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いつかどこかで見た映画 その97 『ジャッジ・ドレッド』(2012年・イギリス=南アフリカ)

“Dredd”

監督:ピート・トラヴィス 脚本:アレックス・ガーランド 撮影:アンソニー・ドッド・マントル 出演:カール・アーバン、レナ・ヘディ、オリヴィア・サールビー、ウッド・ハリス、ドーナル・グリーソン、ラングレー・カークウッド、ウォリック・グリア、ルーク・タイラー

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 「俺が法律だ!」とは、暗黒街ものや西部劇などにおける一種の決めゼリフみたいなものだ。たいていの場合、街を牛耳る悪党のボスが、ここぞとばかりに凄みをきかせて口にすることになっている。ーーおまわりや役人がナンボのもんじゃい、ここではオレ様が法律じゃあ! といった風に(いささか、東映実録路線風の口調になってしまったが)。
 調べてみると、エドワード・G・ロビンソンが主演した1938度作品に、そのものずばりの『俺が法律だ[アイ・アム・ザ・ロウ]』というものがあった。が、それ以前からこの手のジャンル映画のなかで使われていたことは、おそらく間違いない。最近ではシルベスター・スタローン主演の『ランボー』で、ブライアン・デネヒー演じる悪徳保安官が、主人公のランボー相手に吐いていたっけ。そう、これは西部劇や戦争映画なんかにおける「……静かすぎる」とか、新聞記者が主人公のアメリカ映画だと必ず(?)言い放たれる「輪転機を止めろ!」なんかと同じく、ひとつの“お約束”なのである。
 ところで、そのスタローン自身にも「俺が法律だ!」と決める映画があった(……もっとも、実のところ先に挙げた『ランボー』でも、スタローンはこのセリフを発していたのだった。深い山林に逃亡した自分を追う保安官に対して、逆襲に転じたランボー。その時、保安官事務所での意趣返しのように「この山では俺が法律だ!」と言うのである)。英国の人気コミックを実写映画化した1995年度作品『ジャッジ・ドレッド』だ。もっともこの映画では、“正義の味方”がこのセリフを口にするんだが。
 ーー核戦争後の未来社会で、生き残った人々が暮らす巨大都市。凶悪犯罪が多発するなか、警官と裁判官の権限を併せ持つ「司法官[ジャッジ]」たちが治安維持を担っていた。凶悪な犯罪者は、逮捕したその場で判決[ジャッジ]を下し即処刑。そう、まさに「俺が法律だ!」なのである!
 そんな「ヒーロー」をスタローンが演じたのだから、映画は当然(!)ながら、じゅうぶんすぎるくらいウサン臭いものとなった。それまでもレーガン大統領の政権下で、まるでその政治宣伝[プロパガンダ]映画のようなアメリカ人のナショナリズムを鼓舞し謳いあげる、『ロッキー4 炎の友情』やら『ランボー2 怒りの脱出』やらを監督と脚本を兼任しながら撮ってきたスタローン。一見すると“愚鈍(失礼!)”そうなこの男、実は時代の風潮を鋭くとらえ自らの追い風とすることに長けた、きわめてしたたかな映画人なのである。
 しかし、この『ジャッジ・ドレッド』や、その前に撮った『デモリションマン』といったSF大作におけるスタローンは、自らの信じる「法」や「正義」の名の下に絶対的な権力[パワー]を行使する、独善的という以上に、まさしく“独裁者”そのものと化していった。アメリカの映画評論家ポーリン・ケイルは、かつてドン・シーゲル監督の『ダーティハリー』でイーストウッド(が扮した主人公)を「ファシスト」よばわりしたが、その比じゃないウルトラ・ファシストぶりだったのである。その結果、(作品自体の魅力のなさも相まって)ぼくなどほとんどついていけなくなったことも確かなのだった(実際、スタローンはこのあたりから長い低迷期に陥ってしまう……)。
 ともあれ、映画にしろ現実にしろ(とは、まあ、ジョージ・W・ブッシュ合衆国大統領あたりのことなんだが……)「俺が法律(=正義)だ!」などと口走る野郎にもはやロクな奴はいない。それだけは間違いのないところだろう。
 などと思っていたのだが、どうやら映画界にあってこの「名セリフ」は、今なお根強い人気(?)があるらしい。今回リメイク(というか、宣伝惹句にしたがえば「再起動[リブート]」か)された『ジャッジ・ドレッド』でも、もちろん主人公は「俺が法律だ!」と言う。原作コミックは読んだことがないけれど、たぶんこのヒーローにとって必要不可欠な(たとえば、「月にかわっておしおきよ!」みたいな?)もの、というか、このセリフありきのキャラクター設定なのかもしれない。そして製作者たちは、まさにこれこそを言わせたいがために再映画化に挑んだのではあるまいか(……とは、やはり言い過ぎだろうけれど)。ーーいや、確かにそう思わせるほど、本作のなかでとりわけ印象的に登場するのである。
 ここではっきり言うと、今回の作品におけるぼくの興味の焦点は、製作スタッフの顔ぶれ以外になかった。イギリスと南アフリカの合作となっているこの映画、その主要スタッフがこれまで“アート系寄り”の作品を中心に手がけてきた面々であること。特に、脚本家と撮影監督の名前に惹かれてのものだったのだ。 
 脚本のアレックス・ガーランドは、レオナルド・ディカプリオ主演で映画化された『ザ・ビーチ』の原作者であり、以後も監督のダニー・ボイルとの共同作業などで知られている。そして撮影監督のアンソニー・ドッド・マントルも、同じくダニー・ボイル監督や、ラース・フォン・トリアー監督の作品を手がけてきた(……あの『ドッグヴィル』や『マンダレイ』、そして『アンチクライスト』もこの人物のカメラによるものだ)。さらに、残念ながらぼくは未見のままだが、劇場用第1作『バンテージ・ポイント』で注目されたピート・トラヴィスが監督したとなれば、さすがにスタローン版とはひと味もふた味も違う作品を見せてくれるだろう、と。
 もっとも、プロットそのものは実に単純だ。建物全体がひとつのスラム街となった200階建ての超々高層アパートを支配し、新型ドラッグを製造・密売する“ママ”と呼ばれるギャングの女ボスと一味。この凶悪な犯罪者集団を相手に、主人公ドレッドが、見習いの新人女性ジャッジ・カサンドラとともに死闘を繰り広げるというもの。外界から完全に遮断された巨大アパート内に閉じこめられたドレッドとカサンドラが、ブルース・リーの『死亡遊戯』よろしく最上階の“ママ”を制裁[ジャッジ]すべく、たった2人きりで数々の修羅場を切り抜けていく、というもの。ストーリーなどあってないようなものなんである。
 とはいえこの本作、いささか意外だったのはスタローン作品で強調されていたジャッジたちの絶対的な権力者ぶりが、本作ではまるで希薄だったことだ。むしろジャッたちの、“判決[ジャッジ]を下す→即処刑”という手順に対しては、ほとんどすべてのアクション映画におけるヒーローたちが問答無用に悪党たちを殺戮(!)することを思えば、何と律儀な……とすら見えてしまう(……現実の警官たちが逮捕の前に言う、「おまえには黙秘権がある」と同じですな。「キサマにはこの場で処刑される“権利”がある」、というわけだ)。なるほど、このあたりの「批評性(?)」が、さすがひと味違うところか。
 ただその一方で、アクション場面はひたすら過激だ。高層階から墜落死した死体はグチャグチャに潰れ(ウヘェ……)、銃弾を受けた頭や身体は容赦なく吹っ飛んだり派手に血煙をまき散らす。時には、それを超スローモーション(……本作に登場する麻薬「スローモー」を吸引した者の感覚を、主観的に表現したものらしいのだが……)で克明に映し出すのである。《僕たちは妥協のない大人の映画を作りたかった。僕たちが要求した暴力性によって、アメリカではR指定になり、ヨーロッパでは18歳以上向けの映画になるだろう》とは、製作も兼ねた脚本のガーランドの弁だ。
 思えば、ドイル監督の『28日後…』でもガーランドの脚本は、人間が唐突に“非=人間”に変貌することの即物的な恐怖を示そうとしていた。そういった身体や精神を含めたヒトの「壊れやすさ」への執着こそが、そこから窺えるかもしれない。
 が、そういったことすらも超えて今回の映画では、やはりその映像に注目すべきだろう。3Dの立体画像を前提として撮られた画面は、物語展開の荒っぽさ(粗っぽさ?)とは裏腹に極めて緻密に設計されている。残念ながらぼくは2Dの普通画像で見たのだけれど、それでも奥行きを強調した画面の遠近感や、ガラスの破片や血しぶきの質感など、随所でハッとさせられたものだ。たぶん、あらためて3Dで見たなら、ぼくの本作への評価はあきらかにいや増すことだろう。
 とはいえ、スタローン版と同様この新たな『ジャッジ・ドレッド』も、欧米では批評はともかく興行的にあまり芳しくなかったようだ。けれど、『アベンジャーズ』などアメリカ製のコミック・ヒーローものが決して手を出さない方向性を、ある意味ここまで徹底した本作は、それはそれでいさぎよいではないか。そして何より、新人ジャッジ・カサンドラに扮したオリヴィア・サールビーの、たとえばミラ・ジョヴォヴィッチとも違う可憐な戦闘美女ぶりだってぜんぜん捨てたもんじゃない(……特にあの素晴らしい『JUNO/ジュノ』で、エレン・ペイジ分する主人公の友人役で彼女に注目した者なら、ともかく必見! と言っておこう)。
 だからドレッドよ、愛しのカサンドラよ、3Dの画面でまた会おう!

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