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いつかどこかで見た映画 その88 『ジョーのあした 辰吉丈一郎との20年』(2016年・日本)

企画・監督:阪本順治 製作:椎井友紀子 撮影:笠松則道 出演:辰吉丈一郎、豊川悦司(ナレーション)

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 作品を見終わってからパンフレットに目を通すと、ドキュメンタリー映画作家の松江哲明監督が作品評を寄稿されていて、その最後の一文にこうあった。《僕だけではない、誰にもこんな映画は撮れない。阪本順治監督と辰吉丈一郎以外には。》
 そう、本当にそのとおりだ。と、ぼくも思う。これは間違いなく阪本順治だけにしか撮れない映画だ。けれどそれは、阪本監督が赤井英和を主演にした『どついたるねん』などボクシング映画の“権威[オーソリティー]”だからというのではない。そして、彼が辰吉選手と個人的にも親交があって、その人となりをよく知る存在だからというのでもないだろう。そうではなくて、ぼくたちがこの作品に見るのは、人間・辰吉丈一郎の歴史でありその素顔であるという以上に、もはや「阪本順治的」としか言いようのない人物像[キャラクター]なのである。
 ……ここで、しばし迂回。世の一般的な評価は知らないが、少なくともぼくにとって阪本順治という監督とその作品は、実のところ極めて「難解」だ。『KT』『亡国のイージス』などの硬派な社会派エンターテインメント大作から、藤山直美を主演に撮った『顔』や吉永小百合主演作『北のカナリアたち』といったスター女優たちの「女性映画」、『大鹿村騒動記』のような喜劇まで、一見すると幅広い題材をこなす職人監督のようで、そこには常に「阪本順治作品」以外の何ものでもない個性というか“唯一無二”性がある(と、ぼくは思っている)。それは、単に監督としての「オリジナリティ」というようなものではなく、より本質的かつ根源的な“何か”なのである。
 いや、こう言い直そう。監督第1作『どついたるねん』以来、阪本作品にたいしてぼくという観客は、たとえば『ビリケン』や『王手』、『ぼくんち』などにしても、それぞれに痛快エンターテインメント作やホームドラマと位置づけられる作品でありながら、一方で単純に「面白がれない」ような“ひっかかり”をいつも感じてきた。娯楽作でありながら、どこか「娯楽」であることに“徹しきれない”かのようなあいまいさ。あるいは、あくまで「楽しませること」をめざしながら、常にそこから“ズレ”てしまうことことの居心地の悪さ……。
 それは、ともすれば演出ミスや監督としての不器用さなどという作品としての“あやうさ”だととられかねないだろう。が、しかしそれこそがこの監督の映画を真に「阪本作品」たらしめているという、“確信”がぼくにはあるのだ。
 どういうことか? たとえば『亡国のイージス』を思い返すとき、「国家や歴史など、ゲームのように“リセット”できればいいのに」という、いつもながらの福井晴敏イズム満載の原作とは裏腹に、映画はそういった国家的危機管理をめぐるシミュレーションゲームめいた物語などまったく意に介していない風なのだった。しかも、登場人物たちの背景などはぞんざいにあしらわれ(……映画の冒頭、妻子に見送られて家を出た真田広之演じる主人公。けれど、次の場面では何の説明もなく、「何年も前に離婚した」ことになっているのだ)、イージス艦内での銃撃戦にしても、窮地におちいった主人公たちが次のカットでは何事もなかったかのように逃げおおせていたりと、ここまでくると意図的としか思えないかたちで観客の期待する展開や物語をはぐらかし、あえて言うなら“破綻(!)”させてしまっているのである。
 あるいは『座頭市 THE LAST』のなかで、香取慎吾の座頭市と仲代達矢による悪党の親分が繰りひろげる対決場面。そこで阪本監督は、何の脈絡もなくふたりの姿を一瞬ふっと画面から消してしまう。そして数秒後にふたたび姿をあらわし、これも何事もなかったように死闘を続けるのだ。
 後から考えれば、それは両者が延々と斬り合い続けたという「時間の経過」をしめしたもの、とも推測できるのだけれど、ならば誰もがやるように「オーヴァーラップ」でよかろう。それが突然に画面から人物たちが「幽霊(!)」のように消えてしまうのだから、見ている者はただあ然とするばかりなのである(……この場面に匹敵するものがあるとしたら、おそらく張芸謀[チャン・イーモウ]監督の『LOVERS』における、ワンカットで平原が一面の雪景色に変わった金城武とアンディ・ラウの対決場面くらいだろう)。
 その他、阪本順治監督の映画にはどこかでそういったいびつさというか、奇妙に突出した“瞬間”がある。それは、ただ「面白さ」をめざしたエンターテインメント映画において、観客をとまどわせる要素などあってはならない、排除すべきものでしかないだろう。だが、その気になれば『魂萌え!』や『大鹿村騒動記』などといった「ウエルメイド」な映画も撮れる阪本監督は、ここぞというところでそういった“瞬間”を導き入れずにはいない。ケレン味というより、「傾(かぶ)く」のだ。そのとき、阪本監督の映画は「難解」なものになる……。
 ただ、ひとつ言えるとすれば、そんな“瞬間”によって映画は一挙に非現実的な色合いを帯びていく。物語も、もっともらしい現実感も蒸発してしまい、そこにはただ「登場人物[キャラクター]」たちと、彼らに宿命づけられた「闘争」だけが前面化あるいは全面化してくるのである。……もはや勝者も敗者もない、個と個の「闘争」の場としての世界。阪本順治監督の映画が開示するのは、常にそういった世界ではなかったか。
 そして、本題。この『ジョーのあした』は、サブタイトルに「辰吉丈一郎との20年」とある通り、1995年から2014年の20年にわたって阪本順治監督(と撮影監督の笠松則通、録音の志満順一)がプロボクサー辰吉選手をインタビュー取材し、撮影し続けたドキュメンタリー映画だ。とにかく、ひとりの人物を20年間撮り続けたというのも凄いが、ほとんど全編を辰吉丈一郎という男の「顔」だけで押し通したというのも破格の、何というか“とてつもない”作品なのである。
 阪本順次監督と辰吉選手といえば、かつて『BOXER JOE』という映画があった。網膜剥離によって王座を返上した辰吉選手が、ハワイでの復帰戦に勝利し、薬師寺保栄選手との世界タイトルマッチに臨むまでの姿を、ドキュメンタリーとドラマを織りまぜながら追う作品だった。
《完成した『BOXER JOE』はドキュメンタリー・ドラマというアイデア自体は非常に面白かったし、ドラマ部分も愛着のある作品なのですが、辰吉君自身の姿に関してはまだまだ撮り足りない気持ちが残っていた。そこで、この後も自主制作で、引き続き個人的にカメラを回したい、と彼に申し出たのです。その時点では辰吉君が引退するまでの姿を追ってまとめようというくらいの軽い気持ちでスタートしました。まさか20年経っても引退しないとは想像もしていませんでした(笑)》(公式HPの阪本順治監督インタビューより)
 そう、その20年のあいだに辰吉選手は、日本でのライセンスを失い、海外で試合を重ね、最愛の父親を亡くし、引退勧告を受け入れたと思ったら現役続行を表明し、足を負傷し、ついに次男がプロボクサーとしてデビューする。だが辰吉選手は、今年(2016年)で46歳をむかえる今もなお現役の「選手」であり続ける、あるいはあり続けようとするのである。
 そんな辰吉選手の姿を、というか「顔」を、映画はまさに“定点観測”よろしくとらえ続ける。そして画面外から、ときには自分自身も画面に映り込みながら阪本監督が質問を投げかける。その問いは、結局のところただひとつに集約されるだろう。「なぜ引退しないのか」と。
『BOXER JOE』のときは、宇崎竜童演じる辰吉ファンのお好み焼き屋主人とその周囲の人々をめぐるドラマ部分が、“王座奪還にいどむ「浪速のジョー」”という物語を成立させていた。が、この『ジョーのあした』では、辰吉選手に対してそのような「物語」を与えてくれない。彼は、ただ「辰吉丈一郎」として画面に映し出されるほかないのだ。そして、まだ青年然とした20代から、30代をへて、髪やひげに白いものがまじる40代にいたるまでの20年にわたって、辰吉選手は結局ただひとつのことを言い続けるだけのである。「今はまだ引退しない」ということを。
 年齢だけはかさねながら、変わらない、いや、変わることを拒み続ける辰吉丈一郎という男。しかしそれは、「現役」であることに固執して現実から“逃避”しているだけだ、ともとられかねない。それはもはや、一種の「ひきこもり(!)」とすら言い得るのではないか……
 そういえば、阪本順治監督の代表作のひとつである『顔』をめぐって、精神科医の斎藤環氏は藤山直美演じる主人公[ヒロイン]のことを典型的な「ひきこもり」だとして、こう書いていた。
《ひきこもりをぜいたく病だ、現実逃避だと批判する人がいる。しかし実際には、彼らは単に逃避が下手なのだ。(中略)彼らはいつもやり直しを切望している。夢や理想から逃げ切れなかったことが、彼らをその場に釘付けにする。「あきらめを知る」ことで自由になれると判ってはいても、彼らはあきらめに逃避することすら潔しとしないのだ》(『フレーム憑き 視ることと症候』より)。
 あの映画のなかで、不可抗力的に妹を殺した主人公は、たまたま起こった神戸の震災の混乱に乗じて逃亡を企てる。どこまでも逃げ続けようとするなかで、「彼女の顔は固有の輝きを帯びはじめるのだ」(斎藤環)。あきらめに逃避するのではなく、あきらめないために逃避し続ける主人公。彼女にとって“逃走”こそが「闘争」そのものだったのである。
 そして、『ジョーのあした』における辰吉選手も、「あきらめに逃避することすら潔しとしない」まま現役選手であり続けようとする。現役であることを“あきらめない”ことが、もはや彼にとっての「闘い」の継続であり生きることのすべてであるかのようだ。そのとき、辰吉丈一郎という男の顔もまた「固有の輝き」を帯びている。
 最後に。2005年の時点で、阪本監督はその著書にこう書いている。《普段の辰吉を、俺は撮っている。近所の公園や、家や、喫茶店にいる辰吉を撮っている。いつかこの10年分の映像を編集するとき、辰吉が「こんな話をしていたのか」ということ以上に、「こんな顔してたのか」と思えるようなものになればいいと考えている》(『孤立、無縁』より)。……それからさらに10年をへて、20年分を82分に凝縮した本作は、どの阪本作品にもまして「阪本順治的」な「顔」だけの、“唯一無二”のものとなったのである。

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