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いつかどこかで見た映画 その124 『トゥモロー・ワールド』(2006年・イギリス=アメリカ)&『キング 罪の王』(2005年・アメリカ)

“Children of Men”

監督・脚本:アルフォンソ・キュアロン 脚本:ティモシー・J・セクストン 原作:P・D・ジェイムズ 撮影:エマニュエル・ルベツキ 出演:クライヴ・オーウェン、ジュリアン・ムーア、マイケル・ケイン、キウェテル・イジョフォー、チャーリー・ハナム、クレア=ホープ・アシティ、パム・フェリス、ダニー・ヒューストン、ピーター・ミュラン、ワーナ・ペリーア、ポール・シャー、マジャセック・コーマン、エド・ウェストウィック

“The King”

監督・脚本:ジェームズ・マーシュ 脚本:ミロ・アディカ 撮影:アイジル・ブリルド 出演:ガエル・ガルシア・ベルナル、ウィリアム・ハート、ペル・ジェームズ、ローラ・ハリング、ポール・ダノ、デレク・アルバラーノ、ビリー・ジョー・マルティネス

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 2002年に日本でも公開され、一部で話題になった『天国の口、終りの楽園。』というメキシコ映画を、ご記憶の方も多いと思う。年上の人妻とふたりの男子学生が、ありもしない「天国の口」という入り江を訪ねて旅をするという、“青い体験もの”パターンをひねったなかなか魅力的な青(=性)春ロード・ムヴィーでありました。
 そしてここ最近(2006年)、あの映画の監督と主演者それぞれの最新作を立て続けに見る機会に恵まれた。アルフォンソ・キュアロン監督による『トゥモロー・ワールド』と、ガエル・ガルシア・ベルナル主演の『キング 罪の王』だ。そして、これがどちらも、見る前の予想をはるかに上回る強烈な“問題作”なのだった。
 もっとも、正直なところキュアロン監督の映画は前述の『天国の口~』を見ただけなので(あの『ハリー・ポッター』シリーズの監督作すら、未見。というか、あのシリーズは1本も見ていない……)、いったいどこまでがこの監督ならではの“持ち味[スタイル]”なのか、いささか分かりかねるところがある。けれど本作における、近未来の地獄絵図を凝視する眼差しの冷徹にして生々しい感触だけは、やはり特筆しておきたい。
 そこで描かれるのは、子供がまったく産まれなくなった世界と人心の荒廃ぶり、そして、難民を暴力的に排斥するのが日常と化した光景だ。テロや官憲によって人々が虫ケラのように殺され死んでいく様(……実際、あの役者やこの登場人物が、「えっ、こんなところで死ぬの? 殺されるの? 消えちゃうの?」という“意外性”というか、驚きの連続なんである!)をカメラがただ淡々と即物的におさめていくあたりの感覚は、どこかジョージ・A・ロメロ監督の映画(なかでも、細菌兵器によって殺人鬼の群れと化した街の住人たちが、無表情に互いを殺し合う『ザ・クレイジーズ』だろうか)に通じるものがある。人が銃撃されてから死ぬまでの、あっさりとしてるがゆえにリアルな衝撃。鉄棒で殴られる、その肉体的な痛みがストレートに伝わってくる即物的な描写……。そういえば『天国の口~』でも、セックス場面が奇妙に生々しい印象を与えたものだったけれど、このあたりの、人間(の肉体)をモノっぽく見つめるマテリアルな眼差しこそ、キュアロン監督独特のものなのかもしれない。
 そんななか、クライブ・オーウェン扮する主人公は、奇跡的に赤ん坊を身ごもった少女と出会う。そうして彼は、彼女と赤ん坊を政治的に利用しようとする非情なテロ集団から逃れ、何とか安全な場所へ送り届けようとする。そこで描かれる彼らの逃避行は、およそハリウッド的な“約束事”をことごとくひっくり返すようなものであるだろう。つまり、“何があっても善なる主人公たちは生き残る”という観客の思い込みを、映画は徹底的に裏切りはぐらかす。そうして主人公たちがおかれた状況の過酷さを、息苦しいまでに実感させるのである(……たとえば、少し前に公開されたマイケル・ベイ監督の『アイランド』と比べてみるがいい。主人公の男女が絶望的な逃亡を決行するという、似たようなシチュエーションによるあの近未来SFアクションにあって、たとえどんなに“意外”な展開が連続しようとも、見るぼくたちは一瞬たりとも本質的な意味での「不安」を抱いたりはしなかったはずだ。主人公たちを見舞う危機の連続を、「しかし主人公たちは死なない」と高を括っているからこそ観客は安心して“高見の見物”とシャレこめた。で、もちろん映画はそんな“お約束”に忠実であるだろう。しかし『トゥモロー・ワールド』を見ることは、まったく“別の体験”を課されることなのだ……)。
 ただ、イギリス映画はこれまでにも、『赤ちゃんよ永遠に』や『未来惑星ザルドス』、『SF核戦争後の世界・スレッズ』(ミック・ジャクソン監督による本作は、核戦争による人類の末路を、その最悪の結果においてシミュレートしたもの。「核の冬」による気象の激変による飢饉や、食料を奪うために平気で人を殺したり、レイプされた少女が放射能汚染による奇形児を産み落としたり……と、まったくシビアで酸鼻を極めたエピソードの数々が淡々と綴られていく。今回『トゥモロー・ワールド』を見て真っ先に想起したのが、テレビ放映で見たこの、トラウマ必至な日本未公開作品だった)など、絶望的な未来像を描く“ディストピアもの”に独特の感覚[センス]を発揮してきた。この映画もまた、実のところそんな伝統(?)に乗っ取ったもののひとつ、と言いうるのかもしれない。
 しかしこの映画にある、徹底してリアリスティックでありながら一方で極めて宗教的な寓意性[アレゴリー]は、たぶん、間違いなくアルフォンソ監督のものだろう。それは、武装蜂起した難民たちと鎮圧にあたる軍隊とが収容所内で繰り広げる、クライマックスの戦闘場面において鮮やかに表出される。……鎮圧部隊の攻勢・反撃するテロ組織・建物内に逃げる主人公たちそれぞれの姿を、途中カメラのレンズに飛び散った血しぶきを付けたまま約8分に及ぶワンカットにおさめた迫真性! だが、それに続いて映画は、少女の妊娠を知った難民や兵士たちが、「神の顕現[エピファニー]」を見たかのように祈り、呆然とし、涙を流す姿を映し出す。その時ぼくたちは、ここで主人公たち(と、お腹の赤ん坊)が「出エジプト記」に重ねられていること、この映画そのものが実に旧約聖書的な寓意と教訓(!)に満ちていることに、あらためてハッキリと思い至るのだ(そう言えば、様々な言語が入り乱れる難民収容所の光景など、「バベルの塔」の逸話を想起させずにはいない。まさにこの映画は、“天罰”として人間に課された受難劇に他ならない……)。
 一方でリアリスティックな近未来世界を映し出し、けれどそれは深い宗教的な(という以上に、「聖書的な」というべきか)道徳観に満ちている。そこには、これがイギリス映画の「ディストピアもの」を継承する1本であると同時に、アルフォンソ・キュアロンというメキシコ人監督の手になるものであることが深く刻印されているのかもしれない。それも監督独自の視点[ヴィジョン]というより、アステカ文明とスペイン支配という歴史的な相克にねざした、死と信仰とシュールリアリズムの国「メキシコ」そのもののヴィジョンが、この実に興味深く魅力的な両義性を実現したのではあるまいか。と、今は仮定的に記しておこう。さあ、アルフォンソ監督の他の映画も見直さねば!
 ……などと調子にのっていたら、ガエル・ガルシア・ベルナル主演作『キング 罪の王』について書く余裕が、ほとんどなくなってしまった。いやはや、本来こちらがメイン(!)のつもりだったのに。
 本作でまず注目したいのが、ハル・ベリーにアカデミー主演女優賞をもたらした『チョコレート』の脚本家ミロ・アディカによる、最新オリジナル脚本であること。前のスイス人監督に続いてイギリス人監督と組んだ今回は、またもや「アメリカの悲劇」的な、しかも前作をはるかにしのぐセンセーショナルな1作となっているんである。
 ここにあるのは、端的に言ってしまえば聖書の「カインとアベル」をモチーフにして描かれる、“ある家族の崩壊劇”だ。メキシコ人の母を持つ私生児の主人公が、アメリカ人の父親に会いに行く。父は敬虔な牧師となっており、幸せな家庭を築いている。ーーそこから先のストーリーは、書けない。『トゥモロー・ワールド』とは別の意味で、これも思いがけない展開で観客の感情を翻弄しながら、最後に大きな“問い”を突きつけることにこそ核心があるのだから。……青年はまず、父親から拒絶されるだろう。それからの彼がとった行動は、復讐なのか、父の〈愛〉を独占しようとしたがゆえなのか? そうして迎える、あの衝撃的な結末……。
 たぶん、ぼくを含む観客はエンドクレジットを呆然と見やりながら、その“問い”を背負いこまされたことをはっきりと思い知るに違いない。ウィリアム・ハート演じる父親が、生涯問い続けることになるだろう巨大で重すぎる“問い”を。
 正直いって、ここでのミロ・アディカの脚本は、あまりに神話や悲劇的な図式が透けすぎるきらいがなくもない。ジェームズ・マーシュ監督も、その「図式性」に頼りすぎているようにも思える。それでもなお、この映画が真にアクチュアルな(という語を、ここでぼくは「血肉の通ったナマの」という意味でも使っている)「神話」であり「悲劇」たり得たとしたら、それは間違いなくガエルやハートをはじめとした役者たちの素晴らしさであり、何よりロケ地となったテキサス南西部の街の佇まいゆえだろう。
 この「キリストの骸(むくろ)」という名の、実在する街コープス・クリスティ(何と、初代「チャーリーズ・エンジェル」のひとりファラ・フォーセットや、『トラブル・イン・マインド』が忘れ難いロリ・シンガーといった美女の出身地でもある!)は、マーシュ監督によると「メキシコの国境からほんの60マイルの町で、メキシコ系の住人の方が多いくらいだ」という。 アメリカとメキシコの境界[ボーダー]に位置する街で、自身アメリカ人とメキシコ人の「境界」に生まれた主人公は、“一線[ボーダー]を越える”ことで「王国(=アメリカ)」の側へ向かおうとする。そこで、父親である「王」から“王位”を簒奪するために。……この、あまりにも象徴的で陳腐なものに陥りかねない「解釈」は、決してぼくがひねくり出したものではない。あくまでもこの映画のなかの街の風景が、その土地の息吹が、浮かび上がらせてくれたものだ。もちろん、異論は当然あるだろう。けれど、少なくともぼくにはこれを、単なる「神話」や「悲劇」の焼き直しではなく「境界」をめぐる映画として見ることが、最も魅力的であると信じる。
 そう、ここでも問題は「メキシコ」なのである……。

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