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いつかどこかで見た映画 ショートver. 『釣りバカ日誌10』(1998年・日本)

監督:栗山富夫 脚本:山田洋次、朝間義隆 撮影:花田三史 出演:西田敏行、三國連太郎、浅田美代子、奈良岡朋子、金子賢、宝生舞、中本賢、夏八木勲、加藤武、鶴田忍、竜雷太、小野寺昭、塩谷俊、中村梅雀、谷啓、笹野高史、細川ふみえ、なぎら健壱


(この文章は1998年7月に書かれたものです。)

 正直に告白してしまおう。ぼくにとってこの『釣りバカ日誌』シリーズと栗山富夫監督は、つい最近までほとんど関心の外だった。ちゃんとスクリーンで見たのは初期の3作だけで、あとはテレビで放映していたらちょっとのぞき見る程度。栗山監督の名前にしても、世評の高かった『祝辞』が(財津一郎や工藤夕貴ら役者は確かに魅力的だったとはいえ)個人的にいまひとつ乗れず、以来『ハラスのいた日々』も未見のまま、「手堅いだけの職人演出家」と決めこんでいたと思う。
 だが、ひさしぶりに映画館で見た『釣りバカ日誌9』によって、ぼくはそれまでの安易な認識を大いに反省することになる。それまで見てきたこのシリーズ作品は、西田敏行と三國連太郎による“ハマちゃん・スーさん”コンビの掛け合い漫才的ドタバタを売りにしながら、実はハマちゃん一家とその周辺の人びとをめぐる一種のホームドラマだった。釣り、そして妻のみち子さんと息子の鯉太郎をこよなく愛するハマちゃんは、当然ながらその度を超した「マイホーム主義」が周囲とのトラブルを巻き起こす。しかし、どんなにハマちゃんが傍若無人に振る舞おうと、それはせいぜい万年ヒラ社員に甘んじる程度の、つまりは「常識的」な範囲内での身勝手さでしかない。彼はどうやら会社をクビにならない程度には働いている(らしい)のだし、だからこそ周囲もまた適当に許し、甘やかしてしまうのである。
 そんな前提のもとハマちゃんは、スーさんやみち子さんなど身近[アットホーム]な人びとと微笑ましくも他愛ない騒動を繰りひろげる。──と、以上が『釣りバカ日誌』シリーズな基本的なフォーマットであり、その魅力であると同時に限界でもあるだろう。観客はいつしかハマちゃんたち登場人物を自分の身内のように感じ、彼らがなにをしても笑って受け入れようとする。さらに言うなら、どんなにつまらないギャグやストーリー展開であろうと、とりあえず“笑ってやる”のだ。
 もちろんそれは、とりもなおさずシリーズものとして「成功」した証しには違いない。でもそこにあるのは、結局のところ映画が観客に甘え、媚びているだけじゃないか(……今にして思えば、森崎東監督が撮った『釣りバカ日誌スペシャル』とは、まさにそういった“甘えの構造”そのものを撃つ、というか逆照射するものだったと言える。ハマちゃんが、妻のみち子さんとスーさんの「関係」を妄想して嫉妬に狂うといった内容は、生ぬるいホームドラマ的世界とそこに浸っていた観客の両方にとって強烈な“しっぺ返し”だったはずだ)。
 けれども、『釣りバカ日誌9』は違った。まず何よりそこでは、ハマちゃん一家のホームドラマ(と、ほのぼのコント)的な要素が姿を消し、ハマちゃんとスーさんのドタバタすらほとんど影を潜めてしまっているのである! いわばシリーズ最大の“売り”をあえて封じてまで『9』がこだわったのは、小林稔侍と風吹ジュンによる中年男女のラブストーリーであり、単ある“ボケ役”スーさんではない三國連太郎扮する会社社長の、仕事と人生に疲弊しきった姿だ。
 映画は彼らを通じて、いっぽうでは「松竹大船調」と呼ばれたメロドラマ的情感を、もういっぽうでは会社に代表される現代社会の閉塞感をそれぞれ際だたせていく。そのうえで、西田敏行のハマちゃんが両方の流れを攪乱し、挑発し続けるといった道化=トリックスターとして振る舞うのである。
 こうなると、もはやハマちゃんはこの映画の主役ではあっても、決してドラマの主人公ではない。だが、周囲に甘えながらもそのことに徹底して無自覚だったこれまでに比べ、他人のドラマにちょっかいは出しても介入せず、それでもなぜか事態をよい方向へと導いてしまう彼こそ、本来このキャラクターが担うべき姿ではなかったか。残念ながら観客動員数においては成功とはいかなかったようだけれど(考えてみれば、それはある意味で従来の『釣りバカ』ファンを“裏切った(!)”のだから、仕方ない面もあるが)、作品として『釣りバカ日誌9』は見事に充実したものとなった。少なくともぼく個人は、その年の日本映画を代表する1本だったとすら今なお信じて疑わないのである。
 だから今回『釣りバカ日誌10』に、ぼくが多大な関心と期待をもって臨んだことは言うまでもないだろう。前作でみせた“大胆さ”を、今後このシリーズは継承するのか否か。するとすればそれは、どういうかたちで見せてくれるのか……。
 ということで今回は、まずスーさんの社長辞任劇と再就職騒動が描かれ、それと並行して金子賢と宝生舞の若いカップルによるラブストーリーが語られる。なるほど、展開としては前作の『9』をほぼ踏襲したものであるといっていいだろう。
 ただ、ここではハマちゃんスーさんのツッコミとボケの“漫才コンビ”ぶりが復活し、あれほどシリアスな調子[トーン]だった(それゆえハマちゃんの“破調ぶり”が見事な異化効果をあげた)前作とは打って変わってのコミカルさ。なぁーんだ、これじゃ今までのパターンと結局は同じに戻っちゃったじゃないか……。
 と、やや失望を禁じえなかったところ、この『10』はあるとんでもない仕掛けを、というか「爆弾」を用意していたのである!
 ともあれ、映画の終盤近くに登場するその場面は、ヘタをすると本作はおろか、このシリーズそのものをぶち壊すほどのインパクトを持っていた。あくまで〈日常〉的な地平を逸脱することなく成立してきた『釣りバカ日誌』のドラマ空間に、唐突かつ凶暴なまでに〈非日常〉な“笑い”を持ち込んできたその意外性たるや。
 しかし、というかだからこそ、この場面はめちゃくちゃ可笑しい。それまでの、つましい日常的かつ小市民的な人情喜劇としてのみずからをも一挙に粉砕してしまう“破壊力”を最後に仕掛けてみせた栗山監督(そう、これは絶対に脚本を担当した山田洋次と朝間義隆のセンスではなく、あくまで栗山富夫監督のものだとぼくは確信している)の“大胆さ”は、やはり本物だったのだ。
 それにしても、いったいそれがどんな場面だったかを説明できないのが残念でしかたない。間違いなく最近の映画のなかではいちばん笑えます、とだけ言っておこう。そして、前作の大船調メロドラマ、今作のシュールな破壊的ギャグときた『釣りバカ』シリーズの、次なる「映画的冒険」がぼくは楽しみでしかたないのである。

(補記:その後、周知のとおり1998年の年末公開『花のお江戸の釣りバカ日誌』を最後の担当作として、栗山監督はこのシリーズを降板する。それからも2009年まで10作が製作されるが、残念ながらぼくという観客にとってそれらはふたたび関心の外となった……。)


この場面の“破壊力”たるや……

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