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いつかどこかで見た映画 その5 『2012』(2009年・アメリカ)

“2012”
監督:ローランド・エメリッヒ 脚本:ハラルド・クローサー、ローランド・エメリッヒ 出演:ジョン・キューザック、キウェテル・イジョフォー、アマンダ・ピート、オリヴァー・プラット、タンディ・ニュートン、ダニー・グローヴァー、ウディ・ハレルソン、モーガン・リリー、ジョン・ビリングスレイ、ジョージ・シーガル、ジミ・ミストリー、パトリック・ボーショー

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 ところで、ぼくはローランド・エメリッヒ監督の映画が大好きである。そして彼のことを「トンデモ大作映画の監督」だのとバカにする向きに対して、機会あるごとに擁護してきたつもりだ。
 もちろんそれは、ただ単にゲテモノ好きだからだとか(いや、否定はしませんが……)、低俗なものを持ち上げることで逆説的に「趣味人」を気取るといった、嫌みったらしいスノビズムじゃ決してない(と、自分では信じている)。確かにエメリッヒ監督の映画が描くものは、一見すると頭の悪い中学生(!)程度の発想やらエセ科学史観による、SF仕立てのホラ話でしかないだろう。事実、『紀元前1万年』などは、エメリッヒ自身もインタビュー等で認めていたように、「紀元前1万年には知られざる超文明が存在していた」というグラハム・ハンコックの書『神々の指紋』を、そのままパクッたような映画だった。そして言うまでもなくあのハンコックの世界的ベストセラー本は、根拠のないトンデモ学説として世界中で一笑に付されている次第だ。けれどもエメリッヒ監督は、そんなことなどまるで意に介することなく、そのウサン臭くいかがわしい「学説」に飛びつく。そして巨額の製作費をかけて映画化してしまったんである!
 それ以前にも、『スターゲイト』の“オーパーツ”や、『インデペンデンス・デイ(ID4)』における“エリア51”の存在といった、大のオトナなら相手にもしない「都市伝説」ネタを、いたって大真面目に取り上げてきたエメリッヒ監督。もう少し“シリアス(?)”な題材を扱った『デイ・アフター・トゥモロー』にしても、温暖化が逆に氷河期を引き起こすといった可能性を、嬉々としてスペクタクルな大災害場面の“口実[エクスキューズ]”とするばかりだし、アメリカ独立戦争時代を描いた異色の歴史劇『パトリオット』だって、宗主国側[イギリス]がどこまでも残虐非道で植民地側[アメリカ]はあくまで正義という、ほとんどマンガチックなくらい単純すぎる図式化が、「良識」ある世のオトナの観客や批評家から失笑を買ったものだ……。 
 しかし、本当にそうなのか。エメリッヒの映画は、本当にどこまでも単純で頭の悪いシロモノでしかないんだろうか?
 たとえば、この『2012』だ。冒頭、いきなり活発化して燃え立つ太陽が描かれ、膨大なニュートリノによって地球の核が熱せられることで大規模な地殻変動が起こるーーといった「科学的」な根拠に基づく「事実」が知らされる。それが、マヤ文明の予言した終末の年と合致するといった説明もそこそこに、映画は、実際にアメリカ西海岸が海に沈み、イエローストーン国立公園が大噴火し、やがて世界全体が巨大津波に襲われて水没してしまう終末の光景を次々と繰り広げてくれるだろう。
 そこに、別れた元妻や子供たちだけでも何とか助けようとするジョン・キューザック演じる売れない小説家の大奮闘ぶりや、早くからこの事態の到来を知っていた青年科学者の苦悩といった群像ドラマも描かれはする。けれど、『デイ・アフター・トゥモロー』がそうだったように、もはや芸術的とすら言える災害場面(……崩壊する高層ビル群や高速道路と、その下を逃げまどい、押しつぶされ、地割れに落下していく人々を俯瞰していく地獄絵図など、アメリカの批評にもあった通り、ヒエロニムス・ボスの絵画を思わせるほとんど“美しい”とすらつぶやいてしまう圧倒的な精密さであり、黙示録的な映像[ヴィジョン]だ)を見せたいがための“口実”程度でしかない。
 だったら、やっぱりこれは、いつもながらの「エメリッヒ作品」に過ぎないじゃないかだって? まさにその通り。そして、これもこの監督らしい「生真面目さ」ゆえに、期せずして(あるいは、確信犯的に)もうひとつ〈別の物語〉を繰り広げていくあたりも、まさしく“いつもながらの「エメリッヒ作品」”なのである。
 ……〈別の物語〉? そう、エメリッヒ監督の映画は、表向きの物語と同時に別の〈物語〉を描き、語ろうとしてきたとぼくは思っている。『スターゲイト』なら、それは“砂漠の民が絶対的な支配者に対し蜂起する”という『アラビアのロレンス』的なドラマ(と、人海戦術的なエキストラによる戦闘場面)をめざしたものだ。あるいは『GODZZILA ゴジラ』なら、ニューヨークに恐竜ときたらこれはもう『赤ちゃん教育』(!)だろうと、気の弱い学者をさんざん悩ませるヒロインというスクリューボール・コメディの定石を、この巨大モンスター映画のなかに盛り込んでみせる。あの『ID4』にしても、H・G・ウェルズの古典『宇宙戦争』というより(宇宙人を撃退するのが細菌[ウィルス]ならぬ“コンピューターウィルス”だという、見事な換骨奪胎ぶりは認めつつ)むしろスピルバーグの『未知との遭遇』への“返歌”として見るべきだ(……光り輝く巨大UFOに対して地表に黒い影を落とす超巨大UFOを描き、エリア51に登場する科学者など、スピルバーグそっくり! これには笑った)。
 そして、『2012』においてそれは、ひとつの「倫理的」な〈物語〉へとぼくたちを導いていくだろう……。
 この映画を見て、アナタはこう思うかもしれない。結局これって、一部の大富豪や政府高官など特権階級の者たちだけが生き残って、ほとんど大多数の人々は成すすべもなく死んでいくという、まったくミもフタもない話じゃないか、と。まったくその通り。地球の終末が訪れることを隠しながら、欧米先進国とロシア、中国の首脳クラスは極秘裏に巨大な船の建造をすすめる。その費用をまかなうために彼らは、入船チケットを世界中の金持ちに売りつけるんである! 
 この展開は、ほとんど「人間としてどうよ」と思わずにはいられない。『ディープ・インパクト』のように、生き残る者を抽選で選ぶのならまだしも納得できる。が、“カネさえあれば救われる”というのは、いかに「現実的[リアル]」な結論であっても(……それを強調するかのように映画は、リオデジャネイロのキリスト像やバチカンの大聖堂が崩壊し、チベットの寺院が津波に打ち砕かれる光景を見せつけるーー宗教で人は救えないんだ、と言わんばかりに!)、何かやりきれない、複雑な想いが残る。
 しかし、映画のなかの人々は、どうやら誰もそのことに憤ったりしない。そもそも現代の箱船である巨大船の存在を知らされていないのだから仕方ないとしても(……ジョン・キューザック演じる主人公がそれを知ったのも、単なる偶然にすぎない。というか、主人公の長男の名前が“ノア”であるように、それを知り得たことこそ、彼とその家族が“選ばれし者たち”の証明であると映画は言っているのである)、助かった者たちがもう少しくらい後ろめたく思ったり、苦悩してもいいだろうと腹立たしくなるほど、彼らは救われたことを「当然のこと」のように受け入れている。実際、その点への疑問や批判をこの映画に投げかける向きも、きっと多いにちがいない。
 もっとも、ぼくたちがこの映画(の物語)に対して複雑な思いを抱くとしたら、それは、ここに描かれていることがあまりにも“正直(!)”だと実感できるからではあるまいか。どこまでもウソ臭い超現実[オカルト]的な“大ボラ”映画でありながら、その実、作り手のエメリッヒはぼくたちに、「カネとコネのない者は救われない」という現実[リアル]を、これ以上ない単刀直入さによって宣告し、見せつける……。いったい、ここまでやりきれない“世の真理”を正直に語ってみせた「娯楽映画」など、かつてあっただろうか?
 いささかうがった見方をするなら、それこそが資本主義経済の倫理的な基盤である〈幸福(=功利)主義〉だともいえる。人は、それぞれがエゴイスティックに幸福(=利益)を追求するものであり、それがかえって万人の幸福(=利益)につながると説いたのは、『国富論』を書いたアダム・スミスだ。そこに生まれる貧富の差や階級問題を埋め合わせるのが、同情心や「ボランティア精神」であると(……他国に戦争を仕掛けて“救済”と称する、アメリカ合衆国の「ボランティア精神」……)。
 なるほど、「幸福(=利益)」を追求し実現した者たちは、確かに救われた。その上で、船に乗れずデッキにあふれた人々を救おうとするのも、まさしくアダム・スミス的な意味で「正しい」行為だ。しかし、その前に何十億人という人々が死んでいることを、彼らはもはや意に介さない。何故なら、生き残って人類の〈種〉を保存していくことが、「幸福なわれわれ」に課せられた使命(「ボランティア精神」!)なのだから……。
 繰り返そう。否応なく資本主義社会を生きるぼくたちにとっても、この「幸福(=功利)主義」的な考え方は自明のものとなっている(……「勝ち組・負け組」という、少し前の哀しくも醜悪な流行語を思い出そう)。そしてこの映画は、“ほら、「勝ち組」になれば世界の終末すら生き延びることができる。これが「アメリカ人」の〈倫理〉なのさ”と、ぼくたちに説くだろう。その時、ぼくを含めた大多数の「負け組」は、その圧倒的な大破壊スペクタクルに眼を奪われながら、ふと、「救われない側」としての自分を思い出す。そして、このおそろしく現実的でモラルの根源を問う〈物語〉に、打ちのめされるのである。ーーたぶん、2012年に地球は滅亡しないかもしれない。が、ここに描かれていることは、マヤの予言以上にまさしく「真実」なのだ。
 あるいは、当の「幸福(=功利)主義」を生きるアメリカ人たちにとって、そんなことは周知すぎて疑問にすら思わないかもしれない。カネがあれば救われ、なければ救われない。それは「資本主義社会」にあってアタリマエのことじゃないか、と。
 もちろんエメリッヒのこの映画は、それを否定も肯定もしない。ただ生真面目に物語っていくだけだ。けれども、そのミもフタもない〈物語〉は、まちがいなく「幸福(=功利)主義」の欺瞞や“醜さ”をおのずとあぶり出していくだろう。
 ……かつて、この「幸福(=功利)主義」を批判したのが、カントだった。人類の終末という題材をノーテンキに描いた「トンデモ超大作」風の本作には、かの偉大なドイツ人哲学者の〈精神〉が、同じくドイツ出身の映画監督によって継承されている(とは、やはり、それこそ“トンデモ”すぎだろうけれど……)。

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