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いつかどこかで見た映画 その141 『のさりの島』(2021年・日本)

監督・脚本:山本起也 プロデューサー:小山薫堂 撮影:鈴木一博 編集:鈴木歓 音楽:谷川賢作 出演:藤原季節、原知佐子、杉原亜実、中田茉奈実、宮本伊織、西野光、小倉綾乃、酒井洋輔、kento fukaya、水上竜士、野呂圭介、外波山文明、吉澤健、柄本明

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 さて、あらためて先にこちら(いつかどこかで見た映画 その131回)で取りあげた上田義彦監督の『椿の庭』は、富司純子が演じる祖母と孫娘・渚(沈恩敬[シム・ウンギョン])の暮らす古い一軒家をめぐる映画だった。最後に、主人公たちの思い出や家族の記憶が残る家は、美しい庭とともに取り壊される。その光景を眼にしながら、そういえば同じように家の取り壊し場面で終わる映画があったことを思い出していた。
 それは、長年ひとり暮らしを続ける90歳の女性が長男夫婦と同居することになって、住み慣れた家を建て替えることになる。そんな家族の顛末を追った長編ドキュメンタリーで、タイトルを『ツヒノスミカ』という。そして『椿の庭』が祖母と同居する孫娘の眼を通して描かれたものだったように、こちらは、女性の孫息子がカメラを通して祖母と家族のひと夏を“監督=記録[ドキュメント]”していくのである。
 そこでも、女性にとって夫や家族と過ごした時間(=記憶)が残る大切なモノたちが単なる「ガラクタの山」として片づけられ、最後には家が解体されていく。そのなかで、ことあるごとに彼女は誰にともなく愚痴をこぼし、思い出話めいた繰り言をつぶやき続ける。だがそのつぶやきは、なんと静かな余韻に満ちていることか。ぼくは『椿の庭』を「とにかく“静か”な映画だ」と書いたが、そのドキュメンタリー映画もまた、本作を評した故・佐藤真監督の言葉の通り「近年稀に見る静謐な映画」なのだった。
 だから、というべきか、『椿の庭』に続いて『のさりの島』を見たときには、個人的になかなか感慨深いものがあったものだ。なんとなればこの映画の監督こそ、その『ツヒノスミカ』を撮った山本起也に他ならないからだ。そして、劇映画としては2作目となるここでもまた、ひとりの「ばあちゃん」が登場する。しかも、『ツヒノスミカ』が「カメラ」を通して成立する「祖母と孫」の映画なら、こちらはひとつの「嘘」をきっかけに成り立つ「祖母と孫」の映画なのである。
 映画の冒頭、タイトルにある「のさり」について、プロデューサーである小山薫堂の次のような字幕が入る。《「のさり」とは、この映画の舞台になる熊本県天草地方に古くからある言葉です。自分の今ある全ての境遇は、天からの授かりものである、という考え方です。だから目の前にあるものは否定せず受け入れるーー天草の優しさの原点がそこにあります。》……良いことも悪いことも「天からの授かりもの」として受け入れる。そんな天草に流れ着いた青年(藤原季節)が、ひとときこの土地と人々に「のさった(=授かった)」ものとして受け入れられることにはじまる物語だ。
 どうやら、ひとりでオレオレ詐欺を続けながら九州へとやって来た青年。熊本・天草諸島の街へとたどり着いた彼は、「銀天街」という寂れたアーケード入口の看板を見てさっそく商店の電話番号に電話をかける。2軒めにつながった山西楽器店で、電話に出たのは年配の女性。「もしもしばあちゃん、俺だけど」という青年のことを「あんた、将太ね」と受け入れられたのをいいことに、さっそく彼は店を訪れる。
 そこに現れたのは、ひとりでこの店舗兼住居で暮らす艶子(原知佐子)。カネを受け取るだけのつもりだった青年は、彼女から「将ちゃん」と呼ばれ、風呂と夕食をふるまわれる。そのまま寝込んでしまった青年の財布とスマホを、座椅子のなかに隠す艶子。翌朝、財布とスマホがなくなっていることに気づいた青年は艶子に問いただす。が、話が通じているのかいないのか、すっとぼけられてらちが明かない。もはやしかたなく(?)、彼はそのまま孫の「将太」として「ばあちゃん」の艶子と暮らすことになるのである。
 こうして、他人どうしながら「孫」と「祖母」として生活をはじめるふたり。はじめのうちはオレオレ詐欺をめぐるドラマのつもりだった観客も、この青年と同じく狐につままれたような面持ちで、この思いがけない展開を見守るしかない。ただここで、艶子が決して惚けているのではないことだけはわかる。彼女はすべてを承知のうえで、この青年を「孫」として受け入れた。一方の青年のほうもまた、いつしか自分が「将太」であることを受け入れていくのだ。
 そんな“「ばあちゃん」と「孫」”の日常風景の一方で、映画はもうひとりの女性の姿を映しだす。地元FMラジオ局でパーソナリティを務める堀川清ら(杉原亜実)は、仕事のかたわら、どうやら幼なじみらしい仲間たちとともに昔の天草を映した8ミリ映像や写真の上映会を催そうとしている。
 なかでも彼女は、「銀天街」が賑わっていた頃の映像探しにこだわっていた。彼女は、今はシャッター街のアーケードが大勢の買い物客で埋まっていた光景を記憶していた。しかもこの商店街の店の多くは、彼女の祖父(水上竜士)と父が内装を手がけていた。そのことを、商店街会長の桑原(吉澤健)から教えられる清ら。だからこそ、あの「光景」をもう一度見てみたい……。もっとも、彼女がものごころついた頃には商店街もすっかり寂れていたはずだと、誰もその話を本気にしてくれないのだが。
 ある日、いつものように昔の映像探しで中西楽器店を訪れた清らは、そこで「将太」とはじめて出会う。彼がしばらく「ばあちゃん」のところにいると知り、清らは「将太」を上映会の会合に引っぱりこむ。清らを含むメンバー4名は、街で唯一の映画館(館主を演じるのは、野呂圭介だ)に集まって準備を進めていた。
 そうした日々のなか、艶子に言いつけられるまま洗濯物を屋上に干したり2階の物置を片づけながら、いつしかここでの生活になじんでいく「将太」。しかし、清らは祖父から、「山西楽器店のところの孫は死んだはずだ」と聞かされるのだ。
 ……と、いちおうここまで“筋[プロット]”をたどってみた。だがそれは人物たちのおかれた“現在(いま)”を映しだすだけで、彼や彼女たちがどんな「人間」でどんな人生をおくってきたのかを、この作品はほとんどまったく語ることはないだろう。ーーいったい「将太」とは何者で、どんないきさつからオレオレ詐欺を続けながら逃げるように旅をしているのか(……一度だけ彼のスマホに、ガラの悪そうな(?)男からの連絡がはいる。が、それを受けたのは艶子で、彼女はさっさと相手を無視して電話を切ってしまうのだ)。艶子は艶子で、自分をだまそうとしたこの青年を「孫」として受け入れ、彼の財布とスマホを隠してまで生活をともにしようとしたのか。清らは内装店を営む祖父とふたり暮らしだが、彼女の両親についてはどうしてまったく言及されないのか。そういったすべてを、映画は何も見せも語りもしないのだ。
 他にも、昼間はイルカ見物の観光船乗り場で働きながら、夜になると人通りのない「銀天街」のアーケードでひとりブルース・ハープを奏でる少女(小倉綾乃)が登場する。彼女は、その音楽を聴いた清らとわずかに言葉を交わす。その後、清らは彼女に8ミリ映像の上映会で演奏してほしいと依頼するのだが、ふたりの出会いもまたそれ以上の関係[ドラマ]に発展することはないだろう。
 あるいは、上映終了後の映画館でじっとポスターを見つめる若い女性。一度は帰りをうながす館主だが、ある晩ふたたび彼女を見かけた館主は、やはり壁一面に貼られたポスターを見入るその姿にだまってその場を離れる。そして映画はここでも、彼女が“何者”なのか何も語ろうとはしないのである(……そしてこのふたつの場面に登場するこの「若い女性」は、だが、それゆえ見終わった後も深く印象に残ることになるのだ)。
 ……艶子と「将太」、あるいは「将太と」清ら。その関係性だけでもじゅうぶん「ドラマチック」であるはずの主人公たちはもちろん、ここでは誰ひとりとして「ドラマ」を与えられることがない。上映会メンバーのひとりで親戚の美容院を手伝うゆかり(中田茉奈美)が、天草を出て東京へ行くというくだりも、ただ“それだけ”のこととして描かれる。彼女のことを好きだった仲間の村本(宮本伊織)が、空港でゆかりに精いっぱいのエールをおくるという微笑ましいエピソードで締めくくられるとしても。
 もうひとりのメンバーで、写真店の息子で映画館の上映を手伝う陽介(西野光)にしても、ひそかに清らに好意を抱いているようにも思える。が、それもわれわれ観客が勝手に“予感”しているだけで、もはや暗示程度にすらここで描かれることはないのだ。
 ただひとつわかるのは、「将太」や清らをはじめ本作に登場する若者たちの誰もが“虚(うつ)ろ”で、それぞれ“移ろい”のなかにあるということだろう。映画のなかで清らが、天草地方に生まれた作家・石牟礼道子の文章を朗読する。それは、世界文学全集版の『苦海浄土』で「あとがき」として書かれた一節だ。
《わたしの地方では、魂が遊びに出て一向に戻らぬ者のことを「高漂浪(たかざれき)の癖のひっついた」とか「遠漂浪(とおざれき)のひっついた」という。/たとえば、学齢にも達しないほどの幼童が、村の一本道で杖をついた年寄りに逢う。手招きされ、肩に手を置かれて眸をさしのぞかれる。年寄りはうなずいて呟く。/「おお、魂の深か子およのう」/言われた子は、骨張った掌の暖かみとその声音を忘れないだろう。そのような年寄りたちが村々にいた。/幼い頃、わたしも野中道で村の老婆にこう言われた。/「う―ん、この子は……魂のおろついとる。高漂浪するかもしれんねえ」》
 そう、ここで彼や彼女たちは皆「魂のおろついとる」存在だ。そういう“虚ろ”で“移ろう”若者たちを、艶子たち老人は何も言わずただ見守り、「受け入れる」。天草とは昔も今もそういう土地であり、「場所」なのだ。おそらく、この映画はただ“それだけ”を描き、語ろうとしているのである。
 そして、もうひとつ。この映画のなかで「あやかし」という言葉が2回登場する。一度目は、今はかかし村の村長としてボランティアでかかし作りを指導する碓井(柄本明)によるもの。取材に訪れた清らとスタッフの大北(酒井洋輔)に、壁にかかった能面を「それは、あやかしです」と口にする。ここで「あやかし」とは、男の怨霊を表した面の名称として語られる。見る側によって、それは様々な表情や感情を表すのだと。
 二度目は、古い教会が残る港町・崎津で漁師(外波山文明)が、岬の断崖に置かれたマリア像を「あやかし」と言う。それを「将太」は「まやかし」と聞き違えるのだが、漁師はただすことなく、「まやかしでも、人には必要な時がある」と言うのだ。
 ……「あやかし」と「まやかし」。この二語ほど、本作について示唆をあたえてくれるものはない。そう、それぞれがもつ意味の多様さそのままに、この映画こそが「あやかし」そのものであり、主人公の青年は「まやかし」によって“救われた”のである。
 最後に。本作が遺作となった原知佐子さんの、その素晴らしい“たたずまい”に献杯!

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