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いつかどこかで見た映画 その11 『モンスターズクラブ』(2011年・日本)

監督・脚本:豊田利晃 出演:瑛太、窪塚洋介、KenKen、草刈麻有、ピュ〜ぴる、松田美由紀、國村隼

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 ……例によって、いきなりの脱線。豊田利晃監督の異色作『モンスターズクラブ』を見てまっ先に思い出したのが、もう随分と以前にテレビで見た1本の「SF映画」なのだった。
 そしてそれは、おそらくぼくがこれまで見てきたなかで最もチープというか酷いというか、そのあまりにも壊滅的なダメっぷりが逆に衝撃的で、かえって忘れられないというシロモノ。よくぞまあテレビで放映できたものだ……というレベルの、“超”怪作なんである。
 その『SF地底からの侵略/無差別襲撃!戦慄の殺人有機ガス』という日本未公開のアメリカ映画は、どうやらこの手のゲテモノや「サイテー映画」のマニアの一部でもそれなりに有名(?)らしい。一応は、地底から毒ガスをまき散らす謎の攻撃(……登場人物のひとりが、まったく唐突に「太古の昔に火星から地球の地下に潜んだ火星人たちが、いよいよ地上を侵略しようとしているんだ」などと説明する。いったいお前はそれをどうやって知ったんだ、というツッコミはともかく、いうまでもなくその設定はH・G・ウェルズによる『宇宙戦争』のパクリであり、ということはスピルバーグの同タイトル作品を“先取り”しているともいえるのだが……)による人類最期の日を描いたSFパニックものとカテゴライズできるだろうけれど、とにかく演出も、脚本も、映像も、演技も、すべてにお粗末すぎる。ーー単に発煙筒を焚いただけの赤い“殺人ガス”や(宇宙人たちは、姿すら見せやしない!)、前後の脈略もクソもないいきあたりばったりな展開と台詞の数々、そして名もない役者たちによる三文芝居……。いやはや、この映画の前では、エド・ウッドの作品すらマトモ(!)に見えることだろう。だが、失笑どころかほとんど茫然としてしまうこと必至のシロモノは、繰り返すが、あまりの「壊れっぷり」によって逆に忘れがたいものに(少なくとも、ぼくにとっては)なったのである。
 では、どうして『モンスターズクラブ』が、よりにもよってそんな“屑[ジャンク]”映画を想起させたのか? もちろん、作品の完成度は比較しようがない。豊田監督の名誉のために急いで言い添えておくが、この72分という上映時間におさまった本作は、きわめて強度の高い緊張度に満ちた見事なものだとぼくは確信している。が、もはや誰にもかえりみられることのないITO[イトー](……というクレジットなのだが、実際は製作のビル・レバーン自身が監督している)なる匿名監督の「サイテー映画」と、この豊田作品は、その正反対の“極端さ”において呼応しあう(!)のではないかと思うのだ。
 主な舞台となるのは、どちらも人里離れた雪深い森の山小屋。イトー作品では、地球侵略の危機を知った若い男女が、孤立した絶望的な状況から脱出をこころみようとする。対して豊田作品は、自ら社会と訣別するかのようにひとりで自給自足し、爆弾を造っては大企業に送りつける青年が描かれる。……一方は外界の危機的状況から主人公たちを隔離=孤立させ、もう一方は自らを社会と隔絶=孤立させる、雪に閉ざされた山奥の森。瑛太扮する豊田作品の主人公・良一は、そこで黙々と猟をし、食べ、本を読み、そして爆弾を造っては、企業や政府機関などに送り続ける。いわば、彼自身が現代社会(=世界)をぶっ壊そうとするエイリアンなのである。
 ーーもういいかげんイトー作品について書くのもイヤ(笑)になってきたので、さっさと切り上げるけれど、そもそもこの徹底的にダメな映画に、なぜぼくはこだわるのか。ただのゲテモノ好きだからだろって? ……いや、否定はしないけれど、これ、もはやそんなレベルで語られるようなレベルの作品じゃないのだ(……このあたり、実際に見ていただかないと、とうてい理解してもらえまい)。しかし、すべてにお粗末すぎるこの映画には、ある不思議な“切実さ”があって、それがぼくを呪縛してやまないのである。
 その“切実さ”とは、ひと言でのべるなら、「この世界を否定しつつ、世界の〈外〉へと逃避する」というニヒリズムに取り憑かれた(?)作り手自身が、なすすべもなく翻弄され、その混乱のまま映画を撮ったーーという感触だろう。なるほど、確かにイトーことビル・レバーンは、その経歴をみてもロクでもない作品ばかりのC級監督に違いない。だが、ぼくが見た限りでも、『ジャイアント・スパイダー大襲来』や『アルファ・インシデント』なんかは普通にダメな映画でしかなく、このこの作品ほどに“壊れた”印象もなかったはずなのだ。この作品だけが、突出して異様なのである。
 ……意味不明な展開で迷走に迷走を重ねたあげく、映画は、世界にふたりだけ生き残った男女が突然、何の説明も脈絡もなく裸の少年少女となって、お花畑を歩く場面で終わる。おそらく誰もが目を点にするしかない、酷さもとどめのラスト。でもそれを、60年代末の全世界的に起こった若者たちの革命的気運とフラワーチルドレンのムーヴメントへの、いささか遅れてきた“返歌[アンサー]”として見るなら、ある感動(!)をおぼえることだって出来なくもない(とは、やはり言いすぎだろうけれど……)。
 とまれ、イトーことビル・レバーン監督の1974年度作品『SF地底からの侵略』には、ジャンクなC級映画を撮り続けてきたこの奴輩の、信条だか心情だけがほとばしっている。それは、いささか大仰な引用を許していただけるなら、この世界の《最高の諸価値が価値たることを失うこと》(ニーチェ『力への意志』より)を自覚し、世界の〈外〉へと逃避しようとする「ニヒリズム」に他ならない。ただこの男には、それを例によってキチンと観客に伝える才能も、技術すらもなかったーーそういうことなのである。
 ……そして、その出来映えだけなら、当然ながらイトー作品などと比較にならない『モンスターズクラブ』も、実は「ニヒリズム」をめぐる、思索的な、あまりに思索的な映画なのではあるまいか。1970年代から90年代にかけて、18年間も山奥に隠遁しながら爆破事件を起こし続けたアメリカの爆弾魔「ユナボマー」に想を得たという本作。現代社会に何の価値も、めざすべき目的もないとを否定し、その破壊を実行する彼は、テロリストという以上に、これもまたニヒリズムの徒に他ならない(……「テロリズム」が「政治的なニヒリズム」の謂いだとすれば、どっちも同じことなのだが)。
 けれど、異様な風体のバケモノが出没するようになった直後から、良一の前に、自殺した兄のユキ(窪塚洋介)や、これも自殺的な死を選んだ弟のケンタ(KenKen)が現れるようになる。さらには、すでに両親も亡くなった良一にとって唯一の身内である妹ミカナ(草刈麻有)も含め、彼らは良一の「甘さ」を揶揄し、糾弾し、否定するのである。お前の考えや行動は、しょせん兄貴であるユキの真似事に過ぎないじゃないか。山奥で暮らしながら、お前は爆弾によってまだ世界とつながろうとしている。まだ世界を愛している……(と、ここでまた余談だが、彼ら兄弟はどこかサリンジャーの「グラース・サーガ」と呼ばれる一連のシリーズ小説を想起させないか。そこでも、自殺した長男をめぐって、残された兄弟たちの精神的危機が主題となっているのだった。……へっぽこSF映画じゃなく、こっちのセンで原稿を書くべきだったか、とは、あとの祭りだが)。
 このあたり、映画はほとんど観念的な哲学問答めいてくる。だが、結局それはすべて良一の“自問自答[モノローグ]”ではないのか。兄弟たちの「幽霊」もまた、彼の内なる“心象”としてあるのだと。そう、これはユナボマーの日本版を描いた“平成版『太陽を盗んだ男』”のような映画でも、大島渚の『日本の夜と霧』のような映画でもない。ここにはアジテーションも政治性もなく、ただひとりの青年の内省的な〈声〉だけがある。もちろん彼自身は映画のなかで、それほど多くを語りはしない。が、作品それ自体が、この主人公の(そして、脚本・監督である豊田利晃の)モノローグに他ならないのだ。ーー俺は、まだこの「世界」を愛しているのか、と。ーーこの世界に、もはや価値も目的もない。だが自分は、兄のユキや弟のケンタのようにこの世界の〈外〉へと逃避することもできず、爆弾を介してなお世界とつながろうとしている。本来は世界を全否定して〈無〉にいたるべきはずが、俺は、まだこの世界を愛しているのか……
《現実的に存在しない幻を見て、爆弾を送ることで生きる意味を感じていた良一が、ある種悟り、そこに意味を感じなくなっていく。ラストシーンは反社会的な気持ちや感情を雪のように真っ白に流そうという気持ちを込めました。(中略)捨て去るためではなく、未来に向かうために》とは、豊田監督のことばだ(公式オフィシャルサイトのインタビュー記事より)。ーー妹に電話をかけ、バケモノと同じように顔を塗料で塗りたくって、おそらく最後の爆弾とともに東京へと向かう良一。だが結局彼は、交差点の雑踏のなかで泣きじゃくり、うずくまることしかできないのだ。
 そんな主人公(と、豊田監督)の“弱さ”を、あるいは否定的にとる向きがあるかもしれない。肯定するにしろ否定するにしろ、仮にも「世界」を廃棄しようとした「ユナボマー」をきどりながら、これではニヒリズムどころか単なるセンチメンタリズムじゃないか、と。
 確かにこのラスト場面は、いささか感傷的にすぎるかもしれない。ドストエフスキーの『罪と罰』におけるラスコーリニコフのような葛藤の果ての贖罪というより、これでは金持ちのボンボンの甘ったれた自意識のドラマに見えてしまう。彼は、やはり『太陽を盗んだ男』の沢田研二のように「爆弾」を爆発させなければならなかった……
 だがそれでも、このラストシーンは心から美しいとぼくは思う。この「世界」の前で、結局「人間」とは何てちっぽけで卑小なんだろうという無力感と、愛そうと憎もうと、それでも「世界」は存在し続けるのだという一種の救済というか“なぐさめ”。それらが入りまじった感情(=感傷)の喚起こそ、監督が言う「(今までの自分を)捨て去るためではなく、未来に向かうため」に、ぼくたちが受けとめるべきものだろうから。
 ……そう、《きみと世界との戦いでは、世界に支援せよ》(フランツ・カフカ)。

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