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いつかどこかで見た映画 その46 『ぼくのエリ 200歳の少女』(2008年・スウェーデン)

“Låt den rätte komma in”
監督:トーマス・アルフレッドソン 脚本:ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト 撮影:ホイテ・ヴァン・ホイテマ 出演:カーレ・ヘーデブラント、リーナ・レアンデション、ペール・ラグナー、ヘンリック・ダール、カーリン・バーグクィスト、ペーテル・カールベリ、イカ・ノード、ミカエル・ラーム、カール・ロバート・リンドグレーン

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 まず、タイトルからは想像しにくいだろうけれど、これはまぎれもない「吸血鬼もの」映画である。そしてもうひとつ、これもタイトルにある200歳の「少女」は登場しない。確かに宣伝惹句[コピー]にある通り、主人公の少年が体験する「怖ろしくも、哀しく、美しい12歳の初恋」物語ではあるものの、その初恋の相手である「ぼくのエリ」は「少女」ではない(!)からだ。後述することになるだろうが、そのことはこの作品においてたぶん重大な“意味”を持ってくる。
 それが、どうしてこんな邦題になったのか(英語タイトルは、「正しき者をなかへ迎え入れよ[レット・ザ・ライト・ワン・イン]」。これも、劇中のある“伏線”になっている)。あるいはこの映画を、これも惹句にある通り《ヴァンパイア版『小さな恋のメロディ』》として売り出すため? ……まあ、確かにそういった見方だって可能ではあるだろう。というか、この映画は“吸血鬼もの”のカテゴリーを借り受けた少年少女のピュアなロマンスとしても、アブノーマルで残酷なメルヘンとしても、ひとひねりしたシニカルなゴシックロマンとしても見ることができる。その多面性もまた魅力なのだから。ゆえに、これからぼくがここに書くのもあくまでひとつの見方であり、本作のある一面でしかない。そのことを確認しつつ、文章を進めよう。
 スウェーデン産の吸血鬼映画といえば、少し前にも『フロストバイト』というのがあった。「世界中の映画祭を震撼させた、スウェーデン初のヴァンパイアホラー」というふれ込みのわりに、日本じゃあまり評判にならず、ぼくもDVDで見ただけ。で、確かにつまらなくはないんだけれど、全編にわたって既視感というか、“どこかで見た”ような場面が続くシロモノなのだった(……実際、“街の住民が次々と吸血鬼になる”というスティーブン・キングの『呪われた町』の展開[プロット]に『キャリー』のクライマックス場面を盛り込み、その『呪われた町』を映画化したトビー・フーパー監督の『死霊伝説』や『フライトナイト』など、これまでのアメリカ製ヴァンパイア映画を参照したとおぼしい場面が次々と登場するんである)。
 もっとも、ヴァンパイアの特殊メイクや変身場面のSFX、ユーモアのテイストなどすべてに「アメリカナイズ」されたなかにあって、その凍てつくような“空気感”だけは、画面に独特の雰囲気というか、肌理[テクスチャー]をもたらしていたように思う。あの“空気感”こそ、『フロストバイト』という「アメリカン・ホラー」のオタク臭い“二次創作”めいた作品の唯一新鮮な魅力なのだった。
 そして、《ハリウッドリメイク決定! トライベッカ映画祭グランプリなど60以上もの賞を獲得! 世界が絶賛した、スウェーデン映画が、遂に日本上陸!!》(宣伝用チラシより)という『ぼくのエリ 200歳の少女』もまた、冬のスウェーデンの冷ややかで陰鬱な“空気感”が全編を支配するかのような映画だ。けれど、本作が先の「スウェーデン初のヴァンパイアホラー」と決定的に異なるのは、その“空気感”が同時に人々や社会の鬱々とした閉塞感をも浮かび上がらせていく点だろう。ーー時代背景となる、まだ隣国ソ連の脅威が身近だった1982年のスウェーデン(……映画のなかで、さり気なくブレジネフ書記長の名前が登場する)。その緊張と閉塞感にむしばまれたかのように、人々の心もまた荒涼として寒々しい。そんな冷たく荒涼とした世界のなかでは、むしろ人間の生き血をほとばしらせる吸血鬼の行為の方が「温もり」を感じさせるという逆説……。この12歳の少年と吸血鬼の「少女」のラブストーリーは、その一点において、これまでに創られてきた他のヴァンパイア映画にはないユニークさを獲得できたのだった。
 主人公の少年オスカーは、両親が離婚し、母親と郊外のアパートで暮らしている。学校では同級生の3人組に執拗なイジメを受け、そのことに教師も親も気づいてはいない。イジメっ子たちに暴力を受けても耐えるだけの彼は(……彼らに囲まれ、なすすべもないかのようにただ静かに目を閉じるオスカー。痛ましいと同時に、そこには、マゾヒスティックというか、倒錯したエロチシズムの気配すら漂っている)、その鬱屈を、木にナイフを突き立てることで晴らす。たまに父親と会っても、素面[シラフ]の時は優しいものの、酒飲み仲間が訪れるとさっそく酒におぼれて相手になってくれない。
 そんな彼の家の隣りに、ある夜、中年男と少女が越してくる。彼女と夜の中庭で出会ったオスカーに、少女は名前が「エリ」で、年齢は「だいたい12歳」と答える。黒髪のミステリアスなエリに、自分と同じ“ひとりぼっち”のよるべなさを感じて、急速に惹かれていくオスカー。ふたりは、家の壁越しにモールス信号で気持ちを伝えあう。
 まもなく観客は、エリの正体が「吸血鬼」で、父親のような中年男ホーカンは、エリのために人間の血を調達する「殺人鬼」であることを知らされる。ーー孤独なオスカーとエリが次第に心を通わせあう一方で、人を殺してはその血を集め……とはいっても、情けないことに失敗の連続のホーカン(……このくだりの“笑うに笑えない”ユーモアの絶妙さ!)。さらに、とうとう飢えに耐えきれずに人間を襲うエリと、その被害者の死体を黙々と始末するホーカンの姿を映画は交互に描いていくのだ。
 そして、殺人(というか、“血の調達”)に失敗したことで警察に知られることとなり、自ら顔に硫酸をかけて身元を分からなくしたうえで逮捕されるホーカン。最期は病院で、忍び込んできたエリに自分の血を与えて絶命するあわれな彼こそ、実は本作のキーパーソンに他ならない。……そう、たぶんエリは、このホーカンのような存在によって何百年も生きながらえてきたのだ。永遠に「12歳」のままのエリは、正体をさとられないように街から街へ、国から国へと居場所を移し続けねばならない。そのためにも、ホーカン(的な人物)は必要だった。しかし、ホーカンは下僕というより、あくまでもエリためなら命も惜しまない「守護者」としてあったのである。
 だがそこに、ホーカンのエリに対する小児性愛[ペドフィリア]的な性向を見てとるのは、おそらく間違っている。オスカーにとってそうであるように、ホーカンにとってもエリは「(性)愛」の対象ではなかった。それは何よりエリ自身によって、彼女が男たちの「性(愛)的対象」であることを否定されているのだから。
 ふたりが心を通わせあって間もなく、エリはオスカーに「私が女の子じゃなくても愛してくれる?」という。さらに、自分のベッドに入ってきたエリに、オスカーが「ぼくと付き合ってくれる?」とたずねた時も、エリは「無理だわ。私は女の子じゃないから」と繰りかえすのだ。そのことばの意味するところを、エリが着がえているのをこっそり目撃したオスカーはハッキリと知らされるのである……
 もっとも、オスカーがそこで“見た”ものを、ぼくたちは見ることができない。一瞬映しだされるエリの下半身に、日本公開版にはボカシの修正が施されているからだ。そこに映っていたのは、女性器か、男性器か、あるいはまったくの“別の何か”なのか、日本の観客だけ知ることができない。だからエリを「女の子」でも、「男の子」でも、「どちらでもないもの」でもいいという、一挙にその存在が抽象化されあいまいなものとなってしまうのである。そのどれをとるかで、映画の印象はおおいに違ったものとなるだろう。
(……ここでタネあかしをするなら、そこにはあたかも去勢跡のような“疵[きず]”が見える(らしい)。つまりエリは、女性でも男性でもない、いずれの「性」をも否定された者としてある。だから「私は女の子じゃない」というエリのことばは、文字通りの意味だったのだ。)
 その事実を目にしたオスカーにとってエリは、女の子や男の子や吸血鬼であるというより、もはや“永遠に「12歳」を生きる者”に他ならない。たとえば、アン・ライスの小説を映画化した『インタビュー・ウィズ・バンパイア』のなかで、キルスティン・ダンスト演じる吸血鬼少女は、少女のままの姿なのに精神的には何百歳という年齢を重ね、そのジレンマに耐えきれず自滅していった。しかしエリは、身体的にも精神的にも成熟を知らない、永遠に「12歳」のままなのだ。おそらくホーカンが(やがてオスカーも、また)自分を犠牲にしてまで守ろうとしたものは、エリのその「純粋さ」なのである。
《おそらく、友愛と尊敬という二つの崇高な感情の起源は、少年期にある。おとなの矛盾に気づきはじめ、もはや社会の規律には従順ではいられなくなった彼らが、みずからすすんで育む倫理がそこにある。少年は世界を発見しなおし、自分たちだけの仲間をそこに見出す。もちろん「仲間」は、同世代の少年とは限らない。思春期手前の少年たちほど、他者に対してあけっぴろげな存在はないからだ。彼らはしばしば、動物や宇宙人、あるいは無生物や想像上の友人とさえ友情を誓い合う。この純粋で利他的な感情は、たくさんの愛すべき物語を生み出してきた。『子鹿物語』『E・T』『スタンド・バイ・ミー』『夏の庭』『ポケットモンスター』……》(『フレーム憑き 視ることと症候』所収「『少年』という名の倫理」より)
 ……この精神科医・評論家の斎藤環のことば通り、12歳の少年オスカーは、エリと出会い、その存在を全的に受け入れる。彼にとってエリは、吸血鬼というより、永遠に12歳を生き続ける「正しき者[ライト・ワン]」に他ならない。……やがて彼は“おとな”になり、ホーカンがそうだったようにエリの「守護者」となるだろう。もちろんそれを、結局オスカーは「エリ(=吸血鬼)」の奸計にはめられたんじゃないかと、シニカルに受けとる向きもあるにちがいない。あるいはホーカンもまた「12歳」のときにエリと出会い、そのまま彼女を護る人生を歩むことになったんじゃないかと。けれども、作家・橋本治の「友情はセックスのない恋愛である」という名言のままに、やはりこの「12歳」同士のふたりは純粋に愛すべき〈他者〉を互いに見出したのだ、これは見事なハッピーエンドなのだーーと、ぼくという観客は信じたいと思うのだ。
 ……相手が招き入れないと人間の部屋に入れないという、ヴァンパイア映画や小説における“お約束”を遵守したある鮮烈なエピソードや、クライマックスのプールにおける凄惨な殺戮場面など、「ホラー」としても実にウエルメイドな本作。参りました、これは“本物[ライト・ワン]”だ。

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