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いつかどこかで見た映画 その58 『THE GUILTY/ギルティ』(2018年・デンマーク)

“Den Skyldige”
監督:グスタフ・モーラー 脚本:グスタフ・モーラー、エミール・ナイガード・アルベルトセン 出演:ヤコブ・セーダーグレン、イェシカ・ディナウエ、ヨハン・オルセン、オマール・シャガウィー、ジェイコブ・ウルリク・ローマン、ローラ・ブロ

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 映画のことを、かつて日本で「活動写真」と呼んでいたのは周知の通り。昭和のはじめ頃まで、人々は映画を見に行くことを「カツドウを見に行く」と言っていた(……そういえば、今でも映画人は自らを「カツドウ屋」と称したりするんだろうか)。
 この活動写真とは、これまた言うまでもなく英語の「モーション・ピクチャー」を和訳したものだ。“動く(=活動する)写真[モーション・ピクチャー]”という、つまり映画というものの「本質」をこの一語は示している。
 そう、映画とは“動く”ものだ。1895年にフランスのリュミエール兄弟が世界最初の映画の有料上映会を催し、わずか数分の短編『ラ・シオタ駅への列車の到着』で、客席に向かって走ってくる汽車に観客たちが思わずのけぞったという逸話を生んだときから、人々は映画における“写真(=画)のなかの人やモノが動く”ことに魅了されたのである。
 以来、主人公たちがほとんど現実離れした超人的な動作[アクション]を繰りひろげ、そのスリルやスピード感で手に汗にぎらせる映画は、初期のチャップリンやキートンらのスラップスティック喜劇や西部劇などの時代から、現在のCG映像を駆使したスーパーヒーローものアクション映画まで、いわゆる「娯楽映画」の主流もしくは“王道”と言っていい。
 かつてアメリカ映画の父G・W・グリフィス監督は、「映画は女と銃である」と定義した。つまり映画とは、とどのつまり「セックス」と「アクション」なのであると。そして、目にも艶やかな美女と美男がスクリーンで誘惑的なラブシーンを演じ、一方で次々と新奇なスペクタクルを創造し続けるアメリカ製娯楽映画(いわゆる「ハリウッド映画」)は、ゆえに“映画の覇権”をにぎり続けてきたのだった。
 では、いささか唐突だが、ここでグリフィスの言う「銃」を「電話」に置きかえてみたらどうだろう? 映画にあって、電話というものの在り方というか“立ち位置”にあらためて注目してみよう。ーーまだ携帯電話が存在あるいは普及しない頃まで、一定の場所に置かれた電話をとったりかけたりするのは、常に座ったままか立ったままの状態だ。つまり、その時点で人物の動作[アクション]は停滞することになる。
 だから映画のなかで、電話とは登場人物に現在の状況を告げたり(……恋人からの別れ話や夫の死を告げられて電話口でよよと泣き崩れるヒロイン、等々)、姿の見えない相手に翻弄される主人公だったり(……犯人からの指令で公衆電話から公衆電話へと次々にかけずり回される『ダーティハリー』や、『ダイ・ハード3』等々)、人物の激昂を引き出すもの(……数々のギャング映画で受話器を手に怒鳴り散らすボスや新聞記者、等々)、いずれも「小道具」以上のものではない。
 だが実のところ、単なる小道具どころか、そういった「電話」をメインにした映画がこの世には存在しているのだ。それどころか、“映画とは電話である”と言わんばかりの、もはや「電話映画」というひとつのカテゴリー(!)を形成する勢いなのである……!
 たとえば、バーバラ・スタンウィック演じる寝たきりのヒロインが、混線した電話から自分の殺害計画を知る『私は殺される』や、ジャン・コクトーの戯曲に基づいてアンナ・マニャーニが電話相手に独り芝居を繰りひろげるロベルト・ロッセリーニ監督の2話オムニバス『アモーレ』の一編「人間の声」などは、もはや古典といってよいだろう。シドニー・ポラック監督の長編第1作『いのちの紐』も、自殺をはかった女(アン・バンクロフト)とそれを救おうと必死に説得する電話相談員の男(シドニー・ポワチエ)という、まさに“電話”を中心に繰りひろげられるドラマだった。
 近年では、たまたまベルが鳴った公衆電話の受話器を取ったために絶体絶命の窮地におちいる主人公(コリン・ファレル)の『フォーン・ブース』や、誘拐されたキム・ベイシンガー演じるヒロインが、壊された電話で助けを求めようとする『セルラー』などが記憶に残る。ほぼ全編にわたってトム・ハーディがたったひとり登場し、夜のハイウェイで車を走らせながら電話だけでドラマが進んでいく『オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分』など、それこそ究極の「電話映画」といえるのではあるまいか。
 それら作品に共通するものといえば、端的に“電話口の相手が「見えない」ことからくるサスペンス”だろう。観客もまた「声」だけの情報しか与えられないフラストレーションを主人公と共有することで、彼や彼女たちに感情移入してしまう。そうして情動[エモーション]を揺さぶられることからくる、なまなましい不安と緊張感。それは、モーション・ピクチャーに対して「エモーション・ピクチャー」と言うべき、これもひと味もふた味も違う映画の「面白さ」なのである。
 そして、各国の新人監督作品に門戸を開くサンダンス映画祭で、『search/サーチ』(……これも、全編パソコンのモニター画面だけで進行する異色スリラーだった)と並んで観客賞を受賞したほか、世界各地で数々の映画賞を受賞しているデンマーク映画『THE GUILTY/ギルティ』も、「電話映画」の新たなエポック・メーキングとも言うべき作品だ。いやそれ以上に、これが初長編というグスタフ・モーラー監督・脚本による、わずか13日間で撮られた90分にも満たない本作は、映画にはまだこんな“可能性”があったのか! という、今日的でさりげなくも真に「革新的」な驚きと面白さをもたらしてくれるである。
 ……市民からの通報を受け付ける、警察の緊急通報司令室。ひっきりなしにかかってくる、ほとんどが些細なトラブルや事件の電話に、アスガー・ホルム(ヤコブ・セーダーグレン)はいささかうんざりしながら応対している。どうやら彼は何かの不祥事でここに飛ばされ、今はオペレーターに甘んじているらしい。だが、明日は法廷での証言が待っており、そこで自分の嫌疑が晴れれば第一線に復帰できるのだ。
 そんなアスガーに、誘拐されて拉致された車のなかからだという女性の通報が入る。彼女は、家に残された幼い娘に電話するふりをしてかけてきていた。受話器からは、車の走行音や犯人らしき男の声も聞こえてくる。何とか具体的な情報をつかもうと、犯人にさとられないよう女性に質問するアスガー。だが電話は、途中で切られてしまう。
 こうして、誘拐事件に直面したアスガー。関係各署に連絡するとともに、アスガーはかかってきた電話番号からイーベンという女性の名前と住所をつきとめる。その住所に電話すると、マチルデという6歳の長女が受話器を取った。彼女の口から、母親を連れて行ったのが元の夫ミケルで、彼には犯罪歴があることが判明。今はまだ赤ん坊の弟とふたりきりで、はやくママを助けてと泣きじゃくるマチルデに、「ぼくは困っている人を助ける警察だ。ママを見つけて、連れ戻してあげる」とアスガーは約束する。「だから今は弟といっしょにいるんだ」と。
 警官をマチルデたちのもとに向かわせる一方、アスガーは、明日の法廷で自分の無実を証言(というか、「偽証」)してくれる元同僚ラシッドに、ミケルの家の捜査を依頼。そしてミケルに直接電話して説得を試みるが、イーベンの家に到着した警官からの連絡で、事態はいっそう深刻なものとなる。そこで警官が見たと報せてきたのは、衣服が血だらけのマチルデと赤ん坊の死体だった。
 元の妻を拉致して、車で逃走する男はどこへ向かおうとしているのか。その車種やナンバーも分かっていながら、なかなか足どりがつかめないことに苛立つアスガー。交代の時間が過ぎても、今は個室にひとりこもって事件解決にのめり込む彼の姿を、必ず彼女を助けるという決意をにじませたその“顔”を、映画は凝視し続ける。何やらきな臭い過去がある“らしい”ことを知らされてはいても、幼い長男を殺害された哀れなイーベンを救い、マチルデのもとへ連れ戻せるのは彼しかいないのだから。
 ーーこうして、ことの推移を息詰まる思いで見守る観客を、だが映画はさらなる“奈落”へと突き落とすのだ……。
 さて、ぼくは先に、この映画を「電話映画」として“今日的で真に「革新的」”と書いた。これまで電話をメインモチーフに扱ってきた作品は、本来が遠隔の相手と会話するコミュニケーションツールとして、当然ながらそれは「声」をめぐるものだった。「携帯[モバイル]」が普通になった現在でも、それは変わらない。
 しかし本作にあっては、人物たちの声と同等かそれ以上に重要な要素[エレメント]として「音」がある。携帯電話が、それを手にする人物たちの会話ととともに拾う、その場その場の状況音。それらは聴覚というより、すぐれて「視覚的イメージ」を喚起するものとしてあること。それを“発見”してみせたことに、この映画の独創性があるのである。
 たとえば、イーベンが拉致された車中からの電話では、逼迫した彼女やミケルの声とともに車の走行音やワイパーのくぐもった音が聞こえてくる。それは、雨が降る夜のハイウェイを走る車と、その車内で男にさとられないように警察へ通報してきた彼女がどんな様子なのかを、観客それぞれにイメージさせずにはおかない。そしてそれは「拉致誘拐」という事態を、よりなまなましく実感させるものであるだろう。
 あるいは、イーベン宅に到着した警官が、アスガーに連絡しながら家のなかに入る。ーー木製らしいドアを開ける音や、廊下を歩く足音。そうして、マチルデが弟といるはずの部屋に足を踏み入れたとき、マチルデの小さな声とともにアスガー(と、われわれ観客)は警官のとり乱したうめき声を聞く。続いて「赤ん坊は死んでいる」というその報告に、「その根拠はなんだ」と問うアスガー。だが警官は「見ればわかる」と、赤ん坊がズタズタに切り裂かれていることを報せるのである……。
 この一連の会話は、これも観客それぞれに事件現場の凄惨な情景を想像させる。見えないだけに、なおさらそれはおぞましい“光景”として予感させ、われわれを慄然とさせるだろう。
 が、それ以上にここでは、家のなかを移動してマチルデと赤ん坊を発見するまでの警官の“動き”が、モバイル越しの音とともにありありと「見える」ことこそが重要なのではないか。この映画はここで、「音」による移動撮影(!)を実現してみせたのである。
 ……主人公アスガーのレシーバーから聞こえてくる「音」や「会話」を通して、見えてくる“映像”。まさしく「目で聞き、耳で見る」という本作は、映画の、という以上にイメージというものの〈本質〉をあらためて教えてくれるものだ。そのうえで、なぜこの作品の英語タイトルが「有罪[ギルティ]」なのか(ちなみに、デンマーク語の原題は「犯人」という意味)。それを後半における驚愕の展開と、その事態がもたらす主人公アスガーの焦燥や混乱、絶望のはての告白と“贖罪”のドラマは、一種「ヒューマン」な感動すらもたらしてくれるだろう。
 デンマークの無名の新人監督を、一躍世界の表舞台にひきあげた本作。すでにジェイク・ギレンホール主演でアメリカでのリメイクも決定しているというが、単なるワンシチュエーション・スリラーの域にとどまらない「エモーション・ピクチャー」として、ぜひ一見をおすすめしたい。

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