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いつかどこかで見た映画 その107 『マネーボール』(2011年・アメリカ)

“Moneyball”

監督:ベネット・ミラー 脚本:スティーヴン・ザイリアン、アーロン・ソーキン 原作:マイケル・ルイス 撮影:ウォーリー・フィスター 出演:ブラッド・ピット、ジョナ・ヒル、フィリップ・シーモア・ホフマン、ロビン・ライト、クリス・プラット、ケリス・ドーシー、スティーヴン・ビショップ、ブレント・ジェニングス、ニック・ポラッツォ、ジャック・マクギー、ヴィト・ルギニス、ニック・サーシー、グレン・モーシャワー、アーリス・ハワード、ケン・メドロック、ケイシー・ボンド、ロイス・クレイトン、タカヨ・フィッシャー、タミー・ブランチャード、リード・トンプソン、ジェームズ・シャンクリン、ダイアン・ベーレンズ、リード・ダイアモンド

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 いつだったか映画好きの友人とダベっていたとき、“映画は脚本[ホン]で決まるーーとは、限らない”という話題になったことがあった。「シナリオが一流なら、監督が仮に二流三流でもいい映画はできる」と黒澤明はのべているけれど、本当だろうか。どんなにすぐれた脚本だって、結局のところ生かすも殺すも監督や役者次第なのでは? そう、何事も「シナリオ通りにはいかない」が世の常じゃないか……云々。
 もっともそれは、実際の撮影現場におけるハナシ。莫大な予算を投じるアメリカ映画の「大作」にとって、脚本とは、やはり「カネを稼げる映画になるか否か」を占う重要なファクターのひとつに違いない。優れた脚本さえあれば、スター俳優も、ヒットメイカーの監督も、より獲得しやすくなる。結果、製作資金が集めやすく、ヒットが見込める作品としての可能性が高まる、というわけだ。
 映画会社の首脳陣たちは、そのホンの内容によって製作のゴーサインを出したり、撮影途中でも変更を要求したり、時には中止を決定したりする。ただ、以前(拙稿「その42」参照)に書いた『カウボーイ&エイリアン』の場合、たぶん西部劇とSFをクロスオーバーさせた同じような趣向のウィル・スミス主演作『ワイルド・ワイルド・ウエスト』の興行的・批評的失敗(……あの“最低映画賞”ことゴールデン・ラズベリー賞を、作品賞ほか堂々5部門で独占!)も影響して、企画自体が紆余曲折あっただろうことは想像に難くない。
 つまるところ、カネを出す側からすれば、やっぱり“映画は脚本で決まる(というか、「決める」)”ということか。それゆえ、映画の企画が、脚本の段階で二転三転するというのも、よく聞かれるところではある。特にアメリカ映画の場合、1本の映画のシナリオに何人もの脚本家が雇われ、前人の書いたホンに手直しを加え、それをまた別の脚本家がリライトし……ということが、むしろ「あたりまえ」なのである。脚本としてクレジットされる者の背後には、そういった表舞台に名前が挙がらないライターたちの“影[ゴースト]”が、うごめいているものなのだ。
 実際、『カウボーイ&エイリアン』では、最終的に「脚本」として3名、さらに「原案」として3名が正式にクレジットされている。この数だけでも異例の多さだが、彼らの前に、さらに6名のシナリオライターたちが本作にかかわっているとのことだ。ーーいやはや、この1本の映画に、少なくとも「12名」のライターが関係しているとは!(それはまた、最初の企画から実現まで15年かかったという、この映画の難産ぶりを物語るものでもあるけれど……)。
 彼らは製作プロクションや監督、キャストが変更になったり決定したりするたびに、シナリオを手直し、あるいは最初から書き直す。それをまた別のライターがリライトし、最終的には監督が手を加えたりする。『カウボーイ&エイリアン』の場合も、「最初の脚本では多彩なジョークがあり愉快」なものだったのが、「次稿では非常にシリアスになった」とは、脚本家のひとりであるロベルト・オーチー自身が語っているが(『トータル・フィルム』誌ウェブサイトのインタビュー記事より)、それは主演が、当初の予定だったロバート・ダウニーJrから、ダニエル・クレイグへと変更されたことにも影響されているのかもしれない(……そして、前回も書いた通り、この映画にほとんど「ユーモア」がないという、その一点こそが、少なくともぼくにとって最大の不満なのだった)。
 さて、脚本でモメたといえば、ブラッド・ピット主演の最新作『マネーボール』も相当のものだったようだ。原作は、メジャーリーグの“貧乏球団”オークランド・アスレチックスの若きゼネラル・マネージャー、ビリー・ビーンが、革新的な野球理論でチームを見事に立て直す2002年のシーズンを取材したノンフィクション。これをスティーヴン・ザイリアンが脚色し、当初は『プラダを着た悪魔』のデイヴィッド・フランケル監督とブラッド・ピット主演で映画化が企画されていた。
 その後フランケル監督は降板し、スティーヴン・ソダーバーグ監督が撮ることになったものの、今度は撮影開始3日前に突然中止が決定されてしまう。それは、ザイリアンのシナリオをソダーバーグ監督が大幅に書き直し、それを目にした映画会社の首脳が、「この脚本では客が来ない」と判断してとのことだったという……(以上、『バラエティ』誌および『ハリウッド・レポーター』誌記事に基づく)。 
 普通なら、この段階で企画自体が流れてしまってもおかしくないだろう。が、ソダーバーグ監督が降板を表明した直後に、会社側はふたたびアーロン・ソーキンを雇って脚本のリライトに着手する。そして、長編劇映画デビュー作『カポーティ』でいきなり注目されたべネット・ミラー監督によって、ようやく作品が完成したという顛末。
 ーーとまあ、そんな製作の裏事情など、映画を見るうえで観客に何の関係もないのかもしれない。けれど、ソダーバーグほどの監督でもクビになるあたり、アメリカ映画が脚本をいかに重要視しているのかがわかるというものだ。
 そう、この映画が撮影前にもめたのは、そもそも会社側(と、製作も兼任するブラッド・ピット)が高く評価していたスティーヴン・ザイリアンの脚本を、ソダーバーグが書き換えたことにあった。それでソダーバーグは解任され、あらためてザイリアンのシナリオを、アーロン・ソーキンが撮影用台本としてリライトする。結果として、ふたりのアカデミー賞受賞者の脚本家がクレジットされるという、何とも贅沢な“共同作業[コラボレーション]”が実現したのである(もっとも、この時点でソーキンの脚本賞受賞作品『ソーシャル・ネットワーク』は、公開はおろか撮影すらまだだったのだが……)。そして、この映画を見るぼくたちは、どこまでがザイリアンの手になって、どこからがソーキンが手を加えたのかを、思案しながら本作を見る愉しみ(……そう、それもまた映画を見る「愉しみ」でなくて何だろう!)を得られた、というわけだ。
 経営難で多額の年俸を払えず、主力選手が他の球団に引き抜かれるのを黙って見ているしかない主人公ビリー。彼は、旧態依然たるベテラン・スカウト陣の意見よりも、イェール大経済学部出身の若僧ピーターによる、統計を駆使して、「打率や本塁打数よりも、出塁率の高さこそが重要だ」と提唱する理論に賭ける。やがて「マネーボール理論」と呼ばれるそのセオリーにもとづき、ビリーは、年齢や故障などで解雇されたり低評価に甘んじる他球団の選手たちを、次々とチームに迎え入れていく。
 周囲の反発や批判にさらされながら、決して妥協することなく突き進むビリー。そして、シーズン開幕当初こそ低迷したものの、ニューヨーク・ヤンキースの実に3分の1という年俸のチームは、じりじりと勝ち星をあげていき、ついにメジャーのアメリカンリーグ公式戦20連勝という途方もない記録をうち立てるのだ。
 と、まあ展開だけを見るなら、これは典型的な「サクセス・ストーリー」以外の何物でもない。ーー信念を貫く主人公と、それを阻もうとする者たち。その果てにつかみ取る「勝利」の瞬間……。まさに主人公ビリーは、アメリカン・ドリームの体現者たる「英雄[ヒーロー]」そのものだろう。
 だが、ソーキン脚本の『ソーシャル・ネットワーク』がそうだったように、これは、実在の人物に材を得た単なる成功譚というよりはるかに、ある個人の生きざまを通じて同時代的[コンテンポラリー]かつ思索的な「内省性」へと見る者を導く、すぐれて知的な映画だといえるに違いない。と同時に、ザイリアン脚本の『シンドラーのリスト』がそうだったように、これは、ひとつの「歴史」を変えた人物が“何を成し遂げたか”という伝記的な側面より、その「内面」の変化(それを、「成長」とも「成熟」とも「覚醒」とも、呼んでいい)を見つめようとした映画でもある。
 そうなのだ、デイヴィッド・フィンチャーが監督した『ソーシャル・ネットワーク』は、主人公が“何かを成し遂げた(=成功した)ことで失ったもの”の大きさを、まさにひとつの「悲劇」として描いたものだった。革新的なネットワーク・システムで社会的な成功を得たはずの主人公が、一方で最も「かけがえのないもの」を喪失したその“空虚さ”を鮮やかに浮かび上がらせたラスト。あの場面には、真に現代的な悲劇性が満ち満ちていたのではなかったか(……公開当時、『市民ケーン』と比較する評があったのは、その意味でこそ正当だったとぼくも思う)。
 一方、この『マネーボール』の主人公ビリーは、将来を嘱望されながらメジャーの選手として大成しなかったという、失意の過去が語られる。そんな男が、今度は弱小球団のゼネラル・マネージャーとして、球界の常識をくつがえす革新的な理論で優勝をねらえるチームづくりを実現してみせる。まさに、「失ったことで、何かを成し遂げた(=成功した)」人物なのである。そしてその成功によって、彼には他球団から多額の年俸で引き抜きの声がかかるのだ。
 けれど、エンド・クレジット前に出る字幕で伝えられるとおり、ビリーは現在(2012年)もアスレチックスにとどまり、ワールドシリーズの優勝をめざしている。ーーそう、彼は決して何かを「成し遂げた(=成功した)」とは考えていない。というか、彼は、「金額」に置き換えられるような成功よりも、もっと「かけがえのないもの」があることを知ったのだ。あの、オスカー・シンドラーのように。あるいは、驚嘆すべき美しさをたたえたザイリアンの初監督作、『ボビー・フィッシャーを探して』(……これは本当に素晴らしい作品だった!)の天才チェス少年のように。
 ……こうして、僕にとって『マネーボール』は、アーロン・ソーキンとスティーヴン・ザイリアンという名脚本家たちの、理想的な合作ぶりを堪能できる作品となった。もちろん、それを見事に映像化してみせたべネット・ミラー監督の手腕も、高く評価されるべきだろう。メジャーリーグという喧騒と熱気に満ちた世界を描きながら、あくまでも静謐な映像[キャメラ]と、そのクールさのなかから登場人物たちの“体温”が確かに伝わってくるような演出は、昨今のアメリカ映画とは異質な、だが「本物」の才能を感じさせてくれる(……愛する娘が贈ってくれたテープから流れる、彼女の歌声を聴く主人公。その眼差しのクローズアップでしめくくられるラストの感動を、ぼくは長く忘れないと思う)。今となっては、ソダーバーグが監督しなかったことを“感謝(!)”したいくらいだ。
 まこと、これは2011年度最高のアメリカ映画の1本である。

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