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いつかどこかで見た映画 その44 『旅のおわり世界のはじまり』(2019年・日本=ウズベキスタン=カタール)

監督・脚本:黒沢清 撮影:芦澤明子 出演:前田敦子、加瀬亮、染谷将太、柄本時生、アディズ・ラジャボフ

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 黒沢清監督の最新作は、そのタイトルを『旅のおわり世界のはじまり』という。ーーそう聞いて、これまでこの鬼才の作品に親しんで(あるいは“震撼”させられて)きた者は、思わず「おおっ!」と感嘆符つきでうなずくか、「ええっ?」とこちらも感嘆符つきでとまどうことになるのではあるまいか。なんとなれば、黒沢清とはこれまでも「世界」をめぐる思索的な映画を撮り続けてきた監督であり、しかしそれは「世界のおわり」を、というか“「世界のおわり」のはじまり”を描くものであったからだ。
 たぶんそれは、『カリスマ』のなかで役所広司演じる主人公が「世界の法則を回復せよ」というメッセージを受け取ったときから、黒沢作品の主調音[ドミナント]としてあった。いや、すでにその前の『CURE』のラストにおいて、ここでも役所広司による主人公が“この世に殺人を蔓延させる「伝道師」(とは、あの映画の企画段階で与えられていたタイトルだ)”として君臨するだろうことを暗示しつつ終わったとき、すでに黒沢作品における「世界のおわり」は始まっていたのかもしれない。
 いずれにしろ黒沢清の映画は、それ以降『回路』にしろ『アカルイミライ』や『叫』にしろ、『散歩する侵略者』などにしても、執拗に“「世界のおわり」のはじまり”を開示することになるだろう。そこで主人公は、なにものかに導かれるように“ある一線”を越え、「世界の法則」にふれてしまう。それによって世界は〈変容〉し、決定的なカタストロフィを迎えるのである。
 では、その「世界の法則」とは何か? だが黒沢作品は、そこに明確な「答え」を用意してはくれない(……彼の作品が“難解”といわれるのは、そのあたりにも理由があるにちがいない)。ただそれは、生と死の一線を、というか生者の「世界」と死者の「世界」、その“あいだ”に横たわる〈境界〉を越えることに“在る”ことだけは確か(?)なようだ。そしてそのとき出現するのが、なんならそれを「地獄」と呼んでもいいだろう「世界のおわり」の世界。だから黒沢清の映画には、あれほど「幽霊」たちが登場するのだ。
 しかし今回の最新作のタイトルは、『旅のおわり世界のはじまり』である。旅が終わったとき、そこから世界がはじまる……。『カリスマ』でも『回路』でも『叫』でも、終末をむかえた世界へとさまよい出る主人公で幕を閉じた黒沢作品は、むしろ「世界がおわって旅がはじまる」というものだった。だからなのだろうか、この作品にはひとりの「殺人鬼」も「幽霊」も登場しない。黒沢作品でありながら、ここでは誰も“死なない”のである。
 ……冒頭、耳なれない異国の言葉がとなりの部屋から聞こえてくるなか、朝の身じたくを整えている日本人女性の姿。どうやらそこは小さなホテルで、彼女が外に出ると広場に大勢の異国の人々がたむろしている。そのなかのひとりの男が、彼女に近づいて何かを告げようとする。が、彼女は拒絶して相手にしない。男はなおも何かメッセージが書かれた紙を見せて、彼女に話しかける。そのメッセージを見てようやく納得した彼女は、男が運転するオートバイの後ろに乗る。土ぼこりをあげながら、大平原の一本道を疾走するオートバイ。
 次の場面で、彼女は巨大な湖に立っている。彼女の名前は葉子(前田敦子)で、テレビのバラエティ番組のリポーターとして、中央アジアの国ウズベキスタンを訪れていたことがわかる。そして、このアイダール湖で“幻の怪魚”をさがそうというのだった。
 撮影隊の一行は、ディレクターの吉岡(染谷将太)と、カメラマンの岩尾(加瀬亮)、アシスタント・ディレクターの佐々木(柄本時生)、通訳と現地コーディネーターを兼ねるテムル(アディズ・ラジャボフ)の4名。だが、網にかかっているはずの怪魚は1匹も姿を見せず、地元の漁師は、どうやらそれを女がいるからだと葉子のせいにする。
 怪魚はあきらめて、次のロケ先へと向かう一行。だが、用意されているはずだったウズベキスタンの名物料理プロフは出来上がっておらず、葉子はほとんど火の通っていない料理をさも美味しそうに食べなければならない。さらに、遊園地のアトラクションというよりほとんど“拷問マシン(!)”のような遊具に、ディレクターの吉岡は現地スタッフの制止も聞かずに葉子を何度も乗せて撮影を敢行する。そんな過酷なロケ撮影も、カメラが回っているあいだは笑顔をたやさずこなす葉子。しかし、カメラが止まると同時に彼女からは、いっさいの“表情”が消えるのだ……
 こうして映画は、その冒頭から常に主人公・葉子をまさしく“凝視”し続ける。異国の地で心を閉ざし、現地の人々や撮影隊のクルーたちとも距離をおきながら(……どうやら彼女は、撮影後の食事なども撮影隊の日本人クルーとも別に、ひとりでとっているらしい)、与えられたリポーター仕事を淡々とこなす葉子。彼女が“表情”を取り戻すのは、ホテルの自室で東京の恋人とスマホでLINEのやりとりをかわすときだけなのである。
 その日も、地図とガイドブックを手にひとりで街に出かける葉子。バスに乗ってなんとか露天の屋台がひしめくバザールに着くが、結局は何も買わないまま逃げるように立ち去る。日が暮れるなか、旧市街の路地裏に迷い込んだ彼女が出会ったのは、縄につながれた1匹のヤギ。翌日、いよいよ撮影のネタに困って苛立ちをかくさない吉岡に、葉子はひとつ提案を出す。昨日の夜、私が出会ったあのかわいそうなヤギを野に帰してやって、それを撮ればいいのではないかと。
 ……たぶん、このヤギとの出会いから主人公の葉子は、少しずつ“変化”のきざしを見せはじめる。それを象徴するのが、ホテルのレストランでの場面だろう。ーー朝食の席で、葉子はカメラマンの岩尾に呼びとめられて、同じテーブルにつく。そこで葉子は、東京に港湾消防士の恋人がいること、本当は舞台で歌を歌う夢があって、帰国したらミュージカルのオーディションを受けることなどを岩尾に語る。それは、この映画で彼女がはじめて他者と“私語”を交わす光景だ。
 もっともぼくたち観客は、葉子が歌う姿をすでに見ているのである。それは前日の場面で、撮影隊の一行が首都タシケントに到着した後、彼女は恋人に絵はがきを出すため郵便局へと出かける。街をさまよい歩いていた彼女は、ふとかすかな歌声に気づく。その歌声に誘われて向かったのは、宮殿のように壮麗な建物。なおも導かれるようにいくつもの部屋を抜けると、そこは巨大な劇場のなかだ。そして、いつしか舞台に立っている葉子は、オーケストラの演奏とともにエディット・ピアフの「愛の賛歌」を高らかに歌うのである……。
 この場面における主人公・葉子の、晴れやかで堂々たる歌唱ぶりの素晴らしさ。それまでの彼女は、異国の地にあって誰とも心を開かずに常に「ひとりぼっち」でいた。遠く離れた恋人とのLINEだけが、文字通り彼女と「世界」をつなぐ“一本のの線[ライン]”だった。葉子にとってウズベキスタンの地は、あくまで“あちら側の「世界」”であり、そこでは彼女自身が「幽霊」のような、あるいはむしろ肉体だけがあって〈魂〉がない「ゾンビ」のような存在だったのである。
 ーーしかし「愛の賛歌」を歌う葉子は、つかの間だが心を開く、というか〈魂〉を取り戻したかのように見える。が、それも、ひとり劇場の座席で夢想にひたる彼女が警備員にとがめられ、あわててその場を逃げ出すことで終わってしまうのだが。彼女が真に「世界」と向き合うまでには、まだまだ“試練”が残されているのだ……
 とにかく、主人公の葉子を演じる前田敦子が素晴らしい。ウズベキスタンの街をひとりでせかせかと歩き回るその姿は、同じ黒沢清監督の『Seventh Code』での彼女を彷彿させる。が、本作ではそれ以上に、“この「世界」でたったひとり”という孤独と緊張感を全身にみなぎらせているのである。インタビューに答えて黒沢監督が、《前田さんは、誰とも交わることなく一人ぽつんとフレームに写っていても、「たしかにそこに人がいる」という感覚が画面を通じて強烈に伝わってくるんですね。孤独感に近い気もしますが、決してネガティブなものではない。ある種のタフさも含んだ、“実存感”と言っていいかもしれません》と評す通り、ここでの彼女は“たったひとり”で「世界」と対峙している。それこそが、この映画を成立させているといっても過言ではないのである。
 結局、撮影隊は東京で起こったある“大惨事”によって、ディレクターの吉岡とADの佐々木が帰国し、葉子とカメラマンの岩尾、そしてテムルだけでロケ撮影を続行することになる。そのなかで得た“伝説の生き物”の目撃情報をもとに、山岳地帯に向かう葉子たち。そこで葉子は、ある思いがけない「再会」をはたす。そしてその小さな“奇跡”こそ、彼女が真に〈魂〉を取り戻した瞬間だった。このとき、ついに彼女は「世界」と真に向き合えたのである。
 ぼくはこの映画を2回見て、2回ともこの場面で泣いた。まさか黒沢清の作品で本当に“泣かされる”日が来ようとは……! もちろんこれまでの黒沢作品と同様、本作もまたいかにもな感傷やら情緒とはどこまでも無縁だ。けれどここには、主人公はもちろん見る者すべてをも“救済”するかのような「感動」がある。ーーあの、映画の最後における主人公・葉子のクローズアップ。それはぼくに、ヴィム・ヴェンダース監督の『ベルリン・天使の詩』のラストシーンを想起させた。そこでヴェンダースは、ヒロインのソルヴェイグ・ドマルタンに「愛の言葉」を語らせていたが、黒沢清はここで前田敦子に「愛の讃歌」を歌わせるのだ。
 ……この映画は、日本とウズベキスタン国交25周年記念の一環として製作されたという。だというのに、名所旧跡や美しい自然の景観以上に、黒沢作品らしく例によって怪しげな路地や廃墟めいた場所が多く映し出されるのを見るにつけ、これで本当にウズベキスタン側は納得したんだろうか、と思わずこっちが心配してしまう(笑)。
 だが、この国でのオールロケ撮影によって誕生した映画が、われわれ観客を「前田敦子」という女優にあらためて目を開かせるとともに(……何度でも言うが、本作の“あっちゃん”はマジで最高です)、黒沢作品におけるこれまでにない「世界」を開示してみせるものであったのだ。それだけでも本作が撮られたことに、われわれは感謝しようではないか。
 そう、映画評論家の蓮實重彦氏が本作に寄せたコメントにある通り、これは「新しい、まったく新しい黒沢清を発見できて、幸福でした」というしかない作品なのである。

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