……実のところ、映画のなかで彼女が登場する場面はそんなに多くないのだ)。
 ただそのなかで、かおりだけが佐藤の「内面」に決定的な“傷跡”を残していった。その痛みを25年間もひきずったまま、彼は「46歳、ボクはつまらない大人になってしまった。」とつぶやく(=書く)しかない。そう、まるで、イギリス人の姉妹のどちらにも恋をして、その〈恋〉に思い悩みながら15年を費やしてしまう『恋のエチュード』のジャン=ピエール・レオーのように!
 ……この映画は、「1995年」を起点としながらその年の阪神淡路大震災も地下鉄サリン事件にもまったく言及することはない。さらには「2001年」のアメリカ同時多発テロにも、「2011年」の東日本大震災にもほとんどふれることはないのである。主人公の佐藤とっては、そんなこと(!)より「1999年」にノストラダムスの予言がはずれたことのほうが重大だった。なぜなら、その年の大晦日にかおりが自分から去ってしまったからだ。
 そしてトリュフォーの『恋のエチュード』においても、レオー演じる主人公が思い悩む15年間のあいだに第1次世界大戦が起こり何百万人もの人々が死んだことを、たったひとつのナレーションで告げるのみだった。《この映画の世界では、〈恋〉だけしか存在していないのだ》(山田宏一)。そう、終盤になって車窓に映る自分の顔を見ながら、「今日のぼくは、まるで年老いたようじゃないか」と驚くレオーの主人公。彼にとって、この15年間はただただ〈恋〉だけに生きたと言う以上に、ただ“費やしてしまった”のである。
 同じく、『ボクたちはみんな大人になれなかった』の主人公にとっても、「かおり」という存在に25年間も“費やしてしまった”。そのことで、「46歳、ボクはつまらない大人になってしまった」とつぶやく(=書く)主人公に去来するのは、どういう「想い」なのか。ーー明け方近くの薄明で彼が浮かべるその“表情”を確かめるためにも、この映画は見る「価値」があるだろう。



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