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いつかどこかで見た映画 その185 『最悪な子どもたち』(2022年・フランス)

“Les Pires(The Worst Ones)”
監督・脚本:マロリー・ワネック、ロマーヌ・ゲレ 脚本:エレオノール・ガレー 撮影:エリック・デュモン 出演:マロリー・ワネック、ティメオ・マオー、ヨハン・ヘンデルベルグ、ロイック・ペッシュ、メリーナ・ファルデンブランケ、アンジェリク・ジェルネ、マティアス・ジャカン



 フランソワ・トリュフォー監督が撮った『トリュフォーの思春期』は、《子供たちを「演出」することは不可能なので、いろいろな「状況」だけを設定して子供たちの「ありのままの姿」をとらえてみた》映画だ──とは、トリュフォー自身が小説化[ノヴェライズ]した『子供たちの時間』で、映画評論家の山田宏一氏による「訳者あとがき」の一節。といってもそれは、《大人から見た子供の「内面の真実」といったきめつけによるドラマチックな展開はなく、「不思議の国のアリス」のような文学性もない。(中略)『アメリカの夜』と同じスタイルで数々の「具体的な真実」のエピソードをからめた作品なのである》と。
 昨年のカンヌ国際映画祭「ある視点」部門でグランプリを受賞した、リーズ・アコカとロマーヌ・ゲレの共同監督作『最悪な子どもたち』を見て、ぼくがまっさきに想起したのが、この『トリュフォーの思春期』なのだった。それはこの両作品が、どちらもフランスの地方都市を舞台にしたひと夏の物語(といっても、そこにあるのは「物語」らしい物語のない“断片[エピソード]”ばかりなのだが)であり、実際に現地で暮らす演技未経験の子どもたちを出演させたものだからだろうか。
 だがトリュフォー作品が、《生まれたての赤ん坊から最初のキスを体験する思春期寸前の少年少女に至るまで、いろいろな年齢の子供たちをいろいろな環境と時間で、じつにいきいきととらえた映画》(山田宏一、前掲書)であるのに対し、『最悪な子どもたち』に登場するのは、もう少し年齢が上のさまざまな精神的・社会的な問題を抱えた4人の子どもたちだ。10代前半から半ばの彼や彼女たちは、オーディションで選ばれ“映画に出演する”ことでまったく新しい「世界(=大人たち)」と出会うことになる。つまりこれは、もう1本のトリュフォー作品『アメリカの夜』のような、映画の撮影現場をめぐる映画であり、一見するとむしろ『トリュフォーの思春期』とは真逆の印象というか、ポジとネガの関係のような作品なのである。
 映画の冒頭は、そんな子どもたちのオーディション風景だ。登場するのは、無免許運転で人身事故を起こし、厚生施設から出所したばかりのジェシー(ロイック・ペッシュ)、質問にも口数少なく、あきらかに映画出演に乗り気ではないマイリス(メリーナ・ファンデルプランケ)、周囲から“ビッチ”と陰口されている奔放なリリ(マロリー・ワネック)、そして、母親の悪口を言われると怒りで自分をコントロールできないというライアン(ティメオ・マオー)。結局この4名の少年少女たちを中心に、映画が撮られることになる。
 彼らの地元でオールロケされる『北風に逆らえば』というタイトルのその映画は、どうやら祖母と暮らす姉弟たちの物語らしい。15歳の長女のリリはジェシーとのあいだに子どもを身ごもり、リリが母親がわりだった弟のライアンは、そんな姉の妊娠にまた「母」を失うのではないかと動揺している。そういった家庭内のすべてを、困惑しながらも静かに見守る次女のマイリスーーといった内容が、やがておぼろげながらわかってくる。
 しかもそれは、演じる彼ら自身の実体験や性格をそれぞれ役に投影したものだった。実際にライアンは生活能力のない母親から引き離されて児童養護施設にあずけられ、いまは年の離れた姉のメロディ(アンジェリク・ジェルネ)と暮らしている。リリもまた、最愛の弟を亡くした心の痛手から自暴自棄になっていた。監督のガブリエル(ヨハン・ヘルデンベルグ)の狙いは、演技経験のない彼らに自分自身と「等身大」の人物を演じさせることで、そこから“真実[リアル]”な感情や「ありのままの姿」を引き出すことにあったのだ。
 だが、撮影早々にマイリスは降板。演じながらなかなか感情をおもてに出そうとしないライアンに苛立ち、つい怒鳴り声をあげるガブリエルは、ケンカの場面で必要以上に子どもたちをけしかけて彼を追いつめたりもする。あるいはリリとのベッドシーンで、ナーバスになったジェシーはスタッフのひとりに酷い悪態をつく……等々、子どもたち相手の現場はトラブルと混乱の連続だ。
 撮影をはなれても、リリは同級生たちから好奇と敵意の目を向けられたあげくの諍いで警察ざたになったり、ジェシーが不良仲間たち相手に撮影では「女(=リリ)ばかりに演技指導する」と監督をボロクソにけなしたりと問題は絶えない。その監督ガブリエルもまた、車のなかでこっそりメンタルケアのCDを聴くまでに精神的に参っている──といったしだい。
 そうこうしながらも、なんとか撮影は続いていく。そのなかで、いつしか“女優になる”ことを真剣に考えるようになったリリは、一方でスタッフのひとりヴィクトル(マティアス・ジャカン)に恋心を抱き、「怒りたいときは怒り、泣きたいときは泣け」と監督にアドバイスされても「ぼくは泣かない」と答えていたライアンは、演技をとおしてしだいに情緒と心の安定を取り戻していくかのようだ。こうして、撮影現場の内と外における子どもたちと大人たちのひと夏が過ぎていき、映画は、何千羽のハトがいっせいに飛びたつクライマックスの撮影にのぞむのである。
 この映画の舞台となるピカソ地区といえば、1970年代から80年代にかけて主に外国人労働者向けに整備された公営団地が建ち並ぶ場所で、現在も低所得者層や移民が多く暮らしている。今年の6月、車を運転していた17歳の少年が検問中の警察に射殺され、フランスの各地で抗議デモが起こったという事件の発端となったのも、「郊外[バンリュー]」と呼ばれるこの場所だったのである(……犠牲となった少年は、やはりピカソ地区の団地で母親と暮らしていた。しかも無免許で車を運転していたという彼は、事件の前年に撮られたこの映画の「ジェシー」とあまりにもよく似ている……)。
 そういった環境で実際に暮らす子どもたちを起用し、現地で自分自身をモデルにした人物を映画のなかで演じさせる。そしてその撮影風景を追うといった「体裁[スタイル]」の本作は、一見するとドキュメンタリーかと見紛う“リアルさ”と迫真性に満ちている(……住人たちから、「なぜ問題児ばかりを出演させて、街の評判をさらに落とすような映画を撮っているのか」とスタッフが難詰される場面さえあるのだ)。もっとも、ここでの4人の少年や少女たちは実際に街の住人ではない、彼ら自体があくまで「フィクション」の人物像[キャラクター]なのである!
 本作が長編デビュー作である監督のリーズ・アコカとロマーヌ・ゲレは、何百人という子どもたちとの公開オーディションを通じて、脚本のもととなるストーリーと人物像をつくりあげていったという。そこからあらためて児童養護施設や青少年厚生施設、学校などの教育機関をまわって子どもたちと出会い、キャスティングしていったのだと。そして撮影では、《私たちは脚本に書かれた内容に忠実に撮影を進め、子どもたちがカメラの前で即興する余地はほとんどありませんでした。彼らはセリフを覚えました》ということだ。(以上、引用はパンフレットのインタビュー記事より。以下同)
 先にぼくは、子どもたちを「演出」することは不可能だというトリュフォー監督の言葉を引いた。けれども、この『最悪な子どもたち』のなかの子どもたちは徹底して「演出され、演技している」のだという。さらに、『トリュフォーの思春期』の撮影現場が即興の連続だったのに対し、「即興する余地はほとんどなかった」というのである。確かにリリを演じたマロリー・ワネックやライアン役のティメオ・マオーなど少年少女たちは、ここで劇中映画の役を演じると同時に、その役を演じている「リリ」や「ライアン」といった人物をも演じているのだ。それを演技経験のない彼らに“演じさせる”とき、とても「即興」のはいる余地などあるまい。
 だが、それでもこの、「メタフィクション」という以上に巧妙かつ大胆なたくらみに満ちた映画を見るものは、そこに、もはや「虚構[フィクション]」を超えた真実の“感情”こそを見出すのだ。
 ……映画は後半、リリとマイケルのふたりを中心に展開していく。そしてふたりがそれぞれに流す「涙」でしめくくられる。その涙にあるのは、悲しみでもあり、心の痛みでもあり、諦観でもあり、あるいは「涙を流せた」ことの喜びであるのかもしれない。
 しかしそれは、ふたたび山田宏一氏の文章を引用するなら《大人から見た子供の「内面の真実」といったきめつけによるドラマチックな展開はなく、「不思議の国のアリス」のような文学性もない》、演じる彼ら自身の真の“感情”のほとばしりであることを、ここまで映画を見てきたぼくたちはもはや信じて疑わないだろう。監督であるリーズ・アコカとロマーヌ・ゲレもまた、こう言っている。
《映画とはカタルシスや自己探求の場であり、それを可能にするのが演技です。感情を押し殺している子どもたちにとって映画がカタルシスの場になることがあります。(中略)それは現実と映画が融合した瞬間でした。リリとライアンが劇中で俳優になるように、マロリーとティメオも俳優になったのです。彼ら自身の感情や痛み、経験を掘り下げ、それらを超越していきました。彼ら本人の涙を私たちに見せてくれたのです。実に魔法のような瞬間でした。》
 ……さまざまな問題を抱えた“最悪な子どもたち”を映画の世界に導き、彼らに「カタルシスの場」をあたえる。「カタルシス」とは、言うまでもなく「感情を解放し、心が浄化される」ことだ。《映画が彼らの人生を完全に変えられるとは言いませんし、実際にそのような力はありません。とはいえ、一人ひとりの人生の道筋をほんのわずかに変えることはできる》とも語る、キャスティングディレクターと演技コーチであったというふたりの監督にとって、それこそが「映画を撮る」ことの意味であり意義であるのだろう。
 そんな彼女たちが撮ったこの映画に、やはりぼくは『トリュフォーの思春期』を重ねあわせてみたい。あの映画の最後のほうで、夏休み前のクラスの子どもたちを前に担任の教師がせつせつと語りかけ、「生きるのはつらいが、人生は美しい」としめくくった。そしてふたりの女性監督による『最悪な子どもたち』とは、まさにそういった生きることの「つらさ」と、それでも「人生は美しい」ことを教えてくれる映画なのである。

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