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いつかどこかで見た映画 その104 『リトル・ジョー』(2019年・イギリス=オーストリア=ドイツ)

“Little Joe”

監督・脚本:ジェシカ・ハウスナー 脚本:ジェラルディン・バヤール 撮影:マルティン・ゲシュラハト 劇中音楽:伊藤貞司 出演:エミリー・ビーチャム、ベン・ウィショー、ケリー・フォックス、キット・コナー、リンゼイ・ダンカン、リアン・ベスト、フェニックス・ブロサール、デヴィッド・ウィルモット、ゴラン・コスティッチ

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 花と映画をめぐる最も美しい逸話のひとつが、ジャン・ルノワール監督の『河』をめぐるそれだろう。ーー第二次世界大戦による亡命先のアメリカで撮った監督作がどれも不評に終わり、失意のなかにあったルノワール。そんな彼のもとにロサンゼルスのある花屋が、「私たちのためにぜひカラーで美しい映画を撮ってください」と、製作資金とともに依頼してきたという。感激したルノワールはインドにおもむき、あの“花のように美しい”という形容こそがふさわしい名作が誕生したのだった……。
 もっともこれは、映画評論家の淀川長治氏による「創作」、といって言いすぎならば相当な「脚色」が加わったものらしい。実際のところは、原作を気に入って自ら映画化権を手に入れたルノワールが、企画に奔走するも、「象と虎狩りが出ないようなインドはインドじゃない」とけんもほろろ。そのなかで、映画製作に関心があったビヴァリーヒルズで花屋を経営するケネス・マケルダウニーと出会い、「インドでのオール・ロケ撮影」を条件に実現したものだという。ともあれ、こうしてルノワールは自身初となるテクニカラーの作品を完成させたのである。
 それ以外にも、「花」が重要なモチーフや小道具となった映画は、古今東西ことかかないだろう。タイトルに花の名をあしらったものも、『ひまわり』や『忍冬の花のように』、『マグノリア』、『セーラー服百合族』(これはちょっとちがうか……)等々、探せばいろいろ出てくるはずだ。
 が、「花」そのものを“主役”とした映画となればどうか。そうなるとどうも、「美しい」どころか「血なまぐさい」様相をていしてくる。ーー移動しながら人間を襲う肉食植物の恐怖を描く『人類SOS!(トリフィドの日)』や、これも人間の血や肉を養分とする花をめぐってのブラック・コメディ『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』、人間と植物を合体させる実験に没頭するマッド・サイエンティストもの『悪魔の植物人間』、近年では石井岳龍監督の『シャニダールの花』、花というより「植物界」が人間たちに牙をむくM・ナイト・シャマラン監督の『ハプニング』、あるいは伝説的なテレビシリーズ『ウルトラQ』に登場する「マンモスフラワー」と、なぜか花たちを、その美しさや芳しさではなく“人類の脅威”とするSF・ホラー作品が並ぶのである。
 そして、昨年のカンヌ国際映画祭で主演のエミリー・ビーチャムが女優賞を受賞した、ジェシカ・ハウスナー監督の『リトル・ジョー』もまた、バイオ技術で開発された新種の花が人間たちを“侵略する”という「SFスリラー」だ。もっともこの花、前述の作品のように根や茎が伸びて人を襲ったり、言葉をしゃべるようなモンスターではない。この作品における「花」は、ただ美しく“咲く”だけだ。が、それだけのことで人間(の「心」)を、ひいては「世界の仕組み」そのものを決定的に変容させてしまうのである。
 ……主人公となるのは、バイオ企業の研究施設に勤める研究者のアリス(エミリー・ビーチャム)。彼女は助手のクリス(ベン・ウィショー)とともに、遺伝子操作による新種の花の開発に成功する。それは、美しさはもちろん、きちんと世話をすれば「人を幸せにする香りを出す」というもので、その香りには幸福感をもたらしたり“母親と新生児の絆を深める”というホルモン「オキシトシン」の分泌を促す作用があるという。
 離婚してシングルマザーのアリスは、ひとり息子ジョー(キット・コナー)にちなんで、その真紅に咲く花を「リトル・ジョー」と命名。さらに、会社には黙ってリトル・ジョーを1本持ち帰り、息子にプレゼントする。だが、開花したリトル・ジョーの花粉を吸い込んでしまったジョーは、その日を境にどこか様子がおかしい。
 さらに、ある夜クラスメートのセルマ(ジェシー・メイ・アロンゾ)を誘って、アリスの研究施設に忍び込むジョー。リトル・ジョーを栽培する温室でセルマにも花粉を吸わせ、ふたりは花を一鉢盗みだす(……そして、どうやらジョーは自分の父親にその盗んだリトル・ジョーの花粉を嗅がせたらしいことが、あとでわかる)。
 仕事最優先[ワーカホリック]の自分にたいしてもあれほど素直で従順だった息子の変化に、当惑を隠せないアリス。そんな彼女に、研究員のひとりベラ(ケリー・フォックス)が「リトル・ジョーの花粉には、脳に作用して別人格に変えてしまう“何か”がある」と告げる。ベラの愛犬は、目をはなしたすきにリトル・ジョーが栽培される温室にひと晩閉じ込められ、翌朝発見されたときには彼女に牙をむく「別の犬」になっていた。さらに、「クリスの様子がおかしいことにも気づいた? 彼も花粉を吸い込んで“感染”したのよ。そして今はリトル・ジョーを全力で護ろうとするはず」と言う。
 ーーリトル・ジョーは、より良い香りを出すためと営業的な思惑で「不稔性(種子ができない)植物」として開発された。そのため人間たちをコントロールして、自分たちを繁殖させ種の存続をはかろうしているのではないかと、ベラは示唆するのである。
 はじめは相手にしなかったアリスだったが、助手のクリスの不審な様子や、息子のジョーが「ぼくがいると仕事の邪魔になるから」と、父親の家で暮らしたいと言いだしたりと、次第に疑惑の念にとらわれる。やがて、施設の上司(デイヴィッド・ウィルモット)や所員のリック(フェニックス・ブロサール)も、あきらかにリトル・ジョーを“護る”ことを最優先する言動が目立ちはじめ、アリスもまたリトル・ジョーのもたらす影響を認めざるを得なくなるのだ。
 ……親しかった者が、姿かたちはそのままである日突然「別人」となってしまう。そういえば海外の映画評で、本作を「植物[ボタニカル]版ボディ・スナッチャー」と称するものがあった。けれどこのリトル・ジョーは、人の肉体や精神を乗っ盗るのでなく、人間の脳に作用して“あるひとつのこと”しか考えられないようにする。それが「リトル・ジョーの世話をする」ことであり、この花は「暖かい場所で育て、毎日欠かさず水を与え、何より愛情をもって接すること」が必要だから。その生存条件を、花粉によって人間たちを感染させ、“洗脳”することで解決しようとするのである。
 一方で人間たちは、その代償として「幸福感」を与えられる。これまでの悩みや絶望がなくなり、リトル・ジョーに「奉仕」することを第一とする“満たされた”毎日がおくれるようになる。リトル・ジョーはそれ以上のことを求めないし、人々もいきなり凶暴化したり(ただし、リトル・ジョーを護るためなら“何でもやる”だろう……)、生ける屍のごとく完全な「廃人」となりはてることはない。
 が、彼や彼女たちは、「リトル・ジョーの世話をする」という、たったそれだけの〈概念〉を脳に“埋め込まれる”だけで、もはやその人固有の内面的な意識や経験(……哲学でいうところの〈クオリア〉だ)というか、「その者性」といったものを決定的に喪失してしまう。もはや自分自身(=主観)で怒り悲しみ楽しむといった「感情」がない、ただ感情がある“ふり”をするだけの「人格」なき人間となってしまうのだ(……このあたり、人間があるひとつの〈概念〉を奪われることで「ロボトミー(=廃人)」化するという、黒沢清監督の映画『散歩する侵略者』とちょうど真逆の発想であるのが興味深い)。
 映画のなかで、ベラはアリスに研究施設が隠蔽したある映像を見せる。それは、リトル・ジョーの花の香りのモニターとなった人々を記録したもの。そこでアリスは、もはや元の「人格」を失った娘や妻を前にとまどい「元通りにして返して!」と悲嘆に暮れる家族の姿を目撃する。ーーアリスにとって最愛の息子ジョーもまた、やはり自分の知らない「誰か」になってしまったのではないか。そんな、愛する者や親しかった者たちがある日、見知らぬ他者になってしまうことの“不気味さ”。だが一方でそれは、リトル・ジョーの研究開発に没頭するあまり、息子ジョーとの生活を犠牲にしていることを気に病むアリスにとって(……彼女は精神分析医のカウンセリングに通い、仕事と家庭の両立についての悩める心情を吐露している)、息子の「豹変ぶり」はそういった板ばさみ状態からの“解放”を意味する。こうして彼女は何も案ずることなく、仕事にうちこめるだろう。すべてをリトル・ジョーにゆだねたならば、人は「人間的」な悩みなど抱くことなく「幸せ」になれるのだ(……この映画のチラシにある宣伝惹句[キャッチフレーズ]を借りるなら、まさしく「ゾッとする幸せ」である)。
 監督のジェシカ・ハウスナーは、同じオーストリア出身のミヒャエル・ハネケ監督のアシスタントをつとめていたという。もっとも、“人間心理の醜悪で残酷で滑稽な「裏面」こそ最高のスペクタクル!”といわんばかりのハネケとはちがって、ここでのハウスナーの関心は、“心理を喪失した人間は、それでも「人間」なのか”という生真面目な「思考実験」だ。
 それを、ときに見る者の意表を突くズームやパンによるカメラワークと、画面のどこかに「赤」を配する綿密な色彩設計、さらに故・伊藤貞司(……ハウスナーが「師」と仰ぐ、実験映画作家マヤ・デレンの夫であり作曲家でもあった)による尺八や雅楽を用いた音楽といった、もはや“センスのかたまり”といった世界観[ビジュアル]で描く本作。映画のなかでは誰ひとり死ぬこともないが、これはきわめて高踏的[ハイブロー]で美しい「哲学的ゾンビ」映画であるだろう。

 ……いや、それだけか?

 この映画のパンフに、ジェシカ・ハウスナー監督とアメリカの神経科学者ジェームズ・ファロンの短い対談が掲載されている。その冒頭で監督が「この作品は遺伝子操作された植物、美しい花を作り出した植物育種家の女性の物語です」と説明すれば、「おお、それは花が人間を食べる『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』のような(笑)」とファロン博士。ハウスナー監督は「(笑)。そうですね。『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』はこの作品のインスピレーションの源になっているかもしれません」と答えるのだ。
 まさにその場での監督の「苦笑い」が目に浮かぶようだが、このやりとり、実は本作の“核心”をついたものかもしれない。なぜなら、ロジャー・コーマン監督によるあの古典的なブラック・コメディ作品で、そこに登場する食人植物の名前も主人公が愛する者の名をとって「オードリー・ジュニア」と命名されていたからだ(ちなみに、フランク・オズ監督によるリメイク版では「オードリーⅡ」)。しかも、開花する前のリトル・ジョーは、どこかこのオードリー・ジュニアと似ていなくもない。さらに、主人公の青年をあやつって自分の「世話」をさせるあたりも、“発想”としては共通しているじゃないか。
 そう考えると、一見ユーモアのかけらもない『リトル・ジョー』という映画が、またちがったものとして見えてこないだろうか。というか、だからラストカットにおける「おやすみ、ママ」という“あの台詞[セリフ]”があるのだし、エンディングに流れる「ハピネス・ビジネス」という主題歌(?)の脱力ぶりも、最後の最後にハウスナー監督のニヤリと笑う顔が見えてくるというものだ。
 ーーそう考えるときこの映画、生真面目ぶって実は相当“人を食った”作品なのである。

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