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いつかどこかで見た映画 その126 『スパイの妻』(2020年・日本)

監督・脚本:黒沢清 脚本:濱口竜介、野原位 撮影:佐々木達之介 出演:蒼井優、高橋一生、東出昌大、坂東龍汰、恒松祐里、みのすけ、笹野高史、玄理

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 黒沢清監督の新作が、本年度のヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞(最優秀監督賞)を受賞した。何はともあれ、これでますます「世界のクロサワ」としての名声が確固たるものとなったということで、実にめでたい。
 しかも作品タイトルが、『スパイの妻』。そういえばエリック・ロメールにも『飛行士の妻』という、自分と別の男の二股かけている彼女を“尾行[スパイ]”するという恋愛喜劇があった。けれどこちらは、第二次世界大戦前夜の神戸を舞台に、国家の大義よりも個人の正義に生きた男とその妻を描く「ラブ・サスペンス」、というじゃないか。
 そう聞けば、黒沢清には20世紀初頭の中国・上海を舞台にした映画、『一九〇五』という幻の企画があったことを思い出さずにはいられない。そのときかなわなかった「歴史ドラマ(=時代劇)」を撮る機会を、今回ついに実現したというわけだ。
 とまあ、ひとりの観客としても様々な感慨を持ちながら見ることとなった『スパイの妻』だが、いや驚いた。前作の『旅のおわり世界のはじまり』で“これまでにない「世界」”を開示してみせた黒沢清だが、この最新作でもまた、今まで見たことがない黒沢作品をぼくたちは目撃することになる。後述するが、ここにあるのは特に1930年代から50年代にかけて活躍した巨匠たちーーヒッチコックやホークス、ワイルダー、ロバート・シオドマク、あるいは成瀬巳喜男や溝口健二らによる「メロドラマ」の再現であり、その“継承”をもくろむ堂々たる「野心作」なのである。
 ……1940年の神戸。いよいよ不穏の度を増す国際情勢のなか、貿易会社を経営する福原優作(高橋一生)は妻の聡子(蒼井優)とともに、あえて世間の質素倹約の風潮には背を向けた生活をおくっていた。そんな優作が、諜報員の疑いをかけられ憲兵隊に逮捕された友人の英国人ドラモンドの保釈金を払ったことを、聡子の幼なじみでもある憲兵分隊長の津森泰治(東出昌大)が難じる。が、「あんな太っちょにスパイが務まるはずがない」と笑い飛ばす優作。
 豪壮な邸宅で、執事の金村(みのすけ)や女中の駒子(恒松祐里)とともに優雅な暮らしをおくる福原夫妻。優作は趣味のホーム・ムーヴィーで、妻を主演にした「女スパイもの」の映画を撮るなど、戦時下にあってあくまで「個人の自由」をつらぬき通そうとする。妻の聡子も、そんな夫との生活を無邪気に謳歌するのだ。
 しかし、優作が社用で満州へ渡航したことで、彼らの生活や人生は大きく動きだす。通訳などで仕事を手伝ってくれている甥の文雄(板東龍汰)とともに、「大陸でも映画を撮るから」と小型の撮影カメラを携えて出発した優作。だが予定より二週間遅れて帰国した優作と文雄は、聡子にも気づかれぬようひとりの女性(玄理)をひそかに連れ帰ってきていた。
 それからまもなく、会社の忘年会で完成した聡子主演の映画を上映する優作。その余興後、文雄は会社を辞めてこれから旅館にこもり長編小説を書くと宣言する。そして忘年会が終わり、ふたりきりになった優作は聡子に「敵国となる前に、ぼくはアメリカに行くかもしれない」と告げるのである。
 だが、泰治に憲兵隊本部へ呼び出された聡子は、旅館「たちばな」で仲居として働いていた草壁弘子が水死体で発見されたことを聞かされる。彼女こそ、優作と文雄が満州から連れ帰った女性だった。そのことを泰治に告げられ、何も知らなかった聡子ははげしく動揺する。帰宅後、夫を問いつめる聡子だが、優作は「やましいことは何もない」と取りあってくれない。
 聡子は、有馬の旅館「たちばな」をひとりで訪れる。弘子が勤めていたその旅館には、小説を書いているはずの文雄が滞在していたからだ。彼は、なぜか憲兵たちの厳重な監視下にあった。弘子のことを問いただす聡子に、憔悴しきった文雄は「あなたには分かりようがない!」と声を荒げ、自分は一歩も外に出られないからとひと包みの書類を託す。「決して中身を確かめようとはしないで。叔父さんには英訳が終わったとだけ伝えてください」と。
 もちろん、「決してなかを見るな」と言われて見ないヒロインはいない。包みから出てきたノートの正体が何なのかを問う聡子に、優作は、満州で眼にした日本の関東軍によるおそるべき非人道的な「国家的犯罪」を語りはじめる。優作と文雄は、その事実を国際社会に告発しようとしていたのだった。
 ーーとまあ、ここまでがドラマの起承転結における“起”にあたる。優作たちは満州で、関東軍がひそかにおこなっていたペスト菌による生物兵器の研究と、人体実験の実態を知った。それを教えたのが、軍の研究施設で看護婦だった草壁弘子だったのだ。
 そこからは、「スパイの妻」となることへの聡子の葛藤と、やがて彼女がとったある驚くべき行動(……聡子は、文雄を“犠牲”にして夫の優作を救うのだ)をへて、ついにふたりでアメリカへの亡命をもくろむにいたる。このあたりのたたみかけるような展開のドライヴ感は、黒沢清の「職人芸」的な手腕の確かさを再認識させられることだろう。
 さらに、当初は日本を裏切り今の生活を犠牲にすることに否定的だった聡子が、優作に満州での「国家機密」を記録したフィルムを見せられてからの“豹変”ぶり。以後、彼女は優作の「共犯者」として、それまで以上にいきいきと輝きはじめる。これまでも黒沢作品は、『降霊』や『トウキョウソナタ』、『叫』、『岸辺の旅』、『散歩する侵略者』等々、それぞれあるのっぴきならない状況におちいった様々なかたちの「夫婦のドラマ」を描いてきた。だが優作と特に聡子は、むしろそんな「のっぴきならない状況」こそを嬉々として受け入れようとするのだーーまさしく「スパイの妻」という“役回り”を楽しむヒロインとして!
 ……先にぼくは、この作品を往年の巨匠たちの手になる「メロドラマ」の再現だ、と書いた。メロドラマとは、《誇張されたドラマであり、ヒーローとヒロインの前途に迫害する敵(かたき)役もしくは越えがたい障害が現れるというパターンが多く、善玉と悪玉とははっきり分かれている。またドラマ全体としては道徳的、感傷的、楽観的で、最後はハッピー・エンドになる》という「定石」に支えられたドラマに他ならない(引用は「日本大百科全書(ニッポニカ)」より)。
 そして黒沢清の作品ほど、実のところこの「メロドラマ」からほど遠いものはなかった。ホラーやスリラーといった「メロドラマ」のひとつの典型的なジャンル映画の名手といわれながら、そこには常に“得体の知れない「不気味さ」”が呪縛霊(!)のように画面の表層にこびりついている。たとえば幽霊が怖いのは、本来この世界にいる(=在る)はずがないものが「実存」するからだが、黒沢清作品における幽霊たち(……もちろん「人間たち」も)は、むしろこの世界そのものを決定的に変容させる契機[モメント]として現れる。「実存的」ではなく「形而上的」ゆえに、彼(?)らは怖いというより虚無的であり、どこまでも“絶望的”な得体のしれなさなのだ。
 しかし『スパイの妻』において黒沢清は、あくまでこれを「メロドラマ」として物語ろうとしている。それは、黒沢作品において常に“得体の知れない”役柄で存在感を発揮してきた東出昌大が、ここでは見事に「人間的」な敵(かたき)役として登場していることからも明白であるだろう。
 一方で、日本の軍隊が中国でおこなった残虐行為を告発するとか、国家の「大義」と個人の「正義」の相克とか、危機的状況におちいった夫婦の心理的な葛藤などといった「主題[テーマ]」からも、この作品は無縁だ。といって言いすぎならば、そういった「社会派」的なテーマを“口実[エクスキューズ]”としている、と言っておく。ここで黒沢清監督と、共同脚本に名を連ねる濱口竜介と野原位(とは、言うまでもなく『ハッピーアワー』監督・脚本コンビである)が目論んだのは、ただただ衣装や美術の粋を凝らした「時代劇[コスチュームプレイ]」としての魅惑であり、愛する男のためにすすんで危険に飛びこむヒロインを描くスパイ・メロドラマーーヒッチコックの『汚名』のような作品だったのではあるまいか……
 あのヒッチコック作品で、イングリッド・バーグマン演じるヒロインが南米のナチス秘密組織で探ろうとしていた、原爆製造のためのウラニウムの隠し場所。だがヒッチコックにとって「ウラニウム」とは、単にヒロインを敵地に潜入させ窮地に陥らせるプロット上の“エクスキューズ”でしかない。そしてそれを、ヒッチコックが「マクガフィン」と称したことは、よく知られるところだ。本来ならじゅうぶん深刻[シリアス]な物語的「主題」になり得る「ウラニウム」を、別に宝石や書類に取り替えてもかまわない。そんなものは単なるサスペンスのための“口実”にすぎないだからーーと、このスリラー映画の巨匠はうそぶくのである。
 そして『スパイの妻』は、「泥棒ものではたいていネックレスで、スパイものではたいてい書類だ」と言うヒッチコック的な「マクガフィン理論[セオリー]」にあくまで「忠実」であろうとする(……だから文雄が聡子に託すのは「書類」でなければならなかった)。しかしその裏で、本作はヒッチコックすら考えもおよばなかっただろうひとつの「たくらみ」を、その展開のなかに仕掛けるのだ。なんとなれば黒沢清たちはここで、ある意味ヒロインである聡子そのものを「マクガフィン」としたのである!
 ーーどういうことか? もちろんそれは実際に作品をご覧いただくしかない。だが、ドラマのなかで“それ”を知った蒼井優(……言い遅れたが、本作の彼女はまるで成瀬巳喜男監督作品の高峰秀子のように素晴らしい!)演じる聡子は、ただ「お見事です!」と絶叫する。と同時にぼくたち観客もまた、そのほとんど完璧な「メロドラマ」の達成ぶりにただただ「お見事!」と言うしかないのである。

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