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いつかどこかで見た映画 その106 『J・エドガー』(2011年・アメリカ)

“J. Edgar”

製作・監督・音楽:クリント・イーストウッド 脚本:ダスティン・ランス・ブラック 撮影:トム・スターン 出演:レオナルド・ディカプリオ、ナオミ・ワッツ、アーミー・ハマー、ジョシュ・ルーカス、ジュディ・デンチ、エド・ウェストウィック、デイモン・ヘリマン、スティーヴン・ルート、ジェフリー・ドノヴァン、ケン・ハワード、ジョシュ・ハミルトン、ジェフ・ピアソン、ジェシカ・ヘクト、ジョーダン・ブリッジス、ジャック・アクセルロッド、ジョシュ・スタンバーグ、クリスチャン・クレメン、ソンビリー・スミス、マイケル・レイディ、ジェフ・スタルツ、ライアン・マクパートリン、ダーモット・マローニー、リー・トンプソン

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 クリント・イーストウッドの映画は、常にあるどうしようもない苦さというか、「暗さ」を漂わせている。特に『許されざる者』以降の作品、とりわけ『ミスティック・リバー』と『ミリオンダラー・ベイビー』に至っては、見る者にほとんど精神的な“苦痛”を与えるほどの域に達しているほどだ(『目撃』や『スペースカウボーイ』のような、一見すると単純明快なエンターテインメント作品であっても、決して能天気に「明るい」わけではないだろう……)。
 いや、イーストウッドの映画は、その初期の出演作からそもそも「明るさ」とは無縁だったじゃないか、という向きもある。彼の人気を決定づけた『ダーティハリー』にしても、主人公ハリー刑事が凶悪犯を射殺した後、警察バッヂを投げ捨てるラストは、カタルシスというよりもほろ苦さに満ちていた。『ダーティファイター』のような純然たるコメディですら、イーストウッド扮する主人公がヒロインのソンドラ・ロックに手ひどくふられる場面など、何だかそこだけは、見ているこちらまで傷つくようなシビアさだったはずだ(まあ、あれは見るからに癇性のきつそうなソンドラ・ロックという女優のせい、という気もするが)。
 自身の製作会社であるマルパソ・プロの第1作『奴らを高く吊せ!』で、いきなり縛り首にされる主人公を演じ、監督第1作『恐怖のメロディ』では狂気のストーカー女に翻弄されるディスク・ジョッキーを、自らに演じさせたイーストウッド。最期は女たちになすすべもなく殺される『白い肌の異常な夜』の南軍兵士役を頂点に(……せっかくの人気スター生命をも台無しにしかねないこの陰惨な異色作に、最も出演を望んだのが当のイーストウッドだったことは、有名な話だ)、単なるタフガイ・ヒーローではない暴力誘発性[ヴァルネラビリティ]をまとったマゾヒスティックな“傷つけられる男”を、これまでもイーストウッドは好んで演じてきた。たとえ無敵のガンファイターを演じても、『荒野のストレンジャー』や、その変奏[リメイク]ともいえる『ペイルライダー』にあって、その正体は一度死んだ“幽霊(!)”なのである。そういう奇妙な屈折ぶりが、彼の作品に独特の陰影というか「暗さ」をもたらしてきたことは、もはや間違いない(……そのなかにあって、『ダーティファイター燃えよ鉄拳』や『ピンク・キャデラック』などのバディ・ヴァン・ホーン監督作品だけは、そんなイーストウッド的「暗さ」を払拭しようとしたものだった、といえそうだが)。
 そう、出演作にしろ監督作にしろ、イーストウッド作品はつねに「暗い」。それは、この男が何か悲劇的な〈観念〉に取り憑かれたペシミストというんじゃなく、たぶんイーストウッドにとってそれがこの〈世界〉そのものの“常態[アタリマエ]”なのである。人々は、というかわれわれは、そういった何の救いもない人生を生きている。あるいは、ただ死んでいくのだ。そしてこのイーストウッド的世界がほとんど〈地獄〉そのものとして描きだされたのが、『ミスティック・リバー』であり、『ミリオンダラー・ベイビー』だろう。前者の、パレードのなかに自分の子供をさがすマーシャ・ゲイ・ハーデンと、後者の、ひとりレモンパイを食べているイーストウッドの老トレーナー。それぞれのラストシーンにおける彼女や彼をとりまくのは、ともにある取り返しのつかない“過ち”であり“選択”をなしてしまったことへの、どこまでも救いのない「絶望」に他ならない。もはや悲劇というのも生ぬるいそれを、〈地獄〉と呼ばずして何といおう……
 だがしかし、文字通り〈地獄〉そのものとしての「戦争」を題材とした『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』の二部作を経て、イーストウッド作品にある“変化”が感じられるようになったのではないか。何というか、イーストウッドは、絶望の果ての「救い」を描くようになったように思うのだ。
 なるほど、『チェンジリング』におけるアンジェリーナ・ジョリーは、まだ幼いひとり息子の失踪という、これ以上ない悲劇に見舞われる。その後の展開も、ロサンゼルス市警の腐敗や、少年たちの連続誘拐殺人という猟奇的な犯罪をめぐるどこまでも陰鬱なものだ。
 けれど、どれほど過酷で絶望的な立場に追い込まれても、ヒロインは希望を失わない。それがどんなにわずかな可能性であろうと、息子の生存を信じ続ける。あるいは、信じ続けようとするのである(……ラスト近く、アカデミー賞を、「きっと『或る夜の出来事』が獲るわ」と予想し、上司の男と食事に行く約束をするアンジェリーナ・ジョリー。あの場面における彼女の、穏やかな微笑みの美しさ……)。
 あるいは『グラン・トリノ』にしても、確かにイーストウッド演じる主人公は、壮絶な最期を遂げる。が、自分の「死に場所」を得た彼の死を、いったい誰が「悲劇」などと思うだろう! あれは、仲良くなった移民少年とその一家を救うための、自己犠牲的な行為というより、あきらかに自らを“救済”するためのものだった。彼は、過去の呪縛からも、不治の病いからも、自分を疎んじる家族からも解放され、“救われた”。だからこそ、あの映画のラストは、すがすがしい「幸福」な余韻を漂わせていたのである。
 そして、イーストウッドの映画では極めて珍しいことに、作中で“誰ひとり死なない”という『インビクタス/負けざる者たち』を撮り、『ヒア アフター』へと至るとき、ぼくたちはハッキリと断言できるのだーーもはやイーストウッド作品を「暗い」とは、誰にもいわせないと。
 あの『ヒア アフター』のラストで、マット・デイモンが“幻視”する、フランス人の女性ジャーナリストと手をからませての抱擁とキス。それは、「来世[ヒアアフター]」を見通す能力を持つ(がゆえに、孤独な日々をおくる)彼が、はじめて見た「この世」のヴィジョンだ。その後ふたりは、雑踏のカフェで親しげに語らう。ほとんど色彩を持たなかった近年のイーストウッド作品にあって、このラストにあふれる色彩の何と鮮やかで美しいことだろう! ……そうしてぼくたちは、このラスト場面こそ「〈地獄〉の映画作家」イーストウッドがはじめて描いた〈天国〉であることを、深い感慨(と感動)とともに確信するのである。
 『チェンジリング』から『ヒア アフター』へーー絶望から“救済”へと向かう、イーストウッド監督。けれど、その最新作『J・エドガー』は、また少しく趣きが異なっている。というのもこれは、とても“救われる”に値しないほど哀れな、ある権力者の「伝記映画」なのである。
 レオナルド・ディカプリオが演じるその人物とは、ジョン・エドガー・フーヴァー。彼は、FBI初代長官として実に50年以上も君臨し、歴代大統領をはじめ大物たちのスキャンダルを握ることで、権力を保持し続けた。この、良くも悪くも20世紀アメリカを代表する人物像は、これまでのイーストウッド作品にあっても異色なものだろう。なぜなら、これまでのイーストウッド的主人公[ヒーロー]は、常にほとんど社会や国家といった「体制」からのハミ出し者、“アウトサイダー”であったからだ。
 実際、この映画のエドガーは、同じディカプリオが『アビエイター』で演じたもうひとりの伝説的巨人、ハワード・ヒューズを想起させずにはおかない。どちらも生涯にわたって母親の強い影響下にあり続け、絶対的な権力者としてふるまいながら、時に吃音や強迫神経症として顕在化する、精神的な「危機」の持ち主。ーーこの同じディカプリオによるほとんど“表裏一体”の人物像から浮かび上がってくるのは、彼らが抱える「病理」こそ20世紀アメリカの「本質」だという認識だろう。ともにメディアを利用した自己宣伝に長け、必要以上に自分を「英雄」として偶像化しようとした、卑小な偏執狂者[パラノイア]たち……
 そして、ギャラを大幅にカットしてまで出演を熱望したディカプリオは、この2作品のそんな主題の連続性に、間違いなく自覚的だったのではないか(……中年にさしかかっても“童顔”というハンディキャップを、俺は演技で乗り越えてみせるといった、いつもながらの涙ぐましい熱演ぶりをみせるディカプリオ。だが彼のそういった“聡明さ”こそは、やはり評価されるべきだろう)。結局のところ『J・エドガー』は、イーストウッドというより“ディカプリオありき”の作品だったというべきなのか?
 ……映画の冒頭、執務室で自伝を口述し、それを部下に筆記[タイプ]させる老エドガー。そこで語られるのは、FBI創設とともに歩んできた1920年代から現在までの回想だ。
 まだ20代前半で、司法省の新たな捜査局のトップに抜擢。以来、科学的捜査[プロファイリング]を積極的に取り入れ、ギャングや、とりわけ共産主義者の検挙率をあげるために邁進する。そして、その転機となったのが、“空の英雄”リンドバーグの愛児が誘拐され、殺されるという事件だった。この難事件を全米が注目する中、エドガーたちは見事に(というか、強引に!)容疑者を特定し逮捕することで確固たる地位を確率するのである。
 そういった華々しい活躍をみせる一方で、異常なまでに共産主義者を敵視し、政治家や大統領すら盗聴・脅迫するような陰湿さを併せ持った、エドガーという男。ーー映画は、エドガーの回想で語られる“明”の部分と、彼が決して語ろうとはしなかった“暗”の部分を交差させつつ、時代の変遷をからめつつ物語っていく。そのよどみない流麗な語り口には、監督としてのイーストウッドの懐の深さをあらためて見せつけられる思いだ。
 が、それ以上に印象深いのは、やはりここでも“救済”をめぐる映画のまなざしなのである。この、虚偽と虚勢にまみれた巨人ならぬ「虚人」の、ときに滑稽なほど哀しい卑小さを徹底して描きつくしながら、映画は、エドガーが母親以外に心を許したふたりの人物を用意する。ひとりは個人秘書ヘレン(ナオミ・ワッツ)で、もうひとりは副長官クライド(アーミー・ハマー)。ヘレンとは、出会った頃に一度はプロポーズしながら断られ、クライドとはお互いにホモセクシュアルな愛情を抱き合いながらも、最後の一線を踏みきれない。それでもヘレンやクライドは、生涯にわたってエドガーを支え続ける。さらには、その“死後”までも彼を護りぬくのである。
 彼らの、この度はずれた忠誠心がどこからくるのか、映画はほとんど何も語らない。ただ、老境にはいったエドガーが、すっかり身体の弱ったクライドとみせる辛辣だが愛情のこもった日常のやりとりのなかに、彼らの長い歳月にわたる関係というか“きずな”の深さを実感させずにはいない。そのおだやかなユーモアと、老いを直視する“残酷さ”もまた、イーストウッドならではだろう。
 ……そしてラストの、クライドが流す涙と、ヘレンがとったある行動が観客に教えてくれるもの。それは、少なくともエドガーという男が、人生の最後の最後で彼らによって“救われた”ということだ。そしてぼくたちもまた、この唾棄すべき哀れな男に、このような“救済”を与えるイーストウッドの「優しさ」に、深く深く感動するのである。

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