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いつかどこかで見た映画 その166 『よだかの片想い』(2021年・日本)

監督:安川有果 原作:島本理生 脚本:城定秀夫 撮影:趙聖來 音楽:AMIKO 編集:野澤瞳 出演:松井玲奈、中島歩、藤井美菜、織田梨沙、靑木柚、手島実優、池田良、中澤梓佐、三宅弘城

(今回はほぼ「あらすじ」のみです。ロラン・バルトじゃないけど、“On échoue toujours à parler de ce qu’on aime (私たちはいつも愛するものについてうまく語れない)”と「言い訳」しつつ……)

 テアトル梅田がこの9月いっぱいで閉館となるニュースは、なかなかに衝撃的だった。関西ミニシアターの老舗として、上映作品は近年もあいかわらずさすがの充実ぶりだったし、いつ行っても常連らしき人を見かけるなど、やはり観客に愛されている映画館だなと思っていたんだが。なんでも「契約満了により」という理由らしいけれど……残念だし、正直もったいないと思う。
 ぼくもまた、開館当初からテアトル梅田には本当にお世話になったひとりだ。テオ・アンゲロプロスやヴィクトル・エリセなんかのいわゆる「シネ・ヴィヴァン」系の名作の数々から、わが心の名作ヴィンセント・ウォード監督の『心の地図』など、当館で見た映画のことはいくつも思いだせる。最近では『この世界の片隅で』上映時の、あの館内にあふれるような熱気が忘れがたい(……そういえば、マイケル・マンの娘であるアミ・カナーン・マンの監督作『キリング・フィールズ 失踪地帯』を、なんかヘンな人間狩りもののB級ヴァイオレンス・スリラー映画と2本立てで見たのもテアトル梅田だった。こちらはなんだか“場違い”な感じがして、逆に印象に残っている)。
 上映時間前か見終わったあとに、時間があれば梅田ロフトに立ちよって雑貨を見たりWAVEで本やCDを物色したりするのも楽しみだったテアトル梅田。ぼくからもこの場を借りて、長いあいだどうもありがとうございましたと、心から感謝を述べさせていただきたい。
 そんなテアトル梅田の“最後のロードショー作品”となるのが、直木賞作家・島本理生の小説を映画化した『よだかの片想い』。そしてこれがなんと言うか、「ラスト・ピクチャー・ショーがこの映画でよかったなぁ」としみじみ思える、本当に素晴らしい作品だったのである。

 主人公は、物理学専攻の大学院生である前田アイコ(松井玲奈)。生まれつき顔の左側に大きなアザがある彼女は、出版社につとめる友人の穂高まりえ(織田梨沙)からの取材に応じる。それはどうやら、「顔にアザや傷を負った人たち」のこれまでの経験や考えを聞き書きして、本にするという企画のものらしい。さらに表紙となる写真を依頼され、公園での撮影に臨むアイコ。
 出版された本は話題となり、さっそく研究室で仲のいいミュウ先輩(藤井美菜)に表紙の写真をネタにされる。さらに、まりえから本の映画化の話があると聞かされ、さすがにそれは拒否するものの、すでに監督との対面の場が予定されているという。
 しかたなく、自分からお断りするつもりで会ったまだ若い映画監督・飛坂逢太(中島歩)は、実はアイコが本の表紙を撮影している現場の近くを偶然通りかかっていた。そして彼は、「あの写真、大好きだったんです」と言う。「あんなにまっすぐ強い目ができる人は、そうそういない。きっとすごく芯が通っていて、がんばっている人なんだな」と。その言葉にみるみる目に涙をあふらせたアイコは、あわてて席を立つ。追いかけてわびる飛坂に、アイコは飛坂の撮った映画が見たいと言うのだった。
 ……映画の冒頭、取材のインタビューでアイコは、小学4年生のとき教室でアザのことをからかわれ、はじめて自分の顔のことを意識したと語る。そしてあとになって、それは同級生たちがからかったことではなく、担任の教師が教室のみんなを叱り、自分に「ひどいことを言ってごめんな」と詫びたことのほうだったと、アイコは飛坂に語るだろう。そうか、私の顔は「ひどいこと」なんだと。
 それ以来、周囲の人間が自分の顔のアザを意識したり気をつかうことに対し、どうしても内向的になってしまったアイコ。そんな彼女の「顔」をはじめてまっすぐ肯定してくれたのが飛坂だった。家にもどったアイコは、飛坂の監督作を見る。そして彼女はその作品にも強くひかれるのである。
 こうして、ふたりきりで会うようになったアイコと飛坂。ある日、飛坂は自分の監督作品に主演していた城崎美和(手島実優)の舞台に、アイコを誘う。閉幕後、飛坂と美和の会話から映画化の話がすすんでいるらしいことを知ったアイコは、怒って外に飛び出す。追いかけてきた飛坂に「もう会えない」と立ち去ろうとする彼女だったが、思い直してふたたび飛坂と向きあう。
 もどってきたアイコに、「せめて脚本だけでも書かせてほしい、それを読んでだめならきっぱりあきらめる」という飛坂。そんな彼にアイコは、人と会うときいつも相手の左側に座るようにしていたけれど、飛坂さんには左側にいてほしかったと告げる。あなたなら、(アザのある)私の左側を否定しないと思ったから、と。そして、自分のほうから飛坂に「好きです」と告白するのである。
 ーー顔のアザゆえに周囲から一歩引いて生きてきた彼女は、だが決して“弱い”女性ではなかった。そもそも自分の容姿ゆえに心を閉ざすような人間なら、決して本の表紙のための写真など撮らせなかっただろう。むしろアイコは自分の顔のアザと向きあうことで、自分にふさわしい関係性を他者や社会と築いてきたのである(……映画の後半で、顔や身体に大やけどを負って入院中のミュウ先輩を、アイコが見舞う場面がある。そこで彼女は、「私はずっとこのアザをとおして人を見ていた。だからこそ信頼できる人とだけつきあってこられたんです。ミュウ先輩もそのひとりです」と言う。顔にアザがあってよかったと、本当に思っているの? と聞く先輩に、「最初からなければそのほうがよかったかもしれないけど、でも、そんなに悪いものじゃないです」とアイコは答えるのだ)。
 それでも、飛坂は「私の左側」を否定しなかった、そしてこれからも決してしないだろう彼に、アイコははじめて“恋”をする。しかしそこからの彼女は、ひとりの「恋する女性」として、逆に“弱さ”こそを露呈していくのである。
 コマーシャル・フィルムなども撮っている人気監督らしい飛坂にとって、何より大事なのは「映画」だった。そのことをわかってはいても、次第にアイコはさびしさと苛立ちをつのらせていく。飛坂にとって、アイコをモデルにした映画を撮ることが彼女の“愛”にむくいることだった。だが、もちろんアイコはそんなことを望んではいないのだ……。
 誠実(かどうかは、人によって意見が分かれるところだろうが)で優しい男に恋した女性が、しかし男の心が自分にはなかったことを知って苦悩する。ーー確かに“ありがち”な展開ではあるだろう。しかしアイコというその女性は、心のどこかでそんな“ありがち”な恋すら自分には縁がないと思って生きてきた。だから彼女自身が自分の「恋」に最もとまどい、悩み、傷ついている。その“切実さ”に、見る者はうたれる。
 そう、彼女の「物語[ラブストーリー]」がどんなにありがちなものであっても、その「物語」を“生きる”ものにとっては、それががどれだけ切実なことか。自分の顔のアザをとおして人を見てきた“強い”アイコだが、そんな彼女の“弱さ”がそのとき露呈する。その切なさや苦しさ、いじらしさを、もはや誰も「ありがち」とは言えないだろう。
 そして、自身の“弱さ”に飲みこまれそうになったアイコは、あるとき夢を見る。宮沢賢治の『よだかの星』を朗読する声にさそわれて、彼女は、はじめて自分の顔のアザを意識したときの小学生だった自分と出会う。すると、飛坂にもらった手鏡に映った自分の顔のアザが、みるみる顔全体にひろがっていくのだった。あわてて目が覚め、その手鏡で自分の顔を確かめるアイコ……。
 この夢の場面のほかにも、映画のなかで鏡は何度も印象的に登場する。思えば安川有果監督は、その長編デビュー作『Dressing Up』でも、連続殺人鬼という「怪物」だった母親の血を受け継いでいると思い込む少女の葛藤を、「鏡に映る自分」というイメージによって描いていたのだった。安川監督における「鏡」とは、たぶん主人公が自身を客観的に見つめる“契機”であると同時に、自分のなかの別の一面を映しだす“装置”としてあるのだろう。
 ともあれ、はじめての「恋」というか、どんどん肥大化していく「片想い」に振りまわされ、自分の“弱さ”と否応なく直面させられたアイコ。だがいっぽうで、彼女は大学院の研究室で作業に没頭し、安達教授(三宅弘城)からの信頼も厚い。どうやらアイコに好意を抱いている同じ研究室の青年・原田(靑木柚)とも、フラットに向きあえている。ミュウ先輩が大やけどを負ったときは、心から彼女を励ます。そういったアイコの“強さ”もまた彼女そのものであることを、この映画はきちんと描く。
 そしてあるアクシデントをきっかけに、結局のところアイコは、最初に自分から告白したように今度もまた自分のほうから飛坂に電話で別れを告げる。そのときこの、「好きです」にはじまって「ありがとう」で終わるアイコの「物語」は、“顔にアザがある女性の恋愛ドラマ”という以上に、ひとりの女性の人間的成長を描く“通過儀礼のドラマ”として昇華するのである。
 だからこそ、映画のラストでミュウ先輩と夕景の大学校舎の屋上で踊り、舞うアイコの姿は限りなく美しい。それは原作の小説にはない脚本を書いた城定秀夫(あの!)によるオリジナルな設定だが、この世界を「顔のアザ」をとおして見てきたかつての自分をも“振りきった”アイコの姿を映しだして(……だからだろう、この場面の彼女に顔のアザはない)、至福というかほとんど“天上的”な美しさなのだ。このラストシーンを目にするためだけでも、ぼくはこの映画をあと何度も見ることだろう。

(……さて、ここからは“余談”です)と同時にこのラストでぼくは、ある1本の映画を想起せずにはいられなかった。その映画とは、斎藤久志監督の『はいかぶり姫物語』である。そしてその、高校生の少女と少年が繰りひろげる特異[ユニーク]な“ガール・ミーツ・ボーイ”物語にあって、ラストシーンはやはり校舎の屋上だった。そこで、少女のおなかから飛びだしていく赤い風船と、彼女の陽気なダンス……。ここでも校舎の「屋上」とは、少女の“すべて”が解き放たれる「至高の場」としてあったのだ。
 奇しくも自分が生まれた年に撮られたその斎藤作品を、安川有果監督が見ているかどうかは知らない(……脚本を書いた城定秀夫はどうだろうか)。が、今ではほとんど見ることのかなわない、しかしぼくという観客には忘れがたい映画の記憶を、この『よだかの片想い』は掘り起こしてくれた。そのうえでこう断言しようーー学校の「屋上」で終わる映画は、すべて名作である!


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