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いつかどこかで見た映画 その108 『のぼる小寺さん』(2020年・日本)

監督:古厩智之 脚本:吉田玲子 原作・珈琲 撮影:下垣外純 出演:工藤遥、伊藤健太郎、吉川愛、鈴木仁、小野花梨、両角周、田中偉登、中村里帆、小林且弥

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 ぴあフィルムフェスティバル(以下「PFF」)といえば、1970年代から現在にいたるまで毎年開催されている映画祭。自主制作映画のコンペ部門「PFFアワード」を中心に、フランソワ・トリュフォーやルイス・ブニュエル、マキノ雅弘など国内外の監督たちの作品を特集上映するといったユニークな活動で知られている。特にPFFアワードでは、これまでに数多くの映画人を輩出。入選者のなかからプロの映画監督としてデビューした数は、現在までになんと140名(!)を超えるという。
 また、受賞者を対象として長編映画の製作を援助する「PFFスカラシップ」でも、橋口亮輔監督の『二十の才の微熱』や、矢口史靖監督の『裸足のピクニック』、内田けんじ監督の『運命じゃない人』など、こちらもそうそうたる監督名と作品タイトルが並ぶ。他にも、黒沢清、森田芳光、犬童一心、園子温、中島哲也、深川栄洋、佐藤信介、石井裕也をはじめ、現代の日本映画を担う才能の多くがこのPFF出身者なのである。
 こうしてあらためてふり返っても、PFFがわが国の映画界にとってどれだけ大きな足跡を残してきたことか。『ぴあ』世代のはしくれとして、ぼくもPFF関連の作品には少なからぬ思い出がある。特に、その頃に見た風間志織の『0×0(ゼロカケルコトノゼロ)』や、斎藤久志の『うしろあたま』、塩田明彦の『ファララ』、塚本晋也の『電柱小僧の冒険』といったPFFアワード入選作は、まったく新しい「日本映画」の可能性を感じさせてくれたものだった。
 そんなPFF出身監督のひとりに、古厩智之がいる。1992年度のPFFアワードで『灼熱のドッジボール』がグランプリを受賞。さらにスカラシップの権利を得て撮った劇場用長編第1作『この窓は君のもの』では、史上最年少の26歳で日本映画監督協会新人賞に選出されるという華々しい経歴を持つ。以後『ロボコン』や『ホームレス中学生』、『武士道シックスティーン』、『無花果の森』等々、寡作ながら着実にキャリアを重ねているのは周知の通り。
 ーーと書きながら、あらためて古厩監督のそのキャリアの出発点である『灼熱のドッジボール』をはじめて見たときの感動を、今も鮮やかに思い出す。16ミリで撮られたこの15分の短編は、おそらくPFFの歴史において最も傑出した作品のひとつだとぼくは信じているのだ。
 転校していく地方都市の女子高生が電車に乗り遅れ、次の電車を待つあいだに河原で見送りにきた同級生たち5人とドッジボールをする。たったそれだけの“筋[プロット]”に、彼女[ヒロイン]を想いをよせている男子ふたりの心情や葛藤、そのうちのひとりをひそかに好きな女子、そんな彼や彼女らを傍観するメガネ男子それぞれの「胸の内」と関係性が、ただボールを投げ合う行為[アクション]のやりとりのなかから見事に浮き彫りにされていく。それは、青春映画にありがちな感傷や恋愛ゲーム的なかけひきとも無縁な、しかし十二分に“なまなましい”高校生たちの複雑な感情のほとばしりを、驚くべき簡潔さと洗練ぶりで描くものなのだった。
 その『灼熱のドッジボール』の人物設定を発展させた『この窓は君のもの』(……ちなみに両作ともにヒロインを演じるのは、初期古厩作品における“美神[ミューズ]”こと清水優雅子だ)では、夏休みがはじまって北海道に引っ越したはずの女子高生・陽子が、ある事情で同級生の男子タロー(演じるのは榊英雄。あたりまえだが、若い!)の隣家にしばらく暮らすことになる。その数日間における陽子とタロー、ふたりをとりまく同級生たちといった「男女7人夏物語」は、ここでも10代の“言いたくても、言い出せない”コトバや、“手を出したくても、手も足も出ない”もどかしさに満ち満ちている。
 それを、ある意味『灼熱のドッジボール』よりもいっそう素朴[ナイーブ]な「自主映画」風の体裁[スタイル]をとりつつ、二度だけちらりと登場する陽子の祖父以外は、親や教師といった「大人たち」をいっさい画面から排除するなど、周到に「何を見せ、何を語るべきか」を心得ている古厩演出の的確さとしたたかさ。何より、陽子やタローをはじめ高校生たちそれぞれのキャラクターを、自然さと誇張のバランスも絶妙に描き分け際だたせるあたり、天性の才を感じさせるにじゅうぶんだった(……もっとも古厩智之自身は、本作の撮影現場におけるプレッシャーで「監督拒否症」となり、その後6年間のあいだ映画を撮れなかったと言っているんだが)。つまりは、この長編監督デビュー作もまた、ぼくという観客を心から魅了したのである。
 そして今回、古厩智之監督の最新作『のぼる小寺さん』に、ぼくが特別な感慨というか「感動」をおぼえたとしたら、それはこの映画が、まさに『灼熱のドッジボール』や『この窓は君のもの』を想起させるものだったからだ。ーーああ、これって「あの頃」の古厩作品の、あの味わい、あの空気感そのまんまじゃないか! と。
 ……そのフィルモグラフィーのなかで、これまでもロボット甲子園(『ロボコン』)や駅伝(『奈緒子』)、剣道(『武士道シックスティーン』)といった、「高校生の部活もの」とでも称すべき一連の青春映画を撮ってきた古厩監督。同名コミックの実写映画化である本作もまた、高校の「ボルダリング女子」と「卓球男子」を中心とした“青春群像ドラマ”だ。
 高校に進学して卓球部に入部したものの、教室でも部活でも無気力な日々をおくる近藤(伊藤健太郎)。ある日、体育館でいつものように床に落ちたピンポン球を拾っていると、クライミング部に所属している同級生の小寺さん(工藤遥)の姿が目に入る。ボルダリングでひたすら“壁”を登り続けるその姿から、目が離せない近藤。
 クライミング部には、もうひとり同級生の四条(鈴木仁)がいた。どうやら彼も、入部の動機は“小寺さんのそばにいたい”からのようだ。さらに、担任教師の前で堂々と「将来はフリーのクライマーをめざします」と宣言する小寺さんにひかれ、ひそかに彼女を写真に撮るカメラ好きのありか(小野花梨)。そして、不登校気味で地元の仲間と遊び歩いていた梨乃(吉川愛)も、小寺さんと出会うことであらためて好きなネイルに打ち込もうとする。
 一方の近藤は、教室でも部活でも小寺さんのことが気になってしかたがない。が、同じクラスであるものの、声をかけることすらできないままだ。しかし、朝早くから体育館でひとりボルダリングの練習に取り組む小寺さんを目にし、彼女と同じ空間を共有するかのように、彼もまた体育館でひとり卓球の練習をはじめるようになる。
 ……映画の冒頭、近藤たち大勢の人々が見守るなかひたすら“壁”を登り続ける小寺さん。それは後半のクライマックスとなるボルダリング大会の場面だと後でわかるのだが、そこに近藤の「ひたすら上を向いて登る。それって、どういうことだろう」というモノローグがかさなる。ーーひたすら上を向いて登る、小寺さん。そう、確かにこの映画のなかで小寺さんは、ほとんど「ボルダリング」のことしか、目の前の“壁”を登ることしか頭にないようなのだ(……もっとも、体育の授業でバレーボールを顔面にくらって鼻血を出しても、今どきナイフで鉛筆を削るときも、先輩のおごりでラーメンを食べるときも、いつでも小寺さんは「一生懸命」ではある。が、“登ること”以外はまるで不器用なのだ)。
 しかし、そんな彼女の“迷いのなさ”が、いつしか近藤や四条、ありか、梨乃といった“迷える4人”にとっての憧れとなり、自分たちを鼓舞して背中を押してくれるかけがえのない存在となっていく。小寺さんは、自身のあずかり知らないままに彼や彼女たちを動かし、その人生にちょっとだけ、しかし鮮やかな「刻印」を残していくのである。
 そして前述の通り、ぼくはそんな小寺さんと近藤たちの姿に、『灼熱のドッジボール』のあの5人を想起せずにはいられなかった。さらに、小寺さんに対する近藤の“手も足も出ない”もどかしさに、『この窓は君のもの』の陽子とタローを重ねあわさずにはいられないのだった。もちろん、あの2作における清水優雅子のヒロインは、むしろ同級生たちを惑わす「小悪魔」的な存在なのだから、小寺さんとはまるで対照的なキャラクターだ。が、我知らず周囲の人間たちをかきまわしながら、陽子や小寺さんによって彼や彼女たちは本当につきあうべき相手を見出し、進むべき道を見出すーー自分たちの“おさまるべきところにおさまる”のである。
 さらにこの映画、高校の担任教師(小林且弥)のほかは、(わずかに学園祭の場面でエキストラ的に登場するものの)ほとんど「大人」が画面に現れない。いかにも“わけ知り顔”の親や教師など、この「のぼる小寺さんと迷える“羊”たち」の物語にあっては邪魔[ノイズ]でしかないと言わんばかりに。このあたりも、同じく「大人」を画面から徹底的に排除した『この窓は君のもの』を彷彿させるだろう。
 この『のぼる小寺さん』の脚本は、『猫の恩返し』や『夜明け告げるルーの歌』など、主にアニメ畑で活躍する吉田玲子によるもの。『映画 聲の形』や『リズと青い鳥』、『映画けいおん!』など、高校生たちを主人公にした「学園ドラマ」にも定評のある彼女だが、ここでもクライミング部の部長・益子(両角周)や先輩の津田(田中偉登)といった脇のキャラクター造型ひとつとってもすこぶる魅力的だ。
 だが、それ以上に本作の彼や彼女たちは、誰もが『この窓は君のもの』の登場人物であってもおかしくはない。それほどまでに両作品は、どこか同質の“空気感”をまとっている。古厩監督とは1歳違いという吉田は、もはやあの映画の実質的な「変奏[リメイク]」としてこのシナリオを書いたのではあるまいか? と“妄想”してしまいたくなるほどに……
 とまれ、そのような脚本を得ての古厩監督は、実にさえわたっている。見る者すべてを10代の、あの純粋で不純な欲望と、滑稽で悲惨な自意識とが混沌とした“青春まっただなか”へと突き落とす、せつなくみっともなく、しかしだからこそ愛おしい「古厩ワールド」が、帰ってきたのである。

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