見出し画像

いつかどこかで見た映画 その119 『降霊』(1999年・日本)

監督・脚本:黒沢清 脚本:大石哲也 原作:マーク・マクシェーン(『雨の午後の降霊会』) 撮影:柴主高秀 出演:役所広司、風吹ジュン、草彅剛、磯部詩織、岸部一徳、きたろう、清水大敬、戸田昌宏、山本竜二、大杉漣、石田ひかり、哀川翔

画像1

 ウイルスの世界的蔓延で終末もののパニック映画めいた「現実」が続くなか、こういうときこそ“好きなもの”だけを眼にし耳にし口にしたいものだーーということで、「見逃したままだったホラー映画をこの機会にあらためて見よう」シリーズをいってみよう。そして今回とりあげるのは、黒沢清監督の1999年度作品『降霊』であります(クロサワ・キヨシ愛好家を公言しておきながら見ていなかったのかよ! というお叱りは、つつしんで頂戴いたします……)。
 この1999年は、本作の他にも『ニンゲン合格』や『カリスマ』、『大いなる幻影』と、実に4本もの長編監督作品が並ぶ、まさに“クロサワ・イヤー”とも言うべき年。その2年前の97年には傑作『CURE』で一躍その名を世界に知らしめ、また前年の98年にはVシネマながらファンのあいだでは“最高傑作”とも称される『蛇の道』と『蜘蛛の瞳』の二部作を撮っている。さらに翌2001年の『回路』で、カンヌ国際映画祭の国際批評家連盟賞を受賞という、まさに最も脂の乗りきった時期の1本だ。
 もっとも『降霊』は、ご存知のように「劇場用映画」として撮られたものではない。もともとこの作品は関西テレビが製作し、「2時間ドラマ」として放映されたもの(ちなみにテレビ放映時のタイトルは、『降霊 ウ・シ・ロ・ヲ・ミ・ル・ナ』)。しかしそのクオリティの高さが評判となって後に劇場公開され、海外、なかでもフランスでは高く評価されたという(……黒沢監督自身もインタビュー集『黒沢清の映画術』のなかで、「海外では完全な映画として扱われて、僕の代表作の一つにされています。『降霊』は向こうではとても人気があります」と、やや誇らしげ(?)に語っている。黒沢清は後にフランスで本格心霊映画『ダゲレオタイプの女』を撮るのだが、その背景には、あの国での本作の人気もあったのではあるまいか)。
 ともあれ、オンエア時に見逃したまま現在にいたる本作のDVDを、今ごろになってようやく手にした次第。そしてよせばいいのに深夜にひとりきりで見たのだが……いやはや、これが予想をはるかに超えてとんでもなく「おそろしい」作品だったのである!
 主人公となるのは、とあるテレビ局の音響技師として働く佐藤(役所広司)と、その妻で専業主婦の純子(風吹ジュン)。ふたりは、郊外の広々とした田園風景にぽつんと建つ一軒家で暮らしている。ふたりのあいだに子供はいないが、たまの休日には外で食事を愉しんだりと、仲むつまじい日々だ。
 けれど、一見するとありふれた普通の夫婦だが、実は純子には強い「霊能力」が備わっていた。彼女は霊を目にしたり、死んだ人間の霊を自分のなかに“召喚”することができる霊媒師なのだった。ある日も、その能力を人づてに伝え聞いてきた女(石田ひかり)から、亡き夫を降霊術で呼び出して再婚していいかを訊いてほしいと頼まれる(……そのてんまつが、すでに「イヤな感じ」を醸しだして絶品だ)。
 そんな純子の能力に対して距離をおき(というか、見て見ぬふりをして)、あくまで「普通の妻」として接する夫の佐藤。純子もまた夫の前では「普通」に振る舞うが、心理学専攻の大学院生・早坂(草彅剛)は彼女の霊媒師としてのずば抜けた才能に注目していた。
 ーーと、以上が物語の導入部[プロローグ]。とにかくこの作品、その冒頭からして“不穏”さに満ち満ちている。誰もいない大学の教室で早坂(……ちなみに下の名前は「文雄」。いかにも“クロサワ”らしいシャレである)を待つ純子の背後には、得体の知れない「黒い影」がヌッと立っていたりするのである。そしてそれは、別の場所での早坂と大学教授・北見(岸部一徳)の会話によって、彼女の霊媒師としての能力が並々ならぬゆえに「呼び寄せられた」ものであることをぼくたちは教えられるだろう(……霊体の気配を感じ取りながら、決してそっちをふり返ろうとしない風吹ジュン。その表情の素晴らしさ!)。
 ある日、もはや自分の能力など忘れて、夫の望んでいるように「普通の主婦」として生きようとパートに出た純子。だが勤め先のファミレスで、傲慢なサラリーマン客(大杉漣)に真紅のドレス姿の幽霊が取り憑いているのを見て、純子はその日のうちに仕事を辞めてしまう。もはや“霊”に関わることのない平凡な人生など、自分には望み得ないのだとさとったかのように。そしてそんな彼女自身の葛藤と、霊媒師として生きることの“覚悟”が、後半の「悲劇」につながるものであることを、やがてぼくたちはイヤというほどに目撃することになるのだ……。
 こうしてふたたび霊媒師にもどった純子と、夫の佐藤。この夫婦の運命が、ひとつの誘拐事件によって大きく動きだす。──ある日、純子は早坂と北見教授に大学へと呼ばれる。そこには、教授の古い友人だという柏原刑事(きたろう)も同席していた。刑事は、誘拐された少女のゆくえを探していると言う。その犯人が逃走中に大怪我を負って意識不明となり、少女の安否がつかめないのだと。そこで早坂が、純子に捜索の協力を依頼してきたのだった(……このあたりは、元ネタとされるイギリス映画『雨の午後の降霊祭』というよりデイヴィッド・クローネンバーグ監督がスティーブン・キングの原作を映画化した『デッドゾーン』を彷彿させる)。
 少女の写真とハンカチをあずかり、手にする純子。しかし、その場では何も感じたり見えたりしない。霊媒師として捜査の役に立てなかったことで悄然と帰宅した純子だったが、ふともう一度ハンカチにふれた瞬間、彼女の表情が変わる。誘拐されたはずの少女が、自分たちの“この家にいる”ことに気づいたのだ。
 実はこのとき、少女のゆくえを本作を見るものはすでに知っている。その少し前に、少女が森のなかを犯人から逃げて、大きなジュラルミンケース内に身を潜める場面を見ているからだ。それは、たまたまこの森に風の効果音を録りにきていた佐藤のものだった。彼は、なかの少女に気づかないままケースに鍵をかけ、自宅のガレージに放置していたのだった。
 そうとは知らないまま淡々と日常生活をおくる佐藤と純子と、そんなふたりをやきもきしながら、文字通り手に汗を握って見守ることになる観客──オイオイ女の子が死ぬぞ、はやく気づけよ! と。このあたりのサスペンスの盛りあげ方なども、実にお見事の一語だ。「作家性」とはまた別の、黒沢清の「職人技」的な作術劇や演出の“巧さ”を、ここでぼくたちはたっぷりと堪能できるだろう。ともすれば、その寓意性や暗喩[メタファー]による重層的な語り口で「難解」とも称される黒沢清作品にあって、先のふたつの「幽霊」登場シーンとともに実に明快でわかりやすい。この「わかりやすさ」もまた本作のポイントにちがいない。
 さて、ようやく救出されたものの、仕事用のジュラルミンケースのなかですでに“死んでいる”と思われた少女。だが、彼女は奇跡的に生きていた。途方にくれる佐藤夫婦の前に、少女はゆっくりと這ってあらわれたのだ(……この場面の、前年に公開された中田秀夫監督の『リング』における貞子登場の「パロディ的」な演出は、ゾッとすると同時にニヤリとさせられる。黒沢監督、楽しんでるなぁ)。しかし、すぐに病院か警察に連絡しようとする佐藤に対して、あろうことか純子はそれを制止するのである。彼女は、誘拐された少女を発見したことで、自分の霊能力を世間に認めさせようと考えたのだ。
 もちろん佐藤は、妻のそんな考えをあらためさせようと諭す。が、純子は夫に言い放つのだ、「何でもいいのよ、でも何かあると思ってたから一緒に生きてきたのに! 私ここで終わっちゃうの? いつの間にか年をとって、結局何もしないでここで終わっちゃうんだ!」と。純子の意外な一面に、ただただがく然として、妻を見つめる佐藤。
 ……そう、何が「おそろしい」と言って、この場面における風吹ジュンは正直どんな幽霊や怪異現象よりもおそろしい。今までの生活のなかでじゅうぶん知り抜いていたと思っていた妻の、まったく気づきもしなかった胸のうちのどす黒い“思い”を知らされ、これまで積み重ねてきた「ふたりの時間」が全否定されてしまった夫の驚愕と茫然自失。それまで彼ら夫婦の仲むつまじさが丁寧に描かれてきただけに、「ホンネ」をさらけ出す風吹ジュンの豹変ぶりがなおさらおそろしいのだ。
 そして、「一度くらい、夢を見させてよ」と懇願する純子の言葉に、なすすべもなく同意するしかない佐藤。だがその後、少女が本当に「死んでしまう」ことで純子の計画はあっさりと頓挫する。しかたなく遺体を森に埋めたものの、それ以来、少女の“霊”に取り憑かれたふたりは破滅への道をころがり堕ちていくのである。
 ……いうまでもなく黒沢清は「ジャパニーズ・ホラー」の代表的な監督のひとりともくされ、そのフィルモグラフィーにも初期の『スウィートホーム』から『LOFT』、『叫』、『ダゲレオタイプの女』などと「幽霊譚」が並んでいる。だが、(『スウィートホーム』はともかく)そこに現れる“幽霊”たちは、たとえば後輩の清水崇や中田秀夫、あるいは鶴田法男といった「Jホラー」の担い手たちのように、観客を恐怖で震えあがらせる存在とは少し違うのではないか(……黒沢清作品の「恐怖」は、むしろ『CURE』や『カリスマ』のように“幽霊”が登場しないものにこそ、その本領があるように思う)。黒沢映画における“幽霊”は恐怖の対象というより、登場することで世界を「変容」させるものとしてある。“彼ら”が現れることで、この世界はいやおうなく変容し崩壊してしまう。なにかそういった超越的というか「絶対的」な存在なのである。
 だがこの『降霊』にあっては、ともすればそういった「哲学的」な晦渋さが影をひそめ、前述の通り実に「わかりやすい」幽霊譚[ゴースト・ストーリー]となっている。だからぼくたちは安心(!)して、実にかわいそうな役所広司と風吹ジュン演じる夫婦を破滅へと導く少女霊の因果物語を、(いささか身につまされつつも)恐がりながら楽しめばいいのだ。
 ……それにしてもあの少女、本当はいつ「死んでいた」んだろう?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?