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いつかどこかで見た映画 その100 『蜜のあわれ』(2016年・日本)

監督:石井岳龍 脚本:港岳彦 原作:室生犀星 撮影:笠松則道 出演:二階堂ふみ、大杉漣、真木よう子、高良健吾、韓英恵、上田耕一、岩井堂聖子、渋川清彦、永瀬正敏

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 その新作が公開されるたびに、石井岳龍監督(というお名前に、失礼ながらいまだなじめないでいる。どうしても“石井「聰亙」監督”となってしまうのだ……)には意表を突かれてきた。とにかく石井監督の作品は、次にどんな題材でどのような映画を撮るのか予想もできない。まるで見る者の予想や期待を嘲弄するかのように、作品を発表するたび大胆不敵な“変化(へんげ)”を繰りかえしてきたのだった。
 伝説的な8ミリ映画『高校大パニック』で当時の自主映画界にセンセーションを巻き起こし、澤田幸弘監督との共同監督によるその劇場用長編リメイクで商業映画デビューを果たしてからは、『狂い咲きサンダーロード』や『爆裂都市BURST CITY』といった、過激という以上に“破壊的[パンク]”なアクション映画を連発。このままアナーキーなニューウェーブ路線を突き進むかと思えば、続いての『逆噴射家族』では、一転して狂騒的かつブラックな笑いに満ちたコメディで観客にアッと言わせてみせる。その後、長編としては10年ぶりに『エンジェル・ダスト』を撮ったと思えば、それはかつての石井作品からは想像もできない静謐で端正な映像による「サイコ・スリラー」だったという次第。
 それからは、『水の中の八月』や『ユメノ銀河』というどちらも小嶺麗奈演じる「少女」を主人公にした、特異だが実に美しい「ファンタジー」が続き、なるほど、90年代の石井聰亙作品は「女性映画」に新境地を見出したのかーーというこちらの考えをあざ笑うかのごとく、源義経と弁慶をめぐるスペクタクルな時代劇大作『五条霊戦記』で20世紀最後の年をしめくくる。かと思えばまたもや長編劇映画から遠ざかり、12年ぶりの2012年に『生きてるものはいないのか』で“復帰”して以降、『シャニダールの花』や『ソレダケ That’it』といったそれぞれまったくカテゴリーも画面の“雰囲気[ルック]”も異なる作品で、見る者を翻弄し続けるのだ。
 かつて『シャニダールの花』を取りあげたとき(「いつかどこかで見た映画 その43」参照)、ぼくはそういった石井監督とその作品の「変幻ぶり」に何とか“見取り図”を描こうと、こんな風に書いた。ーー80年代の石井作品における「男たち」は、すでに崩壊し“滅亡”した後の世界を生きている(つもりになっている)がゆえに、その恐怖や絶望から暴力と破壊のタナトス的な衝動に突き動かされている。対して90年代の石井作品での「女たち」は、そうした世界を“救済”するために、エロス的存在として文字通り命をかけているのだと。そこで「男たち」はすでに“滅んでいる”のであり、「女たち」はそんな男どもの世界をふたたび“再生させる”のである。そして『シャニダールの花』は、そういった「世界」への「男たち」と「女たち」の決定的な相違こそを主題した、ある意味でこれまでの石井作品における“総括(!)”のような映画なのだった(……もっとも、その前に撮った『生きてるものはいないのか』は、男も女もバタバタと死んでいく終末世界をナンセンス喜劇風に描くという、同じ人類の終末をテーマにしたといっても何とも救いがないというか、“身も蓋もない”映画なのだった。そこから『シャニダールの花』へといたる主題的な展開も興味深いのだけど、それはまた別の機会に)。
 ……若い女性の胸に胸元に咲く、謎の花。やがてそれは、人類にとって危機的存在であることが示される。そのことに気づいた男たちは、何としてでも花を始末しようとする。が、女たちは「その花を咲かせ続けてみたい」と言うのである。
《男たちは「世界」の破滅におびえ、女たちは「世界」の再生こそを予感する……。なぜなら、その「世界」とは「男たちの世界」に他ならず、女たちにとってそれは、もはやすでに破滅した後の“地獄(!)”のようなものだから。そのことに気づかずに、男たちは嬉々として、あるいは悲壮感たっぷりに暴力と破壊に明け暮れるのである。(中略)90年代の映画において、石井監督作品のヒロインたちは「(男たちの)世界」を、自分を犠牲にしてまで救済しようとした。が、2010年代において彼女たちは、愚かな男たちに愛想を尽かしたかのように、静かに微笑みながら問いただすのであるーー「花(=女)のように生きる覚悟はあるの?」と。》
 こうなると石井監督の“その次”の作品がおおいに興味あるところだが、昨年(2015年)公開された『ソレダケ That’it』を残念ながらぼくは見逃したままなので、それがどのような変化(へんげ)ぶりを見せているのかを語ることができない。だが、続く最新作『蜜のあわれ』における石井監督は、ぼくという観客をまたも仰天させるものだった。というか、ここまでぼくが書いてきた文章はいったい何だったのか……と途方に暮れさせるにじゅうぶんな、今までのどの石井作品からも吹っ切れた感がある、けれどこれが、最も大胆不敵ならぬ“大胆素敵”な映画だったのである!
 ……これまでにも、夢野久作の短編集『少女地獄』のなかの「殺人リレー」を映画化した(『ユメノ銀河』)石井監督にとって、今作が室生犀星の原作にもとづくと聞いても、さほど驚くにはあたらない。むしろこれまでも、自身がオリジナル脚本を書いた『水の中の八月』や『シャニダールの花』で、それぞれJ・G・バラードの『結晶世界』やボリス・ヴィアンの『うたかたの日々』といった小説からインスパイアされていたとおぼしき石井作品は、意外なまでに文学的というか「文学青年的」ですらあるだろう。ーーしかし、それでもなおこの『蜜のあわれ』は真に“驚くべき”作品である。なぜなら、これは石井監督が撮ったはじめての「老人映画」であるからだ……!
 先にもふれたけれど、原作は室生犀星が70歳の年に発表した、犀星自身を思わせる老作家と“金魚の化身”である少女の幻想的な恋愛譚。主人公である作家の上山が庭の池で飼っている金魚は、ときどき17歳くらいの娘の姿になって上山の前に現れる。自分のことを「あたい」と呼び、「おじさま」の上山に際どくつきまとったり、ときにはひとりで街へ出かけたりするが、その正体は上山と、彼女を「三年子」と呼ぶ金魚売り、そして上山とワケありらしい“幽霊”の「田村のおばさま」だけしか知らない。
 ……と書いて、なんだそりゃと思われるだろうが、本当にそんなお話なんだからしかたがない。しかも、地の文がなくて全編が会話だけで成り立っている、これが晩年の老大家によるものとは思えない実験的な小説でもあるのだ。
 けれどこれが、いやもうまったく実に魅力的で面白い! とにかく、赤井赤子と名のる(というか、上山が命名したのだが……)金魚娘が素晴らしくチャーミングなのである。「金魚はおさかなの中でも、何時も燃えているようなおさかななのよ、からだの中まで真紅なのよ」などと、老作家を挑発したり翻弄するのだが、そこに少しも生臭さを感じさせないあどけなさというか、“無邪気さ[イノセンス]”があるのだ。これは、真の意味で「おとなの童話[メルヘン]」に他ならない。
 そういった原作を、《初めて読んだ高校生の時から、映画化するなら絶対に自分がこの赤子という役をやりたいなと思ってました》(公式サイトより)とコメントする二階堂ふみと、老作家の上山に大杉漣を迎えて実写で撮りあげた石井岳龍監督。見る前は正直いささか危惧するところがあったのだが(……あの小説をそのまま映画にしたら、ほとんど赤面もののコントにしかならないだろう)、これがまず掛け値なしに面白い、見事な「映画」になっているのである。
 いつもは自身で脚本もかねる石井監督だが、今回は港岳彦による単独クレジット。犀星が生前に私淑した芥川龍之介(演じるのは高良健吾。適役!)を登場させるなど、室生犀星自身にまつわる逸話で老作家の存在を際だたせるあたり、よい仕事をしている。が、それ以上に二階堂ふみと大杉漣、さらに“幽霊”の「田村のおばさま」を演じる真木よう子や、金魚売りの永瀬正敏といったキャストのはまり具合はどうだろう(……「映画の8割はキャスティングで決まる」とは、洋の東西を問わずに語りつがれる〈真理〉だ)。このシナリオと役者たちを得て、ここで石井監督はこれまでになく「映画」と楽しげに戯れているかのようだ。それは、突然の舞台転換とともにダンスがはじまる「レビュー(?)」場面や、蓄音機に針をおとす場面、何より古い町並みに出没する“女の幽霊”の存在、等々を見たなら、きっとおわかりいただけるに違いない。つまり、ここで石井監督は室生犀星原作の映画のなかで、もう1本の「別の映画」をもくろんでいる。というのが言いすぎなら、“めくばせ”を送っているのである。その映画とは言うまでもない、もちろん『ツィゴイネルワイゼン』だ。
 石井監督は本作について、《川島雄三監督や小津安二郎監督のような、濃厚な文学的な空気の中に乾いたユーモアと悲しみ、強固な映画力と密度、そして楽しくその世界に酔える作品群を敬愛しているので、そういう映画遺産を少しでも受け継げれば幸せです》とのべているが、ここでひとつの名前を(わざと?)言い落としている。もちろんその名前とは、「鈴木清順監督」である(……もっとも、作品のなかでさりげなく“タネあかし”をしているのだが。それは老作家の上山が、こっそりと韓英恵演じる愛人宅へ向かう場面で、鈴木清順の昭和33年作『踏みはずした春』の看板が場末の映画館にかかっているのだ)。そして『蜜のあわれ』は、犀星の原作を借りつつ鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』を「作り直した」かのような映画なのである。
 だが、石井岳龍監督によるこの“清順ごっこ(!)”はそれこそ無類に楽しい。おそらく石井作品のなかでも、最もユーモアと愛嬌に満ちている愛すべきものとなっている。そのうえで、デビュー作以来ほとんど常に「若さ」あるいは「若者」たちを描き続けてきた石井監督が、たぶんはじめて「老人」を撮ったこと。しかも、「若者」たちの映画が死と破滅というカタストロフィの予兆に彩られていたのに対し、むしろ「老人」映画の方こそが生への慈しみにあふれていたことに、あらあめてぼくは驚かされ、そして“感動”してしまうのである。
《「老い」は生への全面肯定そのものなのである。》(丹生谷貴志)

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