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いつかどこかで見た映画 ショートver.『リアル鬼ごっこ』(2007年・日本)

監督・脚本:柴田一成 原作:山田悠介 撮影:早坂伸 出演:石田卓也、谷村美月、大東駿介、松本莉緒、吹越満、渡辺奈緒子、品川徹、柄本明


(この文章は2008年1月に書かれたものです。)

 思うに、映画の見方には「−」型と「+」型という二通りあるんじゃあるまいか。「マイナス/プラス」型でも「引き算/足し算」型でも、読み方はいずれでもけっこうだけれど、「−」型が、作品の欠点やら不満点を差し引いていって、減点がより少ない映画を評価するもの。対して「+」型は、その作品でひとつでも評価点があれば、それだけで満足し得るという見方。ひと昔前のニューアカ風(もう死語かな?)に言うなら、前者は映画を“排除と選別”することの批評的眼差しであり、後者は映画を、作品という全体ではなく細部[ディテール]において捉え、“戯れる”ものとすればよいだろうか。
 どちらが良い・悪いじゃなく、たいていの観客(そして批評家ですら)はそれを使い分けながら映画を見て、満足したり失望したりするんだろう。けれど、そうしたなかでもぼくはこれまで、あくまでも「+」の視点で映画を見て行こうと考えてきた。それが映画を「見る」ことにおける、ぼくの唯一の立脚点であり、こういってよければ〈倫理〉ですらあったはずだった。例えば、昨年(2007年)公開されたジャン=クロード・ヴァン・ダムの主演作『ディテクティヴ』。低予算で使い古されたプロットの、これまでさんざん撮られてきた新味ゼロの刑事ものという、確かにいくつものマイナスポイントだらけの代物かもしれない。が、ヴァン・ダムが最大のセールスポイントだったマーシャルアーツをいっさい繰り出さず、うらぶれた悪徳刑事を熱演する姿だけでも、それは実に「見せ(=魅せ)てくれる」ものだったとぼくは思う。しかもキューブリックやマイケル・チミノの作品を担ってきた撮影監督ダグ・ミルサムによる、夜のニューオリンズをとらえた映像など、巨額の製作費を湯水のごとく浪費(!)した昨今の「大作」アメリカ映画とはまったく別の意味で「贅沢」なものだったと言えないか。──もちろん、この映画を傑作だとか、誰にとっても「必見!」だなどと吹聴することはできないだろう。けれど、「+」型の観客にとってそういった見方は、決して奇を衒うものでも贔屓の引き倒しでもない「あたりまえ」のものであるとぼくは信じる。

 ……というわけで、映画『リアル鬼ごっこ』であります。何でも原作小説(最初にそうと知ったとき、マンガじゃなかったの!? と驚いたのは事実)は、100万部を超える大ベストセラーらしい。
 その内容は、独裁君主制となった西暦3000年の日本が舞台。自分と同じ「佐藤」姓が多すぎることに怒った王が、全国の佐藤さんを抹殺するための制令を出す。それは、1週間のあいだ王が配した「鬼」から逃げ通さなければならない。もし捕まったらそのまま収容所へ送られ、処刑される。主人公の大学生・佐藤翼は追っ手の「鬼」から逃げながら、小さい頃に生き別れになった妹を捜そうとするーーというもの。いやはや、正直オジサンには、その設定を聞いただけでつき合いきれません(実際、読者層の中心は中高生らしいのだが)。
 何より、不条理というよりも子供じみた国家権力の横暴により、否応なく殺したり殺されたりするという設定は、『バトルロワイヤル』がすでに先行している(その先には、小説じゃなくポール・バーテル監督のカルト映画『デス・レース2000年』があることを、映画ファンなら先刻ご承知だろう)。そこに“生き別れの妹捜し”やら、熱血友情ドラマの要素で味付けしたなら、確かに『少年ジャンプ』あたりの連載マンガにあってもおかしくない物語の一丁上がり! という次第。そんな、言葉の正しい意味での「ライトノヴェル」の映画化なんぞ、いいトシをした大人が本気で見たいと思うはずもないじゃないか。
 ……と、たぶん作り手の、これが長編映画初監督となる柴田一成も考えたに違いない(?)。そこでこの、まさしく「引き算」ばかりの企画を受けるにあたって、彼は何とか「足し算」的に設定をふくらませようとする。そうして完成したのが、“命がけの鬼ごっこ”という設定以外はほとんど別物の「本格(と言ってしまおう)SF作品」! ──なるほど、柴田監督にあって原作者にないものが、ここでハッキリするだろう。それは、何より先行する映画やコミックに対する「教養」とセンスだ(……などと、読んでもいないのにケナしてばかりですみません)。
 夜の商店街を不良グループから逃げ続ける主人公たちという、まるで『パッチギ!』や『GO』を想わせる冒頭(ちなみに主人公も、高校生に変更されている)にはじまって、映画版『リアル鬼ごっこ』は、ほとんどあからさまなまでに映画やTV、マンガなどからの影響を隠さない。「鬼ごっこ」の舞台を西暦3000年の世界ではなく、この世界と平行して存在する「世界」、いわゆる“多重世界[パラレルワールド]”にもってくるあたり、これが藤子・F・不二雄の「読者」であり、さらにはラストにいたって“ジェームズ・キャメロン以後”の作り手のものであることを、監督・脚本の柴田一成はむしろ誇らしげに告げる。
 また冷酷無慈悲な王様が、「こっちの世界」では貧相なセクハラ医師に過ぎないというのも、ケヴィン・コスナー監督・主演の『ポストマン』における“元はコピー機のセールスマン”だったという独裁者を彷彿させる。そして「鬼」は、さしずめ『ルパン三世・カリオストロの城』の暗殺部隊だろうか。他にも『怪奇大作戦』をはじめ、ぼくなんかより詳しい方ならさらなる元ネタや出典をいくつも指摘できるに違いない。
 もしそれを、“オリジナリティがない”と非難・嘲笑する向きがいたとしたら、愚かなことだ。たとえば山崎貴が監督デビュー作の『ジュブナイル』で、やはり藤子・F・不二雄の『ドラえもん』的な物語を、岩井俊二監督の『打ち上げ花火・下から見るか? 横から見るか?』のタッチ(確か、ロケ地も一緒だったはずだ)で映像化したように(……それから以後も、『リターナー』がキャメロンとジョン・ウー監督作品のあからさまな“焼き直し”であり、『ALWAYS・三丁目の夕日』が昭和30年代東宝映画を溝口健二作品のシークエンスショットで再現(!)するという、あ然とするほど大胆不敵なものであったりと、とどまるところを知らない感じ。だが、その大胆さという以上に良い意味での“無邪気さ”こそが、この監督の最大の才能じゃないかと、ぼくは思う)、何も〈引用〉だのオマージュだのといった小賢しいコトバを弄するんじゃなく、それが作品にとってプラスになるのだったらどんどんパクればいいのである。事実、映画『リアル鬼ごっこ』は、「−」型の見方からはこれも山のように指摘されるだろう“弱点”を抱えつつ、それを上まわるだけの魅力を、「面白さ」を実現しているのだから。

 決して手放しでホメられた作品じゃないことは認めるものの、2008年がこの映画にで始められたことは、やっぱりラッキーだった。と、「+」型の観客のひとりとして感謝の念を表明しよう。ーーさあ、今年もガンバロウ!

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