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いつかどこかで見た映画 その120 『レッドクリフ Part1』(2008年・中国=香港=日本=韓国=台湾=アメリカ)

“赤壁”

製作・監督・脚本:呉宇森(ジョン・ウー) 脚本:陳汗(チェン・カン)、盛和煜(シェン・ホーユー)、郭筝(グオ・ヂョン) 撮影:呂楽(リュイ・ユエ)、張黎(チャン・リー) アクション監督:元奎(コリー・ユン) 出演:梁朝偉(トニー・レオン)、金城武、張豊毅(チャン・フォンイー)、張震(チャン・チェン)、趙薇(ヴィッキー・チャオ)、胡軍(フー・ジュン)、中村獅童、林志玲(リン・チーリン)、尤勇(ヨウ・ヨン)、巴森扎布(バーサンジャブ)、臧金生(ザン・ジンシェン)、王輝(ワン・ホゥイ)

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 ジョン・ウー監督とその作品は、正直ぼくにとって実に悩ましい存在だ。もちろんこの、“香港ノワールの立て役者にして、アメリカで最も成功したアジア人監督”を、ぼくだって心からリスペクトするにやぶさかでない。その監督作品も、長編第1作の『カラテ愚連隊』をはじめ、香港映画に疎いぼくにしてはかなり熱心に見ている方だと思う。
 でも、彼がアメリカで撮った映画に対しては、例外もあるけれどほとんど好きになれないんである。この“落差”はいったい何なんだ……。今回、ウー監督の長年来の夢だった『三国志』の映画化である『レッドクリフ』を前に、あらためてウー作品の魅力を、その「本質」の何たるかをここでぼくなりに考え、整理してみよう。
 ジョン・ウー監督は、「ヴァイオレンス映画の詩人」といった表現で語られる。なるほど、そのスローモーションを駆使したアクション場面は、凄絶にして華麗、確かに目を見張る素晴らしさだ。かつてはサム・ペキンパー監督の“亜流[パクリ]”と揶揄する向きもあったけれど、すでに『カラテ愚連隊』のなかでも部分的に用いられていた(……木の葉だったか一輪の花だったかが、はらりと落ちるラスト近くのスローモーション場面は、すべてに荒けずりなこの映画にあって突出して美しい)その手法は、むしろ暴力や殺戮場面をリリカルに“浄化”するものではないか。そういう意味で、なるほど彼はまぎれもなく「詩人」だ。ウーの描く世界は常に「暴力的」だが、彼の映画そのものは本質的に「叙情的」なのである。その前ではペキンパー作品の方こそが、むしろ「死のスペクタクル化」に終始しているとすら見えてしまうだろう(もちろん、ペキンパーもまた「叙情」の人であることは承知のうえだが)。
 もっとも、とはいえ『男たちの挽歌2』の後半における、敵味方入り乱れて繰り広げられる“皆殺し”場面は、今ならそうでもないんだろうけれど(ウー作品の影響を受けたタランティーノやその他の監督による、どんどん過激かつ露骨になっていった映画を、ぼくたちはあまりに見慣れてしまっている……)、やっぱり「やり過ぎ」だと思えたし、それをさらにエスカレーションさせた『ハードボイルド/新・男たちの挽歌』の、病院での一般患者たちを巻き込んだ大乱射場面に至っては、もはや悪しき様式化というか「型式主義」に陥っている。リリシズムを喪ったジョン・ウー作品は、ただ殺伐としたバイオレンスだけが突出する“空虚さ”を否定できない。ジョン・ウーは、前述のタランティーノ監督にあるような「ニヒリズム」とは徹底して無縁であり、それが彼の作品の魅力(と同時に「弱さ」)なのだから。
 そして、ジャン=クロード・ヴァン・ダム主演の『ハード・ターゲット』にはじまるアメリカに渡ってからのジョン・ウー作品は、そのほとんどがリリシズムを忘れた(あるいは形骸化した)ものか、戦争映画やSF映画すらも器用にこなす「御用監督」としてのそれになり果ててしまった……。
 いや、それは違うだろと、大いに反論が出るかもしれない。けれど、いくらエンターテインメントとして上出来で、男たちの友情と裏切りのドラマだの、2丁拳銃だの、白いハトだのといった香港映画時代からの“十八番”を盛り込もうと、本当の「ジョン・ウー」はそんなもんじゃないだろう、と(……しかし『フェイス/オフ』だけは、いかにもアメリカ映画的な派手派手しい“衣装”と、ジョン・ウー監督本来の“意匠”とが見事に融合[フュージョン]した文句なしの傑作だったと、ぼくも信じて疑わない。その点については、後述することになるだろう)。
 以上、ここまで書き連ねて、ではあらためて香港時代とアメリカ時代でジョン・ウー作品の、いったい何が異なるのか。それは「ハリウッド映画」の宿命ともいうべき商業主義的な要請への妥協ゆえなのか、一見いかにもこの監督にふさわしいようで、その実まるでウー作品の〈本質〉を解していない企画なり脚本ですら引き受ける(『M:I−2』は、渋るジョン・ウーをトム・クルーズが口説き落としたというこだが)ことによるものなのか? 『ペイチェック 消された記憶』のような、別にジョン・ウーが監督する必然性など皆無の「エンターテインメント大作」を見た時など、もはやもの哀しさを禁じ得なかった。ーーこれなら、たとえ「失敗作」であっても『ウインドトーカーズ』の方がよっぽど“納得”できるというものだ、と。けれど、香港映画時代のウー作品もまた本来「エンターテインメント」以外の何物でもなかったではないか……
 ひとついえるとするなら、『男たちの挽歌』や『狼/男たちの挽歌・最終章』などはもちろん、『狼たちの絆』のような“軽め”のものですら、香港時代のジョン・ウーの映画の根底にあるのが〈仁〉と〈義〉に殉ずるという男たちの精神的連帯[ホモソーシャル]だった。孟子の説く「仁は人の心なり、義は人の正路なり」という有名な言葉の通り、彼らはおのれの信じる「正路」を貫き、たとえ敵味方であろうと「心」ある者対してに敬意を払い合う。一方で、「大道廃れて仁義あり」という老子の言葉を思い出す時、彼らは「大道」をはずれた「極道(!)」を生きる者たちだからこそ、〈仁義〉を重んじるしかないともいえる。
 ジョン・ウーの映画は、そういった〈仁義〉をめぐる男たちの連帯と裏切りを描くことで成り立っていた。男たちは〈仁〉を生きようとし、〈義〉を裏切った者に対して文字通り命がけで闘う。そこに黒スーツとサングラス、2丁拳銃、至近距離で銃口を向け合う構図、白いハト……といった道具立てが加わることで、彼らの闘争劇は一種の「美学」にまで昇華され、演じるチョウ・ユンファやレスリー・チャンをはじめとする男優たちもまた、かくも輝きだすことになるのだ。
 繰り返そう、ジョン・ウーの映画は〈仁義〉をめぐる男たちのドラマだった。逆にいえば、そういった〈観念〉に縛られて生きざるを得ない者たちの「悲劇」を、過剰ともいえるアクション場面のなかにしっかりと見据えることにその真骨頂があった。その独特のスローモーションがおびる「叙情性」も、まさにそこから由来するものに他ならない。
 しかるにアメリカに渡ってからのウー作品は、それを単なる「正義と悪の対決」といういかにも「ハリウッド的」なドラマツルギーへと還元してしまう。その時、そこにいくらジョン・ウー的な意匠=衣装を盛り込もうと、それはもう決して「ジョン・ウー作品」ではないのだ(……ただ『フェイス/オフ』だけは、ニコラス・ケイジとジョン・トラヴォルタが“顔を入れ替える”という設定によって、ヒーロー対アンチ・ヒーローの対決という構図を超えてしまった。そこに現出したのは、もはや正義でも悪でもなく、〈仁〉でも〈義〉でもない、ただ「顔(=自己)」を取り戻そうとする男の純粋な闘争劇だ。その意味で、アメリカ時代はもちろん香港時代とも一線を画す本作こそ、実のところぼくはジョン・ウー監督の「最高傑作」だと思っている)。
 ……たぶん、そういったことはウー監督自身が最もよく分かっていたんだろう。『三国志』映画化の構想は今から18年前ということだけれど、それはアメリカに渡る直前の、香港で撮った作品のなかでは最も「ハリウッド映画」的な『ハードボイルド/新・男たちの挽歌』の頃だ。その当時からウー監督は、アンチ・ヒーローたちの「挽歌」を謳うのでも、(ハリウッド映画的な)ヒーロー譚の「再生産」でもない、〈仁〉や〈義〉はもちろん、儒教でいう〈礼・智・信〉をも備えた真の「英雄本色」(とは、いうまでもなく『男たちの挽歌』の原題だ)を描きたかった。その理想的な舞台であり人物像を、『三国志』に見出していたのだ。
 西暦3世紀初頭の中国を3つに分かっていた魏・呉・蜀の三国が、互いに天下統一を賭けて渡り合うといった、長大かつ波瀾万丈の史実。そのなかから「赤壁の戦」に焦点をあてた『レッドクリフ』は、2部作となっている。作品としての評価はもちろん次作を待たなければならないのだろうけれど、この「Part1」だけでも、ジョン・ウーが込めた熱意と野心、そしてここで目指そうとしたものは熱すぎるほどに伝わってくる。
 それは、歴史にてんで無知なぼく(……『三国志』と聞いて真っ先に思い浮かんだのは、マキノ雅弘監督の『次郎長三国志』だった)ですら名前くらいは知っている周瑜であり諸葛孔明であり劉備でありーー等々といった中国のいにしえの英雄豪傑たちを、いかに“世界に通じる「ヒーロー像」”として描き得るか、その一点に尽きるだろう。いや、むしろそれ以上にウー監督は、彼らを演じるトニー・レオンや金城武、フー・ジェン、リン・リーチン、ヴィッキー・チャオ、中村獅童をはじめとした東洋人[アジアン]の役者たちを、いかに「美しく見せる」かこそに心血を注いだのだ、とすらいっても良い。それほどに、この歴史大作は大規模なスペクタクル場面の数々をはるかに凌駕して、彼ら個々の役者たちの「顔」が、立ち居振る舞いのカッコ良さが、何より際立って魅力的なのだ。
 アメリカ映画にあっては、たとえトム・クルーズやトラヴォルタであっても、彼らが演じる「キャラクター」以上の魅力を与えられなかったジョン・ウー(……『M:I−2』でも『フェイス/オフ』でも、彼らスターたちの「顔」は、変装なり移植手術なりでいくらでも“取り替え可能”なものにすぎなかったことを思いだそう)。ウー監督は、彼らハリウッド・スターたちにただの「正義面[ヅラ]」や「悪党面[ヅラ]」をしか与えなかったし、それをせいぜい黒スーツやサングラスで飾り立てることしかしなかった。〈仁〉も〈義〉も欠いた単なるアメリカン・ヒーローや悪玉[ヒール]役でしかない彼らには、それしか出来なかったのだ。
 それに比して、『レッドクリフ』のアジア人俳優たちの美丈夫ぶりたるやどうだ! いつもながらに素晴らしいトニー・レオンはもちろん、たとえばバーサンジャブという、日本では無名の男優が演じる関羽の惚れ惚れするような質実剛健ぶりなど、彼らの「カッコ良さ」は間違いなく中国人の、アジア人の、オリエンタルの人々の「カッコ良さ」を、文字通りカッコ抜きで世界に知らしめるものだろう。
 ジョン・ウーの映画の本質は「顔」である。これでもし当初の予定通り、ここにチョウ・ユンファの「顔」があったなら、この映画は“完璧”だったのにーーと、それだけが残念でならない。

(……そして「Part2」を見終わって、「1」にあった“熱気”、何より戦闘場面の派手なスペクタクルにともすれば演者たちの「顔」がないがしろにされていることに、深く、深く、ため息をついたのだった。もっとも、あれから見返していないので単なる勘違いかもしれない。)

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