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いつかどこかで見た映画 その113 『ペコロスの母に会いに行く』(2013年・日本)

監督:森崎東 脚本:阿久根知昭 原作:岡野雄一 撮影:浜田毅 出演:岩松了、赤木春恵、原田貴和子、竹中直人、加瀬亮、温水洋一、大和田健介、松本若菜、根岸季衣、原扶貴子、宇崎竜童、穂積隆信、澁谷天外、長澤奈央、大門正明、正司照枝、島かおり、白川和子、サヘル・ローズ、志茂田景樹、相築あきこ、上原由恵

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 とにかく、ハゲた男たちばかりが登場するんである。主人公を演じる岩松了はヅラだが、友人の喫茶店マスター役の温水洋一はいつも通り(笑)のあの頭で出演。主人公の死んだ父親に扮した加瀬亮までも、遺影では見事なハゲ姿だ(……まるで加藤茶の変装みたいなその写真が、妙に可笑しい)。竹中直人だけはいかにも不自然なフサフサの頭(笑)だが、それもいずれ化けの皮ならぬ「ヅラ」をはがす時がくるだろう(……本作における竹中直人は、あきらかに『Shall we ダンス?』のキャラクターの延長線上というか、“そのまんま”だ)。
 そして、このハゲ頭の男どもが揃いも揃ってショボくれているというか、覇気がないというか、ダメダメというか。離婚して長崎に戻り、いいトシして演奏[ミュージシャン]活動に熱中する主人公は会社をクビになり、竹中直人もどうやら失職中らしい。さらに彼らは、温水洋一もふくめてそれぞれ認知症の母親をかかえて悩みがたえない。加瀬亮にしても酒乱の神経症持ちで、給料をすべて酒に使い果たしてしまうといったていたらくだ。……いやはや、彼らに比べると、アルバイトで家計を助けているらしい主人公の長男など、何と地に足をつけて生きていることか!
 そう、認知症の母親との日々を綴った、岡野雄一の同名漫画コミックを原作とする映画『ペコロスの母に会いに行く』(以下、『ペコロス』)は、そういった“ハゲ頭のダメ男たちが右往左往する”作品だといっていい。いや、そんなはずがないだろ! という声が聞こえてくる気もするけれど、いいんである。これは認知症だの老人介護だのといったシリアスな「問題」を描いた映画という以前に、何よりもまず「森崎東監督作品」であり、「喜劇」なのだから。
 監督デビュー作『喜劇・女は度胸』のタイトルに象徴されるように、森崎東作品といえば「喜劇」の二文字が思い起こされる。黒澤明の名作をリメイクした『野良犬』や、中井貴一主演の『ラブ・レター』などといった喜劇以外の作品もあるけれど、やはりこの監督には、倍賞美津子主演の『喜劇・女』シリーズをはじめとした“森崎喜劇”こそが、われわれにとって忘れがたいものだろう。
 もっとも、この『ペコロス』のチラシにある《卓絶した人情喜劇で映画ファンを唸らせてきた》というのは、ちょっと違うのではないか。というか、いわゆる“心温まる”といった類の「人情喜劇」のワクに収まりきらないことこそが森崎喜劇の真骨頂なのではあるまいか。
 森崎東監督は、自作を喜劇ならぬ「怒劇」と称しているという。それは自分が、「民衆(というより、さらにその「周辺層[アウトサイド]」の人々というべきか……)の怒りとパワーを描き続けてきた」という自負からのものなのか。たとえば『喜劇・女は男のふるさとヨ』の創作ノートに、「喜劇たぁ何だ?」と題してこう書きつける。《人間にとって、笑いとは(有象無象の権威に対する)本質的に敵意の表現なのではないか、という疑いを私は持ちはじめている。と、するならば、だ。民衆にとって喜劇とは一体何だろうか?》と。そして、自分たちの抱く「敵意」を表現する術をもたない民衆の、《おどろおどろしくふくれ上がる敵意を、(中略)無智でコッケイな登場人物に、優越の喜びを感じることで、虚しく解放し去っていいのだろうか。己の中に、無限にふくれ上がりつづける敵意を、みつめ乍ら、私はこの問いへの答えに飢えつづける。だが、その答えが、バクゼンと乍らも存在することも亦、私は確実に予感できる。それは恐らく、「連帯」という一語であろう。連帯、それは人が人を愛することである》(『月刊シナリオ』71年5月号より)。
 ーーそうしてこの監督は、“笑いと涙”などといった生ぬるいキレイ事を断固拒否しつつ、エゴや嫉妬などといったものをも含めた民衆のパワーやバイタリティーこそを描き続けてきた。その集大成的な映画が『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』であり、その精神的な続編ともいえる『ニワトリはハダシだ』なのだった。そこには文字通り“喜・怒・哀・楽”のすべてがある。
 そして、実に9年ぶりとなる新作『ペコロス』もまた、人情喜劇だのハートウォーミングコメディだといった甘っちょろい響き(とは言え、どちらもプレス用資料に記載されている“売り文句”なんだけれど……)の映画とはひと味もふた味も違う。前述のように介護や認知症といった高齢化社会が抱える「問題」を扱いながら、自身も今年で85歳を迎えた森崎東監督は、そういった深刻そうな問題など(ハゲ頭のダメ男たちによって)軽やかに笑いとばす。その上で、89歳で映画初主演という赤木春恵が演じる主人公の母親の半生をおりまぜながら、どっこい“女生きてます(とは、言うまでもなく森崎喜劇の作品タイトルのひとつだ)”といった彼女の波乱に富んだ人生ーーしかしそれは「昭和」を生きた民衆の誰もが多かれ少なかれ共有してきたはずの、喜びや、哀しみや、怒りを描き出すのである。
 実際、原田貴和子が演じる若き日のみつえ(というのが、主人公の母親の名前だ)は、森崎東作品におけるヒロイン像の典型だといっていい。10人兄弟の長女として生まれ、結婚してからも酒乱で神経症を病む夫に苦労のさせられ続き。だが、それでもたくましく生きていく彼女は、『喜劇・女シリーズ』をはじめとする倍賞美津子のように美しく、おおいに泣いたり笑ったりしながら昭和という時代を生きていくのである。この映画のなかで最も印象的かつ感動的な台詞、「生きとかんば。何が何でも生きとかんばならん!」とは、まさに森崎喜劇のヒロインに贈られたメッセージでなくしてなんだろう。
 ただ、その一方で本作は、これまでの森崎東監督のどの映画にもまして“優しさ”に満ち満ちているのも確かだ。それは、ここに誰ひとりとして「悪人」が登場しない、という点によるものだろうか。惚けた母親に振り回されながらも、決して情愛を失わない主人公と、心優しきその長男。竹中直人も、母親が自分のことをおぼえていないことに心痛めながら、しかし施設のなかで母が誰か好きな人ができたらしいことを素直に喜ぶ。若き日のみつえを悩ませる加瀬亮の夫にしても、少年時代の主人公に対しては人一倍の愛情をそそぐ父親なのである。
 そんななかで、長崎の遊郭に売られて原爆に遭い、戦後に病いで死んでいくみつえの幼なじみ、ちえこ(原田知世)だけが“悲劇的”な人物像だが、それすらみつえの回想のなかで、はかなくも美しい存在としてだけ描かれるのだ(……かつての森崎東作品なら、たぶん彼女を“くいもの”にする男どものひとりやふたりを登場させていたに違いない)。この映画に、ぼくたちは「怒劇」としての“怒り”の対象を(あの、原爆の“キノコ雲”をのぞいて)見出せないだろう。
 それを、「森崎東監督らしくない」と言うべきだろうか? もはやこれは「怒劇」ではないと。ーーなるほど、そうかもしれない。この映画の人物たちは、どこにも、誰に対しても「敵意」を向けることはない。惚けたみつえのきれぎれの昔の記憶と、それを映像化した回想場面のように、ここにはすべてが時の過ぎゆくなかで浄化されたかのような美しさと愛しさ、諦観だけがある。だがそれを、いったい「森崎喜劇」と呼べるのか……?
 なるほど、そうかもしれない。と、もう一度つぶやいたうえで、しかし、と思う。監督自身が言う「怒劇」とは、常に優しさの裏返しの“怒り”だったのではないか。民衆のなかの権力に対する「敵意」を笑いへと表現するのが「森崎喜劇」なら、そこにあるのは、そういった「敵意」をを断固として肯定しようとする意志だ。そしてそれが、彼らと「連帯」するということに他ならないとするなら、それこそ《連帯、それは人が人を愛すること》なのである。
 ……『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』の、女たちばかりが夜の浜辺で繰りひろげる宴会場面。ぼくにとって生涯忘れ得ないだろうあの美しい場面にあったのは、まさに映画(と、森崎東監督)が社会の周辺層に生きる彼女たちに向けた「連帯」の表明だった。あるいは、『ニワトリはハダシだ』の中心的存在である驚異的な記憶力をもった知的障害の少年と、その家族(母親は「在日二世」でもある)に寄せられた全面的な“共感”も、「連帯」の意志でなくしてなんだろう。
 この『ペコロス』にあるのもまた、昭和という時代を精いっぱい生きた女性に向けて、“人が人を愛する”という意味における85歳の森崎東監督からの心からの「連帯」感だ。本作が何より「喜劇」であるのは、何も惚けたみつえや施設の老人たちの言動がコッケイだからでも、それに振り回されるハゲた息子たちが可笑しいからでもない(いや、可笑しいんだが)。彼らの誰もがみな懸命に生きている姿を真正面から見つめているからこそ、それを「喜劇」と呼び得るのだ。
 ーー黒川創は、その小説『かもめの日』のなかで、ロシアの劇作家チェーホフの妹の言葉としてこう述べさせている。《兄アントンの『かもめ』は、どれだけ大まじめに生きているつもりでも、そのこと自体が滑稽さを伴わずにおれない、この人生というものを「喜劇」と見ています。生まれてきた以上、人はこの舞台の一員であることから降りることはできません。喜劇とは、そういうものです。人を欺くことだけを目当てとした笑劇は、ただの騒々しい茶番と呼べるにすぎません。》 
 あるひとつの「奇跡」を迎えるクライマックスまで(……これほど美しく感動的な場面を、ぼくは久しく見たことがない)、この映画が達成したのは、そうした(黒川創がいうところの)チェーホフ的な意味における最も人間的で、純粋な「喜劇」そのものだ。ーーぼくはそんな本作を心から愛する。そしてきっと、この映画を見た誰もが同じ想いを抱くことだろう。

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