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いつかどこかで見た映画 その112 『喜劇 愛妻物語』(2019年・日本)

原作・監督・脚本:足立紳 撮影:猪本雅三 出演:濱田岳、水川あさみ、新津ちせ、夏帆、ふせえり、光石研、大久保佳代子、坂田聡、宇野祥平、黒田大輔、冨手麻妙、河合優実

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 田山花袋の『蒲団』といえば、たとえ読んだことがなくても一度はそのタイトルを耳や目にしたことがあるだろう。明治40年(1907)に発表されたこの小説は、その前年に書かれた島崎藤村の『破戒』とともに「日本の自然主義文学」の礎とされる。とともに、「私小説」と呼ばれる文学ジャンルを確立したーーと、現代国語の授業で憶えさせられたものだった。
 しかしこの小説、実際に読まれた方ならおわかりだと思うが、実はとても“きわどい”内容なのである。妻子ある中年(といっても30歳半ばだが)の小説家が、まだ女学校に通う若い女弟子に恋をするも、結局かなうことなく終わる。そのてんまつを赤裸々につづったものなのだが、とにかくこの作家氏、今は「女門下生」として面倒を見る彼女に激しい“欲情”を抱きながら、一方で謹厳実直な「先生」として振る舞わざるをえないジレンマに悶々とするしまつ。しかも、彼女に同じ作家志望の恋人ができたと知るや、今度は嫉妬と絶望で酒に溺れてしまう。さらにいろいろあってついにはこの女弟子を実家に帰すものの、作家氏は、未練がましく彼女が使っていた蒲団と夜着を取りだして、その匂いを嗅ぎながら涙にくれるのである……。
 いやはや、こうして書いていても思わず赤面ものの恥ずかしさというか、「情けなさ」じゃないか。
 そういえば、これも国語の教科書に載っていた森鴎外の『舞姫』にしたって、あらためて思うと相当えげつない。ドイツに留学していた主人公が、現地の女性と恋に落ちるものの、彼女が妊娠したとわかるや苦悩のはてに日本に逃げ帰る。この薄情という以上に“無情”極まる主人公の所業は、まだ純情(?)な高校生をあ然とさせたものだった。
 が、同じ実体験にもとづいたといっても、「雅文体」と呼ばれる格調高い文語調でロマンチックな悲恋物語としてみせた鴎外に対して、田山花袋の『蒲団』は、口語調の「言文一致体」で自身の肉欲と未練まみれなモテない中年男の心情をせつせつと吐露する。同じ「明治のダメ男」でも、その“卑小さ”において逆にダントツの際だちぶりなのだ(……まあ、妊娠させた恋人を見捨てる『舞姫』の主人公のほうが、人として圧倒的に「ダメ」だろうけど)。
 しかし、そんな『蒲団』の主人公の自虐的な「情けなさ」が、《此の一篇は肉の人、赤裸々の人間の大胆なる懺悔録》(島村抱月)などと当時の人々に衝撃と感動(?)をもたらしたらしい。「よくぞここまで自身の日常と、その内なる欲望を“ありのまま”に文学として昇華したものだ」と大評判となった次第。これぞ「真実」(!)の文学というわけだ。
 以来、この「〈私〉を写実する小説」という様式[スタイル]は「私小説」として、大正から昭和にいたる日本の文学史の主潮をなすものと相成った。もっとも今では、私小説なんて貧困や病気、死、親族との確執などといったおそろしく「深刻[シリアス]」な状況をネタにした、“暗い・キツい・気が滅入る”という「3K(!)文学」といったところかもしれない(……平成になって一躍ブレークした私小説作家・車谷長吉の『赤目四十八瀧心中未遂』など、むしろその「3K」こそを徹底することで「エンターテインメント化」したような面白さだったが)。
 だが、田山花袋の『蒲団』にはじまる「情けなさ」の“DNA”は、あまりといえばあまりの悲惨さと自己卑下ぶりに圧倒される嘉村礒多から、山下敦弘監督によって映画化もされた『苦役列車』の西村賢太へといたる私小説作家たちの作品に、連綿と(……細々と?)受け継がれている。つげ義春のマンガ『無能の人』も、その系譜に加えていいだろう。
 それらは、〈私〉の卑小さやみじめさ、愚かしさを、ときに露悪的なまでに描きながら、そういった“弱さ”もまた人間の属性であることを思い出させてくれる。たとえ自分本位で嘘つきでどうしようもないダメ人間であっても、それを“ありのまま”に書くことの「誠実さ」こそが魅力的なのだ。
 そして、そんな「情けなさ」の最新の“精華”ともいえるのが、『百円の恋』で日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受賞した脚本家・足立紳の小説デビュー作、『乳房に蚊』なのである。
 ーー結婚10年目を迎えた売れない脚本家の「俺」とその妻、5歳になる娘。ほとんど収入のない「俺」は妻のパートの稼ぎに頼り、もはや妻への愛情もないくせにセックスだけは求めるという「ダメ男」ぶりだ。もっとも妻は妻で、ことあるごとに「俺」に情け容赦のない罵詈雑言をあびせ、しつこくカラダを求めてくると裏拳で撃退する“強”妻なんだが。
 この家族が、シナリオの取材のため四国の香川県へ5日間の旅行に出かける。その、珍道中というにはあまりにシビアな、笑うに笑えない(が、それでも笑ってしまう)旅のてんまつ。それは、前述のつげ義春『無能の人』における、やはり家族3人での「採石旅行」のくだりを想起させるかもしれない。とは言え、「面白うてやがて哀しき」つげワールドと違って、こちらはペーソスよりも圧倒的に“毒気”たっぷりなのである……。
 そんな小説を、原作者の足立紳自身による監督・脚本で映画化したのが、『喜劇 愛妻物語』だ。これがもう、原作に輪をかけて容赦ない。というか、とことんダメな夫と、とことんコワモテの妻、こんな両親に何を思っているのかいないのかポーカーフェイスをつらぬく5歳児女による、「喜劇」というよりもはやのっぴきならなすぎて“笑うしかない”という「愛憎劇」なのだった。
 映画の冒頭、いきなりどアップで映しだされる、妻の色あせ古びた赤パンツ姿のお尻。それをしげしげと眺める豪太(濱田岳)の、「もう3ヵ月も妻とセックスをしていない」とグチる“独白[モノローグ]”から早くも「情けなさ」全開である。娘のアキ(新津ちせ)がテレビを見に寝室を出た機会を見計らい、マッサージと称して妻のチカ(水川あさみ)ににじり寄るも、ウザがられてまったく相手にされない。
 その後、制作会社のプロデューサーから、前に書いた脚本がいよいよ撮影に入ることを聞かされる豪太。さらに、企画案で出していた「四国にいる高速でうどんを打つ女子高生」の実話ネタを脚本[ホン]にしないかと提案され、その取材に四国の香川県まで行くことにする。だが、取材費も運転免許もない豪太はチカにたよるしかなく(……旅行中に「妻とセックスする」という下ゴコロを隠して)、かくて東京から高松までの“家族旅行”とあいなった次第。
 もっとも、チカがたてたプランはケチもいいとこの超節約旅行だった。「青春18きっぷ」で東京から四国まで普通列車を乗り継ぎ、ようやく高松に着いた1日目の宿はビジネスホテルのシングル1室のみ。豪太とアキがチェックインした後、裏口からこっそりチカが忍び込むという算段だ。が、苦労してホテルに“潜入”したものの、豪太がうっかり風呂で眠ってしまったため部屋に入れないチカは、またも怒りを爆発させてしまう。
 その翌日、チカの運転するレンタカーで、取材先の「うどん少女」宅を訪ねる豪太一家。ところが、少女(河合優実)と両親(ふせえり、光石研)から、すでに彼女をモデルにした映画とアニメの企画が進行中だと聞かされる。懸命に食いさがるチカだったが、それをたしなめる豪太にキレた彼女は人前もはばからず夫を罵倒するのだった。
 夜になって、チカへの憤まんとセックスレスに悶々としながら、ひとり宿を出て盛り場をうろつく豪太。よせばいいのに、今度は酔いつぶれた若い女(冨手麻妙)の下着を覗こうとして警官につかまってしまう。ついにあきれ果てたチカは、今は結婚して小豆島に住む大学時代の親友・由美(夏帆)にひとりで会いに行く。
 残された豪太はアキとともに、やはり小豆島の海水浴場へ。だが、ここでも豪太は娘をほったらかしたまま、どうやら過去にワケありの吾妻さん(大久保佳代子、短いその登場シーンは絶妙にエロくて可笑しい!)と、スマホで東京に戻ってからの「浮気」の相談にいそしむ始末だ(……そして、この場面における濱田岳の、何とも言えないニヤケ顔のみっともなさと「情けなさ」たるや!)。
 とまあ、まだまだ延々とこの「セックス目当てにへりくだる夫と、そのふがいなさに罵声をあびせ続ける妻」の応酬は続く。それを、はじめのうちは彼らの“夫婦漫才”として笑って見ていたわれわれ観客も、次第に心もとなく笑うに笑えなくなってくる。豪太はいつまでたっても「ダメ夫」のままだし、チカも「不機嫌すぎる妻」のまま。娘のアキも、5歳とはいえこの状況をどう思っているのかわからないからこそ、こちらもやきもきしてしまう(……新津ちせの、あえて「内面を見せない・感じさせない」演技の“凄さ”よ!)。こうしてこの一家の「四国旅行」を、いつしか観客はもはやかたずを呑んで見守ることになるのだ。
 何より驚かされるのは、これが「ほぼ実話」だということだろう。足立紳が『百円の恋』以前の、まったく売れない脚本家時代の自分と家族、そしてその頃に決行した香川県への“映画のネタさがし旅行”。それを赤裸々につづった小説の面白さは、よりパワーアップされて映像化されている。というか、パワーアップされすぎて圧倒され、もはや“笑うどころか引くしかない”という面持ちにさせられるほどなのである。
 もちろんそこには、見事にはまったキャストの素晴らしさがあるに違いない。とりわけ妻を演じる水川あさみの罵倒の破壊力たるや、少しでも主人公のダメさかげんに身につまされる男たちにとって、ほとんど“恐怖[ホラー]”ですらある。これも私小説の最高峰である島尾敏雄の『死の棘』で、(映画化作品では松坂慶子が演じた)心を病む妻もまた凄絶に夫をなじり倒すが、こちらのチカさんのほうはいちいち“まっとう”すぎるからなおさらその罵声が身に応えるのだ。
 そして映画は、最後にふたたびチカの赤パンツ姿のお尻を登場させる。小説では冒頭であっさり打ち明けたその赤パンツの由来というか過去のある“ゆえん”を、観客はそこではじめて知らされるのである(……当然ながらチカにも豪太の才能を信じ支える頃があったのだ)。
 そこにこめられた妻の想いというか心情にほだされた豪太は、眠っている妻の赤パンツに向かって、「俺、頑張るから。絶対、頑張るから」といつになく真剣につぶやく。それを目にしながら、観客もまた「ああ、こんな夫婦の関係も“あり”かもな」と、ようやくしみじみ思うだろう。まさに「愛妻物語」としての感動的なエンディング? ーーもちろんそれだけでは終わらないところが、この映画の魅力でありイジワルなところだ。
 そう、田山花袋の『蒲団』のラストが“匂い”を嗅ぎながら咽(むせ)び泣く小説家の姿なら、『喜劇 愛妻物語』は“匂い”を嗅がされて思わず咽(む)せる脚本家だ。かたや「悲劇調」でこちらは「喜劇調」だが、その情けないことにかわりはない。
 しかしその「情けなさ」を喜劇として語りうることこそが、この映画の、そして足立紳という〈私〉小説=映画作家の真の“凄み”に他ならないのである。

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