見出し画像

いつかどこかで見た映画 その127 『エンド・オブ・ウォッチ』(2012年・アメリカ)

“End of Watch”

監督・脚本:デイヴィッド・エアー 撮影:ロマン・ヴァシャノフ 出演:ジェイク・ギレンホール、マイケル・ペーニャ、ナタリー・マルティネス、アナ・ケンドリック、デイヴィッド・ハーバー、フランク・グリロ、アメリカ・フェレーラ、クリー・スローン、コディ・ホーン、ションドレラ・エイヴリー、エバートン・ローレンス、ハイメ・フィッツシモンズ

画像1

 アメリカのTVドラマでは制服警官を主人公にしたものがけっこう多い(代表的なものとしては、『ヒルストリート・ブルース』や『NYPDブルー』などだろうか)のに、映画では案外と少ないーーとは、昔から不思議に思っていたことだ。映画における制服姿の彼らは、刑事や捜査官たちの後ろでウロチョロする“背景”か、街の商店主や麻薬[ヤク]の売人などから賄賂をせびったりする“悪徳警官”ばかり。そもそも「キーストン・コップス」と呼ばれたサイレント初期のドタバタ喜劇シリーズにあって、すでに警官たちは物笑いのタネでしかなかったじゃないか。ニコラス・ケイジが善良な警官に扮した『あなたに降る夢』なんかでも、別にその役が「警官」である必然性はなかった。
 しかし、その意外と少ない「制服警官もの」映画を振り返ってみると、これが秀作揃いなのである。そして、今回の『エンド・オブ・ウォッチ』もまたそんな1本であり、見応えのある作品であることは、本作のパンフに掲載されていた、映画評論家の町山智浩氏の文章にある通りだ。《制服警官、特にパトカーの乗務員を主人公にした映画は多くない。ベスト3を挙げるなら、リチャード・フライシャー監督の『センチュリアン』(72)、デニス・ホッパー監督の『カラーズ/天使の消えた街』(88)、そしてこの『エンド・オブ・ウォッチ』の他にないだろう》。
 それ以外にも、(必ずしも主人公が「パトカー乗務員」というわけでもないけれど)ロバート・アルドリッチ監督の『クワイヤボーイズ』や、こちらは白バイ警官を主人公にしたジェームズ・ウィリアム・ガルシオ監督の『グライド・イン・ブルー』、ジェームズ・マンゴールド監督の『コップランド』なども忘れがたい。ぼくにとってオールタイム級のベスト作品のひとつである『センチュリアン』は別格としても、こうしてみると見事に充実したラインナップじゃないか。そんなシブい“制服警官もの”映画の系譜に新たなタイトルを刻んだのが、町山氏もおっしゃる通りこの『エンド・オブ・ウォッチ』なのである。
 主人公は、ロサンゼルス市警のパトロール警官である白人のブライアン(ジェイク・ギレンホール)と、ペアを組むメキシコ系のマイク(マイケル・ペーニャ)。映画の冒頭、いきなりパトカー車内からのハンディカメラによる逃走車の追跡映像と、ブライアンによって警官としての信条がナレーションで語られる。が、それは、ブライアン自身によって撮影されたもので、彼は自分たちの現場を記録した映像課題によって大学法学部への進学をめざしていると、まもなく観客は知ることになる(……もっとも、署内で非難されながらも嬉々として他の同僚にカメラを向けたり、ダッシュボードや、自分たちの胸元に小型クリップカメラを取り付けて撮影にはげむブライアン。それはもはや課題というより、ほとんどマニアックな“趣味”にしか見えないんだが)。
 そういったブライアンのデジタル・カメラには、パトカー車内でのふたりの他愛ないジョークの応酬や、お互いの愛する女性たち(ブライアンは結婚を意識した恋人がいて、マイクは妻帯者だ)についての相談など、人種を超えた彼らのきずなの深さが映し出されていく。と同時に、ロサンゼルスでも最も危険だといわれるサウスセントラル地区での、犯罪や事件の数々が、ブライアンやマイクの(身につけたカメラによる)主観的な映像として記録されていくのである。
 そう、この映画は、ブライアンのカメラがとらえた(という設定の)映像が全編にわたって登場する。いわば『クローバーフィールド HAKAISHA』や『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』などの、登場人物たちによる主観撮影(POV)をもとにした「モキュメンタリー」と呼ばれる手法を援用しつつ、そこに空撮など従来通りの第三者的(というか「古典的」)な視点による映像をおりまぜながら構成されているのだ。それが本作にリアルな臨場感を与え、従来のポリス・アクション映画とはひと味もふた味もちがう迫真性をもたらしていることは、間違いないだろう。
 そんななかで映画は、サウスセントラル地区が黒人からヒスパニック系のストリート・ギャングたちに勢力が移り、その背後に南米の麻薬カルテルがひかえていることを浮かび上がらせていく。そしてブライアンとマイクは、そういった組織犯罪の捜査に深入りしていくことで危機におちいっていくのである。
 ……不審車の追跡や銃撃戦、時には火事の家に突入して子どもたちを救出したり、眼にナイフを突き立てられた同僚警官や、大量のバラバラ死体との遭遇などといった殺伐としたエピソードも描かれるが、本作の大半はブライアンとマイクによるユーモラスな会話場面だ。そこからは、この作品が正統的な「相棒[バディ]もの」をめざされたものであることが、ハッキリと伝わってくる。陽気で屈託のない白人のブライアンと、家族思いのメキシコ系のマイク。一見すると対照的なふたりは、警官であることの同志愛と、それ以上の信頼で結ばれている。その男同士の“精神的連帯[ホモ・ソーシャル]”は、アメリカ映画のひとつの典型だといっていい(……西部劇や犯罪ドラマ、戦争映画などといったアメリカ映画を代表するジャンルにおいて、この「相棒」という男同士の関係性がどれほど重要なものかは今さら言うまでもないだろう。だからこそアン・リー監督の『ブロークバック・マウンテン』は、そういった西部劇のなかの男たちによる“同志愛[ホモ・ソーシャル]”を“同性愛[ホモ・セクシュアル]”に至るものとして描いたことによって、「アメリカ映画」にとって真にセンセーショナルだったのだ)。
 監督・脚本のデイヴィッド・エアーといえば、デンゼル・ワシントンの悪徳(というより、ほとんど「悪魔」的な)刑事を描いた『トレーニング・デイ』及び大ヒット作『ワイルド・スピード』の脚本で知られ、監督に進出してからも『フェイクシティ ある男のルール』など、一貫して犯罪映画における男たちの生き様を描き続けてきた。自身もサウスセントラル地区で育ったというエアーにとって、「犯罪」とは日常的なものであり、それを主題とするのはある意味“必然”だったのかもしれない。
 そうして、全編のほとんどがサウスセントラルを舞台にした本作において、エアーは脚本家=監督としての自己のキャリアにおける現時点での集大成ーーというのが過大すぎるならオトシマエをつけたのだ、と言っていいだろう。脚本家としての彼は、アメリカ映画の伝統的な「相棒もの」にあくまで忠実だ。そのうえで主人公のひとりブライアンが大学の法学部入学をめざすという設定によって、同じ制服警官ものの傑作『センチュリアン』に目配せをおくるだろう(……そこでのステイシー・キーチ演じる主人公は法学部出身の若手警官で、将来は判事になることを夢見ている)。さらに、ブライアンが周囲の忠告を聞かず、マックスとともに麻薬カルテルがらみの事件に深入りしていくという展開は、殺人課の刑事に憧れてとある殺人事件にのめり込む『グライド・イン・ブルー』の白バイ警官をどこか想起させるだろう(……ロバート・ブレイク演じる主人公とその相棒の警官が前半で繰り広げる“ゆるい”友情関係に、タランティーノ風の饒舌な会話劇[ダイアローグ]を織り交ぜたなら、まさしくブライアンとマイクそのものだと思うが、どうか?)。この『エンド・オブ・ウォッチ』は、あくまで“警察映画の王道”をゆくものとして構築されているのだ。
 そんな自身の脚本を、監督としてのエアーは前述の通り、登場人物たちが手にしたり身につけたデジタル・カメラの主観映像を駆使して、あたかも事件の「現場」をダイレクトに目撃しているかのようにビジュアル化する。しかしそれは、(たとえば『クローバーフィールド』などのように)徹底されるんじゃなく、あくまでオーソドックスな映像とともに用いられるのだ。“現代風[トレンド]”スタイルと古典的なそれとが、ここでは折衷され融合されているのである。
 現代的でありながら、どこまでも正統的なジャンル映画を実現すること。デイヴィッド・エアーの脚本と演出は、そのバランス感覚において並々ならぬ実力を発揮する。だからこそ、この作品は本国アメリカで批評・興行ともに大きな成功をおさめたのに違いない。実際、主人公コンビを演じるジェイク・ギレンホールとマイケル・ペーニャの演技は素晴らしく魅力的だし、彼らをとりまく同僚や上司たちも実にいい味を出している(……あと、主人公たちそれぞれの相手役[ヒロイン]となる、アナ・ケンドリックとナタリー・マルティネスが、ともにこれまた“いい女”すぎる!)。アメリカ映画の十八番ともいうべきバディ・ムービーだが、確かにこれは、そのなかでも上等の部類にはいるものだと思う。
 先に挙げた「制服警官もの」映画がほぼすべてそうだったように、この作品も決してハッピーエンドというわけにはいかない(そもそもタイトルの“勤務時間終了[エンド・オブ・ウォッチ]”には、もうひとつ隠語として“殉職”という意味があるのだ……)。だが、それを最後の最後にドンデン返して、全編のなかでも最も下品かつ笑える会話場面でしめくくってみせるデイヴィッド・エアー。おいおい、それってタランティーノの『パルプ・フィクション』の“盗用[パクリ]”ーーといって言いすぎならば“踏襲”じゃないか(……そういえば本作は、ブライアンの結婚パーティ場面でも、ジェイク・ギレンホールとアナ・ケンドリックを、まるであの映画のジョン・トラヴォルタとユマ・サーマンのように踊らせていたのだった)と苦笑しつつ、やはりこう納得させられるのだ。この作品を見る観客のおそらく誰もが好きにならずにはいられないブライアンとマイクの警官コンビを、作り手のエアーもまた誰よりも愛しているのだな。だからこそ、このラストなんだな、と。
 どこまでも殺伐とした今という時代の「現実[アクチュアル]」を描きつつ、もはや時代を超越した“男たちの絆”を高らかに謳ってみせるエアー。見かけの派手派手しさばかりがエスカレートする昨今のアメリカ映画的な風潮にあって、そういったデイヴィッド・エアーの「新伝統主義」ともいうべき姿勢に、大いに注目しようじゃないか!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?