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いつかどこかで見た映画 その118 『永遠の0』(2013年・日本)

監督・脚本:山崎貴 脚本:林民夫 原作・百田尚樹 撮影:柴崎幸三 出演:岡田准一、三浦春馬、井上真央、吹石一恵、濱田岳、新井浩文、染谷将太、三浦貴大、上田竜也、青木健、遠藤雄弥、栩原楽人、田中泯、山本學、風吹ジュン、平幹二朗、橋爪功、夏八木勲

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(註・以下の文章は2014年1月に書かれたものです。)

 さて、新年を迎えた景気づけに、ここはひとつ大ヒット上映中という『永遠の0』で“映画初め”だ! と出かけたら、シネコンのある近所のショッピングモールは、午前中だというのにもう相当な賑わい。さすが正月というか、個人的にまるで恩恵をこうむっている実感はないけれど、やはり世間は「アベノミクス」景気とやらを享受しているんだろうか。
 などと感慨にひたっていたら、こちらも人だかりのシネコンのロビーで時間待ちをしていた大半が、ぼくと同じ上映シアターへ吸い込まれていくではないか! しかも客層は、小学生くらいの子どもを連れたファミリーやら、若いカップルやら、足もとがおぼつかない老齢の親御さんとその手を引くご婦人やらと、実に幅広い。ベストセラー小説の映画化とはいえ、「戦争映画」がここまで世代を超えて人気を博すなんて……これまた右傾化の“空気[ムード]”をあからさまにまき散らす我らが宰相「アベちゃん」効果なのか?
 とはいえ、片田舎のシネコンがこれほどの熱気に包まれた光景などはじめてだったので、さすがにこれには少しく感動した。そして上映がはじまってほどなく、あちらこちらから聞こえてくる鼻水をすする音やら、目がしらを押さえる観客の姿やらに、もはや映画以上(!)に感じ入った次第だ。ーーああ、こんなに観客が一体となった映画鑑賞など、いつ以来だろう……
 まあ、原作者のタカ派的な言動や現政権との“親密さ”も相まって、作品的な評価以前に何だかんだと物議を醸しているのも、さすが「大ヒット作」らしいというべきか。世の中に何らかの“騒動”をもたらすことが、観客の“煽動”につながる。それこそが「ブーム」をなす要因だとしたら、この映画もまた確実にその波にのったと言えるだろう(と同時に、本作を見に映画館へと足を運んで「感動」を表明し、韓国や中国の政府筋のさらなる反感を買ってみせた安倍首相も、また別の意味でこの映画に“乗ってみせた”というべきか……)。
 もっとも作品自体は、実のところ見事なくらい「政治色」を感じさせない。逆にいうなら、見方によって右なり左なりどのようにも受け止められるように出来ている。まず主人公を演じる岡田准一のファンなら間違いなく大満足できるだろうし(……実際、「思慮深く戦闘機乗りとしても凄腕」という絵に描いたようにヒロイックな主人公を、じゅうぶん説得力ある人物像として演じた彼には、素直に感嘆した。もし不満があるとすれば、あまりに「男前すぎる」ということぐらいか?)、ミリタリーおたくなら最新デジタル技術によって再現された飛行機や空母、戦艦などが空を舞い海を渡る映像に、随喜の涙をこぼすに違いない。さらに、「昔は良かった」とおっしゃる保守派層は、ここで描かれる「昭和」の男や女たちに懐旧の涙を流すだろうし、名誉の死ではなくあくまで「生き抜く」ことに執着する主人公や、特攻というものの非道さを説得力をもって描いているとして評価する向きもあるだろう。
 特定のイデオロギーにとらわれないーーそれはこの作品の場合、周到なマーケティングによってあらゆる「色」を脱色されたかのような“優等生”ぶりともとれる。なるほど、これならヒットもするだろうて……などといささかイジワルく思いつつ、何よりそこに感じられるこの「嘘くささ」は何なのか? 隣りの席のカップル(の、男の方)の盛大なすすり泣きについもらい泣きをしながら、けれど見ているあいだも見終わった今も、何だかすべてに「まがい物感」がつきまとうのである。
 で、ハナシはまたもや安倍首相に戻る。
 昨年末の靖国神社参拝は、日本と近隣諸国とのこじれた関係をさらに深刻化させたわけだが、《首相は談話を発表し「国のために戦い、尊い命を犠牲にしたご英霊に対して、哀悼の誠をささげるとともに、尊崇の念を表し、ご英霊安らかなれとご冥福をお祈りした」と説明。「安倍政権の発足したこの日に参拝したのは、ご英霊に政権1年の歩みと、二度と再び戦争の惨禍に人々が苦しむことのない時代をつくるとの決意をお伝えするためだ」と強調した。》(2013年12月26日付け「日本経済新聞」より)……今ここで、その政治的側面をどうこうするつもりはないけれど、日本の外交的困難を増長させることが必至なことがわかっていながら強行した末のコメントとしては、実にあたりさわりない。という以上に、「そんな“気配り”発言するなら、はじめから参拝なんかするな!」と右翼サイドから非難されそうな“優等生”ぶりだ(……どのみち韓国や中国から猛反発を喰らうことがわかっているんなら、堂々と「戦争の英雄たちに頭を下げに来た」くらい言えばいいじゃないか。それこそ“タカ派”としての矜持でしょうに)。
そして『永遠の0』は、その信条(=心情)[メンタリティ]において、安倍首相とダブるのである……。
 1954年生まれの安倍首相が、「国のために戦い、尊い命を犠牲にしたご英霊」と口にし、「尊崇の念」とのたまう“嘘くささ”。一方、そんな首相の靖国参拝を《英霊に手を合わせ、感謝の念を捧げるのは国民の代表として当然だ》(2013年12月27日付け「朝日新聞」デジタル版より)と支持する本作の原作者・百田尚樹もまた、1956年生まれだ。この“戦争を知らない子どもたち”にとって、悼むのはあくまでお国のために「犠牲」となった戦没者たち(もちろんそこには、戦争犯罪人として裁かれた「A級戦犯」も含まれる)であって、時の軍事国家・大日本帝国ではない! という論理なんだろう(だからこそ、当時の有能な若い命を無駄死にさせた「特攻」作戦と軍部を、百田尚樹はその小説で糾弾するのだ)。 
 ……ところで、『父親達の星条旗』と『硫黄島からの手紙』の「硫黄島2部作」を監督した際、クリント・イーストウッドは「戦争で命を落とした人々は、敬意を受けるに余りある存在だ」と言ったのだった。だから私は、彼らへのトリビュートとしてこの2本の映画を撮ったのだと。
 一見すると、イーストウッドと安倍・百田たちは、どちらも「死者を敬え」と“同じこと”を言っているように思える。だが、『父親たちの星条旗』では徹底して〈顔〉のない存在として描いた日本人兵士たちを、『硫黄島からの手紙』であらためて一人ひとりに「個人」としての〈顔〉を与えたイーストウッドには、祈りを捧げるべき死者の〈顔〉がはっきりと見えていた。対して安倍首相や百田氏が「ご英霊」という時、いったい“誰”のどんな〈顔〉を思い浮かべたというのか。ーー祈るべき相手の〈顔〉もない“祈り”など、どれだけ美辞麗句で飾ろうともしょせんは嘘くさい(という以上に、うさんくさい)ものでしかないだろう……
 そして繰り返すが、正直なところこの映画化作品もまた、安倍首相の“答弁”のように「嘘くさい」。いったい誰に向けて、何を発したいのか、見終わってもまるでわからない。というか、はじめから“誰”に対しても、何も発しようとはしていないのだ。だが、というかだからこそ、観客は安心して「感動」し、涙を流すことができるのである。
 では、そんな映画をオマエはどう評価するのかって? 仮にも山崎貴監督を、そのデビュー作『ジュブナイル』から誰が何と言おうと支持してきたオマエさんが? ……と、あらためて自問してみる。確かに主演の岡田准一をはじめ、役者たちは頑張っていたと思う。これが遺作となった夏八木勲や、橋爪功、田中泯などのベテラン勢はもちろん、染谷将太や濱田岳、新井浩文ほかの若手男優陣も健闘していた(……まあ男子たるもの、軍服を着りゃあ誰でも凛々しく見えるわな。それだけに、現代パートを担う三浦春馬は、少々損な役回りでかわいそうだったが)。が、正直いってこの映画、山崎貴作品としてはファンのひとりとして最もツライものだったことも確かなのだ(……そう、『ヤマト』以上に!)。
 原作をお読みの方や、すでに映画を見た方ならご存知のように、これは現代(とはいえ、時代設定は2004年だが)から太平洋戦争を振り返るという構成をとっている。ーーゼロ戦乗りとして抜群の腕を持ちながら「海軍一の臆病者」と言われ、しかし最期は自ら特攻機に乗って死んだひとりの男。その人物像を追って、孫たちが彼を知る戦友たちの証言を聞いて回る。そのなかで、現在と過去が交差するという(オーソン・ウェルズの『市民ケーン』や黒澤明の『羅生門』などを想起させる)フラッシュバック形式で、主人公・宮部の“実像”を浮かび上がらせていくというものだ。
 が、この作品における監督・脚本(林民夫と共同)の山崎貴は、そんな主人公の人となりも、戦争や家族への思いも、つまり「物語」のすべてをここで証言者たちによる「台詞[セリフ]」として語らせてしまうのである! その時、どんなに岡田君たちが熱演し、最新VFXによる精巧・壮大な戦闘場面が展開されようと、映像は彼らの「証言(=語り)」の単なる“絵解き”でしかない。これでは、もはや原作小説の映像ダイジェストじゃないか…。なるほど、だからこそ原作者からも絶賛されたわけだ。
 物語の“説明過多”ぶりは、これまでも山崎貴作品で常に指摘される点ではある。けれどそれでも、ここまで台詞に任せきった“ぞんざい”なものはなかったはずだ(……繰り返すが、あの『ヤマト』ですら!)。だのに、本作が高評価され大ヒットしているとしたら、逆にそういった“ベタ”な「わかりやすさ」こそが受け入れられた、ということなのか? そして山崎貴監督はここでもはや“ぞんざいさ”という名の尊大(!)な映画の担い手となってしまったのだろうか……?
 とはいえ、そうは思いつつ、結局ぼくはこの作品をやっぱり否定しきれないだろう。ここで随所に盛り込まれた戦闘機や戦艦、空母の、CG技術を駆使したもはや圧倒的というしかないリアルな“現前[ビジュアル]”ぶり。それらを、文句なしに「美しい……」と思ってしまった者に、どうして否定しきれるものか。
 なるほど、確かにその美しさは、「戦争」というものを魅力的に見せてしまう危険性をはらんではいるだろう。が、一方でそれは、20世紀初頭のイタリアの詩人フィリッポ・マリネッティが『未来派宣言』で高らかに謳った、スピードやダイナミズムという「機械」固有の純粋な〈美〉を思い出させるものでもあるのだ。……《そこには「巨大な鋼鉄の馬のような蒸気機関車」と「サモトラケの女神ニケより美しい自動車」と「荒々しい電気仕掛けの月に燃え上がる兵器工場と造船所」が賛美され、速度と騒音と戦闘の美が謳われていた》(松岡正剛)。そして山崎貴は、(「物語」など台詞でぞんざいに片づけて!)ただひたすらイタリア未来派のいう「機械の美」そのものを“現前化”するため(だけ)に、この映画を撮ったのではあるまいかーーと、思いたいのである。
 ……宮崎駿は、(タイトルこそ名指ししなかったが)雑誌のインタビューのなかで、この『永遠の0』を「嘘の塊」と全否定したという。しかし、「飛行機(=機械)の美」をただ純粋に追い求めた自作『風立ちぬ』の主人公に、あえてぼくは「山崎貴」を重ねてみたいのである。その時、この忌々しい(!)『永遠の0』映画化作品もまた、別の〈顔〉をはっきりと見せてくれるように思うのだ。

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