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いつかどこかで見た映画 その64 『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』(2017年・アメリカ)

“The Beguiled”
監督・脚本:ソフィア・コッポラ 撮影:フィリップ・ル・スール 出演:ニコール・キッドマン、キルスティン・ダンスト、エル・ファニング、コリン・ファレル、アンガーリー・ライス、オオーナ・ローレンス、エマ・ハワード、アディスン・リエッケ

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 南北戦争といえば、周知のとおり19世紀アメリカ合“州”国(と、書く方がここではふさわしいだろう)を文字どおり二分した「内戦[シビルウォー]」だ。黒人奴隷制度をめぐって、廃止を宣言した北部23州と、あくまで存続を主張して連邦離脱を決定した南部11州とが戦争状態に突入。4年にわたって激しい戦闘を繰りひろげた結果、猿谷要氏の『物語 アメリカの歴史』によれば両軍あわせて62万人近い戦死者という、アメリカ建国史上最も多くの犠牲とともに北軍の勝利に終わった(……ちなみに、第2次世界大戦におけるアメリカの戦死者は約32万人)。
 この南北戦争は、合“州”国からの分離独立をめざす南部諸州と、あくまで連邦統一国家としてそうはさせじとする北部諸州の激突だった。そこには、綿花プランテーションを基幹産業とする南部が、安価な労働力として奴隷制度を必要としたという政治的背景が大きい。重工業や商業の発展によって経済的成長をとげた北部との格差がひろがり、南部にとって奴隷への依存は切実なものであったのだ(……もちろん、奴隷にされた黒人たちにとってそんな事情など知ったことか! なんだが)。
 ともあれ、ふたたび国は統一され、奴隷制度は廃止されたものの「解放」とはほど遠い結果となり(……その人種問題が現代まで尾を引いていることは、最近でもキャスリン・ビグロー監督の『デトロイト』などで描かれたとおりだ)、それでも工業の発展を基盤に19世紀後半以降のアメリカ合“州”国は、一丸となっていよいよ「超大国」として君臨していくのである。
 そういった南北戦争を直接的に描いた映画といえば、まず筆頭にあげられるのが『風と共に去りぬ』だろう。南部の農園主の令嬢スカーレット・オハラを主人公とした壮大な一代記は、ハリウッド黄金時代を代表する名画として今さら紹介するまでもない。
 また、D・W・グリフィス監督によるサイレント映画時代の大作『国民の創生』も、南北戦争をめぐる北部と南部それぞれの名家がたどった波瀾万丈のドラマを描いたものだった(……もっとも、あまりにも露骨な黒人への偏見と人種差別的描写により、公開当時から現在にいたるまで物議をかもしてきた作品でもあるんだが)。そして興味深いのは、このアメリカ映画史上に残る2作品とも“敗者”である「南部」への共感と郷愁に満ち満ちていることだろうか。
 近年の映画では、ジュード・ロウとニコール・キッドマンが主演した『コールドマウンテン』や、北軍の黒人部隊を描いたマシュー・ブロデリック、デンゼル・ワシントンらが出演した『グローリー』が思い浮かぶ。また、台湾出身のアン・リーが監督した『楽園をください』、マシュー・マコノヒーが黒人の反乱軍をひきいる『ニュートン・ナイト/自由の旗をかかげた男』も印象に残るところ。何度も映画化されてきたルイザ・メイ・オルコット女史の『若草物語』も、父親が北軍の従軍牧師として出征した4姉妹と母親の物語なのだった(……そしてこれは余談だが、ウィノナ・ライダーが長女でスーザン・サランドンが母親を演じた94年版の映画化作品は、傑作のほまれれ高い33年版や49年版に比しても遜色のない素晴らしい出来映えだったと思う)。
 そういったなか、ひときわ異彩を放つ“南北戦争もの”といえば、やはり『白い肌の異常な夜』だろうか。負傷した北軍兵士と、南部ジョージアのとある女子学園で暮らす女たちが繰りひろげる、愛憎と欲望のドラマ。それを監督したのがドナルド(ドン)・シーゲルであり、北軍兵士を演じたのがクリント・イーストウッドなのだから、今さらながら意外というか驚かずにはいられない。
 その頃すでにアクション・スターとして勢いに乗っていたイーストウッドと、これまた切れ味のいいアクション映画監督として活躍してきたシーゲル監督。そんな彼らが『マンハッタン無宿』『真昼の死闘』に続く3本目のコンビ作に選んだのが、この陰々滅々たる「南部ゴシック」風心理スリラーだったことに、当時の人々もまた困惑しただろうことは想像に難くない。が、(当然ながら、というべきか)興行的に惨敗した本作の実現に最も執着したのがイーストウッド自身だったというこの映画こそ、その後の彼の「監督」としての作家的資質であり本質を“予告”するものにちがいない(……ちなみに、この映画が公開された1971年には、イーストウッドが初監督した『恐怖のメロディ』と、シーゲル監督・イーストウッド主演コンビの代表作『ダーティハリー』もまた公開されている。いやはや、まったく何という「イーストウッド・イヤー」であることか!)。
 ところで、『白い肌の異常な夜』(という日本語タイトルこそ“異常”だが……)の原題は、欺かれし者とも、恥ずべき者とも訳せる「The Beguiled」。そして、昨年のカンヌ映画祭で女性監督としては実に56年ぶり、2人目となる監督賞を受賞したソフィア・コッポラ監督の最新作も、「The Beguiled」だ。ーーそう、この『ビガイルド 欲望のめざめ』は、シーゲル=イーストウッドのコンビ作にして最も「カルト」な異色作の再映画化[リメイク]である。というか、彼ら偉大な「男たち」への、「女」であるソフィア・コッポラからの意趣返しというか挑戦状(!)だったのである。
 ……舞台となるのは、1864年の南部バージニア州。女子寄宿学園で暮らすエイミー(ウーナ・ローレンス)は、広大な領地内の森で負傷した北軍兵士マクバニー伍長(コリン・ファレル)と出会う。足に深い傷を負った彼を見捨てられず、学園まで連れて帰るエイミー。そこにいるのは、園長のマーサ(ニコール・キッドマン)と教師のエドウィナ(キルスティン・ダンスト)、さらに戦禍を避けて学園にとどまるエイミーを含めた5人の女生徒たちだけだった。
 思わぬ敵兵の存在に困惑するマーサだったが、気を失ったマクバニーの傷を処置し、恢復するまで面倒をみることにする。だが、女たちだけの学園に現れた“異性”に、まだ10代の女生徒たちは色めきたつ。なかでも年長で早熟なアリシア(エル・ファニング)は、こっそりマクバニーの部屋に忍び込んでキスをするなど積極的だ。
 やがて、手厚い看護により順調に恢復したマクバニー。男っぷりがよく、しかも兵士らしからぬ紳士的な態度で彼女たちに接するマクバニーは、生徒たちだけではなく、マーサやエドウィナの好意をも得ていく。そうしたなか、マクバニーはエドウィナに愛を告白。エドウィナもまた、すっかり彼に心を奪われていた。そして、「今夜、部屋に行くから待っていてくれ」の言葉に、マクバニーを待ちわびるエドウィナ。しかし、夜が更けても彼は現れない……。
《71年のドン・シーゲルのオリジナル映画を観たときから、この映画をリメイクしたいと思っていた。アーティスティック・ディレクターのアン・ロスは、絶対あなたがリメイクすべきだってずっと言っていたのよ。(中略)オリジナルでは兵士から見た視点で描かれているのだけど、視点を変えて、女性のほうから見て同じストーリーを描き直すのは面白いかもと思うようになりました。》と語る監督のソフィア・コッポラ(引用は『ヌメロトウキョウ』11月号掲載のインタビュー記事より)。ーーそういえば、この映画のエンド・タイトルでちょっと驚かされるのは、そこに「原作」として小説の作者であるトーマス・カリナンの名前とともに、アルバート・マルツとアイリーン・カンプの名が併記されていたることだろう。何となれば彼らこそ『白い肌の異常な夜』の脚色者なのである。つまり監督・脚本のソフィア・コッポラは、小説というよりドン・シーゲル版の映画の方こそをここで“脚色”していたのだ。
 なるほど、確かに物語の展開は両作品ともほとんど「同じ」と言っていい。冒頭から結末にいたるまで、コッポラ版のリメイク作はシーゲルとイーストウッドによる元の映画化作品をほぼ忠実に追っている。驚くべきなのは、だのにこの2本の映画は“まったく似ていない”ことであるに違いない。
 思えば、シーゲル=イーストウッド版『白い肌の異常な夜』は、あきらかに「女性」性に対する「男」の側の“怖れ”を描いたものだった。禁欲的な生活をおくっていた女たちが、男を前にして互いに欲望をつのらせていく。それを煽ることで悦に入っていた男の不実を知ったとき、女たちは最も残酷なかたち(“去勢”!)で男に復讐し、葬り去ってしまう……というこの物語ほど、男どもを震えあがらせるものはあるまい。
 そんな、ほとんど「女性嫌悪[ミソジニー]」そのものといった“同じ”物語を、ソフィア・コッポラは、今度は「女」の側から読みかえていく。するとそこには、(異)性にめざめることで、幼い少女ですら年長者とおしゃれを張り合い、自分の欲望にとまどいながら、不器用に、あるいは大胆にそれを表すことを怖れない彼女たちーーソフィア・コッポラがこれまでの作品でも一貫して描き続けてきた、ドロドロとした愛欲などとはどこまでも無縁なあの「彼女たち」が立ち現れるのである(……たぶん、それゆえこの映画は、「女たちによる欲望と復讐のドラマ」を期待した観客を“失望”させるものであるかもしれない。けれど、ソフィア・コッポラの作品を支持し愛するファンにとって、そういった批難こそ“お門違い”であるだろう)。
 ……南北戦争が続いていることを告げている、遠くでとどろく砲声。そんな現実というか「外」の世界から隔絶した深い森のなかの学園は、女たちだけの“小宇宙”だ。その「内」なる世界から、彼女たちはひそかに「外」へと連れ出してくれる“誰か”を待ち望んできた。そう、同じコッポラ監督の『ロスト・イン・トランスレーション』のスカーレット・ヨハンソン演じるシャーロットや、『マリー・アントワネット』の王妃のように。そして現れた男は、初めのうちこそまさにそういった“王子様”に思えたものの、結局“ちょっとした”不幸な行き違いによって、彼女のたちの夢はかなうことなくついえてしまう。こうして彼女たちは、「内」なる世界でふたたびおとずれる“誰か”を待ち続けるのでした。めでたし、めでたし(?)
 ーーそうなのだ、ドン・シーゲル=イーストウッド版の作品を見た者なら周知のとおり、このソフィア・コッポラの再映画化作品でも兵士である「男」は悲惨な末路を迎える。だがそれは、「女たち」の異常な欲望のはての復讐ではなく、ここではあくまで“ちょっとした”ことの結果なのである。
 こうして、ソフィア・コッポラは、「男」であるシーゲル=イーストウッド的な女性性への“偏見”に対して、やんわりと、しかし断固たる「NO」を突きつけてみせる。フェミニンというよりは永遠の「少女性[ガーリー]」こそが魅力だった世界観はそのままに、それでも“成熟”をはたすことができることをソフィア・コッポラはこの映画で見事に証明してみせたのだ。

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