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いつかどこかで見た映画 その57 『パーマネント野ばら』(2010年・日本)

監督:吉田大八 脚本:奥寺佐渡子 原作:西原理恵子 出演:菅野美穂、小池栄子、池脇千鶴、本田博太郎、加藤虎ノ介、山本浩司、ムロツヨシ、霧島れいか、汐見ゆかり、町野あかり、ミヤ蝶美、嶺はるか、岡部幸子、路井恵美子、宇崎竜童、夏木マリ、江口洋介

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 最近でこそあまり騒がれなくなったものの、世の良識ある(?)方々から何かと目の敵にされる、インターネットの某巨大掲示板サイトは、数々の流行語やら“新造語”の発信源であることでも知られている。
 たとえば「マジレス」や「コピペ」などは、今や一般的なIT用語として使われているし、文の末尾に「w」を付けるのも、某掲示板以外で当たり前のように見かけるようになってきている(ちなみにこの小文字の「w」は、嘲笑的な「(笑)」を簡略化した記号的表現)。また、ベストセラーとなり映画化など社会的なブームになった『電車男』も、そもそもはあの掲示板の書き込みに端を発したものだった。
 と、皆さんには何を今さらといった周知のことがらだろうけれど、最近になってようやくその怪しくも猥雑な、魑魅魍魎(?)世界に眼を開かれた(……確かにこれじゃあ、“10年遅れている”と笑われても仕方ないな)者としては、これがけっこうエキサイティングなんである。新しい「ことば」や表現が立ち上がり、内輪で流通していた一種の“暗号[スラング]”が流行語として一般化していくさまの実例が、ここには事欠かないのだから(その反面、そこに書かれていることの大半は、彼ら書き手も自覚している通り、まさしく“便所の落書き”でしかない。それはそれで興味深いものがあるんだけれど、眼にしているうち、いささか心がすさんでくる気がするのも事実だ……)。
 そうした“新造語”のひとつに、「メンヘラー」というのがある。メンタルヘルスを語源として、神経症や心身症など“心の病い”を負った者のことをさす(……もっとも某掲示板的には、“「メンヘル(メンタルヘルス)板」というカテゴリーの掲示板に集う面々”ーーのことらしい)。まあ、「サイコ」とまではいかないけれど、これもかつて流行ったコトバでいえば、「ほとんどビョーキ」な面々に向けられた別称[スラング]だ。そしてぼくはといえば、このメンヘラーを、メルヘンに接尾辞をつけた「メルヘナー」とかん違いしていた。ーーなるほど、いかにもあの掲示板に粘着してそうな「現実から逃避した“痛い”ヒト」ってことね、と。何のことはない、本当に“痛い”のはオノレ自身だったという次第。
 以上、つまらない、確かにどうでもいいハナシだ。けれど、実はそんなことを、ぼくはこの『パーマネント野ばら』という映画を見ながら思い出していたのだった。というのも、西原理恵子の同名漫画を原作にした本作は、ある意味まさに「メンヘラー」と「メルヘン」をめぐる、というか、その間でゆれ動いているかのような作品だったからである。

 ……高知県の海に面したとある田舎町。離婚して、実家の美容室「パーマネント野ばら」に幼い娘と出戻ってきた主人公・なおこ(菅野美穂)の周囲は、町のひなびた風情とは真逆のキテレツな人間模様のるつぼだ。
 美容室を切り盛りするなおこの母親・まさ子(夏木マリ)は、再婚相手の夫(宇崎竜童)が外でつくった女の家から帰ってこないことに機嫌が悪い(……「男の人生は真夜中のスナックや。ええか、夜中の例えば2時に、何でか次のスナックにハシゴする男の気持ちがわかるか? 2時やで2時。次に行く店は絶対ここよりろくでもないで。けどやっぱりワシという男を、ここで終わりにするワケにはいかんのや」が、この亭主の“言い分”。意味不明だが、これには笑った)。
 そして、なおこの幼なじみで、フィリピンパブを経営するみっちゃん(小池栄子)は、カネと女にだらしがない夫に悩まされている(……店の女の子に亭主が手を出し、「今度は本気かも」と焦燥にかられたみっちゃんは、ついに亭主ではなく彼女の方をひき殺そうと車で追いかけ回す!)。
 もうひとりの幼なじみで、これまた男運の悪い友人のともちゃん(池脇千鶴)も、やっと暴力沙汰や痴話喧嘩とは無縁の男と結婚できたと思ったら、これがとんでもないギャンブル狂いのはてに行方不明。苦楽をともにしてきた愛猫にも死なれ、今は夫の身を案じる日々だ(……やがてこのダンナは、山中でミイラと化した遺体となって発見されたと伝えられる)。
 他にも、美容室の常連であるオバサンたちは、毎日のように下ネタ全開の“男漁り談義”に花を咲かせ(……どうやら彼女たちにとって、男は「チンコ」以外に何の価値もないらしい)、ゴミだらけの小屋に住み、同居する爺さんがなぜか次々と入れ替わる(……前の男のことを訊ねても、ただ「死んだ」と答えるばかりなのだ)老婆など、とにかく出てくる女たちはことごとく「不幸」でありながら、猥雑で、パワフルで、バイタリティに満ち満ちている。その一方、男たちはあっさり捨てられたり、死んだり、せいぜいまさ子の亭主のように(強がりながらも)別の女のシリに敷かれて生きるのが関の山なのである。
 ……人生をクローズアップで見たら悲劇、ロングショットで見たなら喜劇だといったのは、チャップリンだった。だがこの映画は、一見すると“不幸な人生”の諸相を逆にクローズアップすることで喜劇化している。ーーダメ男に翻弄され、みっともなくのたうち回る女たちや、結局は彼女らの前で自滅していく情けない男たち。当事者である彼女や彼らにとって、もちろんそれは不幸であり「悲劇」であるだろう。けれど第三者にとってその様子は、ただ滑稽な「喜劇」に他ならない。そしてこの映画は、その“滑稽さ”をクローズアップしてみせるのである。

(……ここで、またも余談。本作で描かれる女たちを見ながら、ぼくは溝口健二監督の映画を思い起こさずにはいられなかった。いうまでもなく“世界のミゾグチ”もまた、封建的な時代の理不尽さや社会の酷薄さーーつまりは、いつの世も「男たち」に翻弄され虐げられる女性たちの不幸を描き続けてきた。なかでも『西鶴一代女』の、田中絹代演じるお春の怒濤の転落人生たるや、「悲劇」以外のなにものでもないだろう。が、そのあまりといえばあまりな不運の連続ぶりは、実のところ「喜劇」と紙一重だ。事実ぼくはあの映画を見ると、いつも不謹慎ながら思わず何度も“爆笑”してしまう。
 とはいえ、その度を超した悲劇の「喜劇性」に、溝口監督は徹底して無関心を貫く。このヒロインには笑いさえよけいな“贅沢”だといわんばかりに、どこまでも彼女を汚し、辱め、貶めていく。そして最後、自分を不幸へと追いやり続けた男たちはとっくに死にはてたのに、それでもなお生き残り、生き続けるお春の姿こそを溝口監督が本当に描きたかったのだと思いいたる時、ぼくたちはあらためて「女性」というものへの畏怖の念にうたれるのである。
 もちろんこの『パーマネント野ばら』に、そのようなミゾグチ的「残酷さ」はない。その代わり、“悲劇的な人生を喜劇的に生きる女たち”への「優しさ」がある。この時もちろん、「残酷さ」も「優しさ」も「愛」と同義である。)

 そんななか、ひとり主人公のなおこだけは、この「悲/喜劇」の遠近法とは無縁のように見える。周囲の騒動のかたわらで、彼女だけはどこか自分だけの世界に閉じこもっているように見えるのだ。
 それは、なおこが高校教師のカシマ(江口洋介)と密やかな恋を重ねていること、さらに、娘が別れた夫の方になついているらしいことからくるものだと、一応は了解できる。だが、彼女がカシマに電話しながら「何でなん、寂しゅうてたまらんのよ」と泣きくずれる場面は、なおこが抱えるもっとより深い孤独や絶望を感じさせずにはいられないだろう。
 実際、映画は終盤近くで、なおこについてのある思いがけない“秘密”(いや、この場合は“真実”というべきか)を明らかにする。もっとも、そのこと自体は驚くという以上に「ああ、やっぱり……」と納得してしまうたぐいのものだ。むしろ、いかに彼女が深い絶望の淵にいて、それにより心に深い痛手を負っていたのかということを、観客はあらためて思い知ることになる。そう、なおこひとりが本作のなかで、ひとりロングショットの「悲劇」を生き続けてきた、そしてこれからも生き続けるだろうことを、ぼくたちは気づかされるのだ。
 ならばこのまま映画は、一挙に「悲劇的」な方向へなだれ込んでいくのだろうか? ところが、なおこの抱えるその“真実”を、母親のまさ子はもちろん、みっちゃんも、ともちゃんも、町のオバサンたちもみんな知っていた。彼女たちはすべて承知のうえで、なおこを現実逃避させるままにしてくれていたのである。さらに、なおこの幼い娘もまた、たぶんその“真実”を受けとめ、受け入れていた(娘がなおこに「おかあさん」と呼びかける、その声の優しさ……)。
 この結末は、深い感動を与えずにはおかない。心に深い痛手を負ったヒロインにとって、この海辺の小さな町こそが自分をまるごと肯定してくれる〈場所〉であり、ここでなら彼女は、いつでも理想の「王子様」と愛をかわせる「お姫様」でいられ続けるのである。ーーそう、はじめにぼくがこの映画を「メンヘラー」と「メルヘン」の間でゆれ動くもの、と書いたのは、そういうことなのだった。
 監督の吉田大八は、長編デビュー作『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』でも、姉妹の愛憎劇と見せかけてあたかもアニメ『トムとジェリー』のような“ネコと獲物(ネズミ)”をめぐる、苛酷な寓話[メルヘン]を創りあげたことを思い出す。残念ながら第2作の『クヒオ大佐』は見逃したままなのだけれど(そしてこれまた、実に面白そうな映画なのだが)、続く本作においていよいよ現代におけるすぐれた「メルヘン・メーカー」であることを実証したのではあるまいか。

 ーーいやぁ、前回も書いたけれど、今年(2010年)の日本映画はやっぱり充実しているなぁ。

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