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いつかどこかで見た映画 ショートver. 『ダークシティ』(1998年・アメリカ=オーストラリア)

“Dark City”
製作・監督・脚本:アレックス・プロヤス 脚本:レム・ドブス、デイヴィッド・S・ゴイヤー 撮影:ダリウス・ウォルスキー 出演:ルーファス・シーウェル、ジェニファー・コネリー、キーファー・サザーランド、ウィリアム・ハート、リチャード・オブライエン、イアン・リチャードソン、メリッサ・ジョージ、コリン・フリールズ


(この文章は1998年11月に書かれたものです。)

 いやー、まいった。久しぶりに心底“アブナい”と思える映画と出会ってしまった。見る前と見た後では印象がまるで違う、確実にこちらの精神まで変調をきたすかのような映画。たとえばデイヴィッド・リンチの『ロスト・ハイウェイ』なんかだと、観客の側もある種の覚悟(!)ができているワケなんだけど、今回はどうせハリウッド製エンタテインメントじゃんとタカをくくっていたものだから、ことさらダメージをくらった次第だ。この『ダークシティ』をご覧になられる方は、くれぐれも心の準備をしてからどうぞとまずはご忠告申しあげておきたい。
 もっとも映画の内容そのものは、ことさら奇態な、あるいは支離滅裂なものであるってことじゃない。冒頭で、滅亡の危機を迎えた異星人[エイリアン]たちが地球に目をつけたウンヌンと説明があり、画面は一挙に1940年代風の、それにしては電話やTV、地下鉄の車両などが名に現代的なアメリカの一都市へと舞台を移す。そして、暗くどこか書き割り然とした街並みを、なぜか記憶を失ってしまい、しかも娼婦連続殺人鬼の容疑者にされて逃げまわるひとりの男。
 警察に追われ、いっぽうで失われた「自分自身の記憶(=過去)」を追い求める男は、やがてマッド・サイエンティスト然とした精神科医と、街でうごめぐ謎の男たちと遭遇する。実はこの男たちこそエイリアンで、精神科医はその手先となって働いていたのだ。──なんて、ここまでは、まるでジャック・フィニィのSF小説『盗まれた街』と、ウィリアム・アイリッシュ(コーネル・ウールリッチ)の犯罪小説をいっしょにしたような、フィルム・ノワール仕立ての“侵略SF映画”といった展開。確かにそこそこ予算[カネ]のかかった「ハリウッド大作」にふさわしい構えの作品ではあるだろう。
 が、何かヘンだ。前述のとおり時代が奇妙に混乱した街の様相も、わざとミニチュア風のチープさとデフォルメをほどこされたような都市の造型も、広角レンズを多用したとおぼしき極端にデフォルメされた遠近法的な構図も、記憶喪失の主人公を演じるルーカス・シーウェルのどこか神経症的な演技(特にその眼差し!)も、見ているあいだにだんだんと“違和感”がつのってくる。さらに、全編にわたって観客の神経をかすかに逆なでするかのような不安感をあおるトレヴァー・ジョーンズのノイズ風音楽もあいまって、何だかこの映画のすべてに奇ッ怪で不気味なまがまがしさがじょじょに満ちてくるかのようなのである。
 その印象は、エイリアンたちが主人公の前に姿を現してからの展開でさらにエスカレートする。彼らが娼婦の死体に残す渦巻き模様、世界の時間をとめて(!)そのあいだに人々の記憶を入れ替える謎の実験、堂々めぐりをくり返すだけで決して街の外には出られないカフカ的な迷宮感覚……。ここに至ってぼくたち観客は、いよいよ“確信”するだろう。この映画は結局のところすべて主人公の「妄想[パラノイド]」を描いたものであり、その映像も、音楽も、「真性妄想者」による知覚変容を再現したものだったのか、と。
 ここで精神科医の文章を、少し引用してみよう。《一般に分裂病(統合失調症)の知覚変容体験には、以下のような特徴がみられるという。明確な意味付けには欠けるが、不安感、恐怖感、被害感をともないやすいこと。そのさい知覚は単色化、貧困化する傾向にあること。(中略)また自己違和的な体験であり、「慣れ」が起こりにくく、「病識」を持つことが比較的容易であること》(斎藤環著『文脈病』より)。
 この『ダークシティ』は、タイトルどおり昼のおとずれることのない「暗黒の街」が舞台となっている。どうして太陽が昇らないのか、が物語の重要な“伏線”になっているとはいえ、それはまさしく「単色化し、貧困化」した知覚の謂ではないのか。またエイリアンによって記憶が他人のものと移し替えられ、まったくの別人になってしまうといった恐怖も、「自分が自分であること」を認知する自同律の喪失(……このあたりは、リンチもまた『ロスト・ハイウェイ』が実に大胆不敵な“仕掛け”で主題化していたが)を示すものだろう。さらには、時間がとまって人々や車などすべてのものの活動が停止するといった場面を、「強硬症(カタレプシー)」におちいった統合失調症患者の徴候的世界を具現化(=視覚化)したものではあるまいか。
 ……などと先走りすぎると、この文章そのものが「妄想」めいてきそうだが、それでも、ことここに至ってぼくは、この『ダークシティ』が一種の病理学的精確さと迫真性で「真性妄想」をヴィジョン化したものであることを、ほぼ確信する。いわゆる「電波系」だのといった生やさしいレヴェルじゃなく、ここにあるのは“本物”の妄想だと。
 監督のアレックス・プロヤスは、《この映画のパラノイド的側面は、子供時代の夢から生まれた。寝ている間に暗い人影がベッドルームに入ってきて、部屋の中にあるものを並び替えてしまうという夢だ》と語っている(引用はパンフレットのインタビュー記事より)。子ども時代の「夢」から出発して、この巨大な「妄想世界」を構築していったプロヤス監督は、彼自身が“病気”であるとかじゃなく(それは他人の知ったことじゃない)、少なくともここでサイレント時代の古典的名作『カリガリ博士』に勝るとも劣らない精密さと迫真性で「妄想表現」を映像化し、しかもあろうことかハリウッド大作としてこの世に流通させ得たこと。このことだけでも実に驚くべきことだと、少なくともぼくは思う。
 その『カリガリ博士』では、映画の最後にこれがすべて「妄想」であったと説明してくれた。いっぽう『ダークシティ』は、あの街の正体(これは映画を見てのお楽しみ)を含めてどこまでも主人公たちや観客までをも「妄想」のなかに閉じたまま、文字どおり幕を閉じる。──それは“画に描いたような「ハッピーエンド」”ではあるものの、ぼくたちは限りなく「怖い」思いを抱いたまま途方にくれるばかりだろう。
 そんな、本当に不気味でヤバイ映画なのである。本当に!


この「ラストシーン」の後に、真のラストが待っている…

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