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いつかどこかで見た映画 ショートver. 『グース』(1996年・アメリカ)

“Fly Away Home”
監督:キャロル・バラード 脚本:ロバート・ロダット、ヴィンス・マッキュイン 撮影:キャレブ・デシャネル 音楽:マーク・アイシャム 出演:アンナ・パキン、ジェフ・ダニエルズ、ダナ・デニー、テリー・キニー、ホルター・グレアム、ジェレミー・ラッチフォード、マイケル・J・レイノルズ、デイヴィッド・ヘンブレン


(この文章は1997年3月に書かれたものです。)

 キャロル・バラードの映画を見ることは、ぼくにとって何よりもまさる至福のひとときだ。それは純粋に視覚的愉悦、というか“眼のご馳走”なのだ。なぜなら、そこには「風の見える瞬間」が横溢している。そしてそれは、ぼくが映画のなかで何よりもみたい最も美しい映像にほかならない。本来は不可視のものであるはずの風を、大気を、画面のなかに(というか、むしろその表面を)吹き抜けるのを“見出した”とき、ぼくの眼差しは無条件に幸福に酔いしれるのだ。
 もちろんそれは、「きみの瞳のなかに星が見える」なんてたぐいのたわけた修辞[レトリック]ではない。キャロル・バラードの映画には、本当に風が見え、大気の厚みを感じる瞬間がかならずあるのである。
 もっとも、フィルムに写り得ないはずの風を「見る」とは、サルトルがいうような不在であるがゆえに現れる「想像力としての映像[イマージュ]」のことではないし、たとえばジョン・フォードのように木立のざわめきや巻き上がる砂塵、やさしくなびく女たちの髪や白いエプロンなどで風を間接的に表象することでもない(……これはこれで実に魅力的なイメージではあるんだけれど。ちなみに、絵画史において最初に「風」を真の意味で導入したのが、レオナルド・ダ・ヴィンチだった。その絵画作品で人物がまとう薄物のヴェールこそ風のメタモルフォーゼにほかならず、名高い遠近法にしても、それは大気(風)満たす“場”としての空間を描く手法だ。ダ・ヴィンチ以前の絵画で描かれる風は、決まって“神の吐く息”であり、雲のかなたでほっぺたをふくらませている神がかならず鎮座ましましていたものだ。ほら、ボッティチェリの有名な『ヴィーナスの誕生』にその典型を見ることができる)。現実において不可視の風を、ぼくたちは皮膚で知覚する。夏の日の汗ばんだ肌にふれる微風や、身を凍らせるような真冬の木枯らし、いわば風や大気(空気)とはあくまで〈触角〉の対象なのである。
 それをキャロル・バラードは、映像という「見る」べき対象としてフィルムに定着する。言いかえるなら、この監督は風を映像に定着し、独特の「空気感[アトモスフィア]」を作り出すことにおいて文字どおり独創的なのだ。そして「フォトジェニー」という語が、《映像化されて初めてそのものの真実や美を表す特殊な性質》(講談社版『日本語大辞典』より)と定義されるなら、ぼくはキャロル・バラードの作品によって“風”が何よりもフォトジェニックであることを教えられた。
 最新作『グース』は、まさに全編この「フォトジェニー」な美しさに満ちあふれた作品だ。オープニング・タイトルの雨に濡れた夜のハイウェイにはじまって、よちよちと野を駆けるグースのひなたちを捉えた素晴らしくキュートな場面、主人公の父娘が軽飛行機に乗ってグースたちと一緒に空を飛ぶ場面、さらには、これほど幸福で心洗われる映像[モンタージュ]など滅多にないと思わせられるラストにいたるまで(ちなみに、バラードはそこで前作の『ウインズ』とほぼ同じモンタージュを“再現”しています。そしてこの『ウインズ』という映画、タイトルどおりそこには“風[ウインド]”に満ち満ちている。そのなんという透明感と美しさ! 間違いなくこれはバラードの最高傑作であるに違いないというのに、アメリカでも、日本でもほとんど「黙殺」されたのはなぜなんだろう……)、どのシーンをとっても眼差しは心地よく風に愛撫され、空間を満たすものとは大気であり、飛ぶとは大気(風)に乗ることだとあらためて思い知る。そして映画を「見る」ことが、視覚的体験あるよりもむしろ〈触角的〉な、触れて、愛で、感じる体験としてあるあのような本作ほど、ある意味で「官能的」な作品はない。だがそのエロチシズムは、どこまでもすがすがしく爽やかだ。
 と、ここまで書き継いできて、ふと思いいたる。その作風や作家的姿勢の相違を越えたところで、ぼくたちはこの映像のルックという以上に“肌理[テクスチャー]”を、たとえばピーター・ウィアーやロバート・アルトマン(ただし1970年代中頃までの)などの映画にも見出してきたのではなかったか。さらにはスティーヴン・スピルバーグの『続・激突! カージャック』や『ジョーズ』のなかにも、同様の“空気感”をを感じさせる瞬間があった(はずだ)。
 ピーター・ウィアー以外の監督とその作品については、それを『イージーライダー』に代表されるアメリカン・ニューシネマ時代の撮影様式[モード]の名残りと見ることができるかもしれない。とりわけラズロ・コヴァックスとヴィルモス・ジグモンドというふたりの亡命外国人の撮影監督たちが「スタイル」として確立した、ズームレンズと高感度フィルムによる映像の質感[テクスチャー]、そこには確かにそれまでの映画(史)が知らなかったまったく新しい映像への感受性があった。ビリー・ワイルダーは『悲愁』のなかで、「最近の若い監督は髭づらとズームレンズ1本で映画が撮れると思っている」と皮肉ってみせたけれど、やはり『イージーライダー』は真に革命的だったのだ。なぜなら映画は、このときはじめて“風”を、空気感[アトモスフィア]を画面のなか(というか、その表層)に描き得たのだから(……デイヴィッド・リーンの『アラビアのロレンス』や『ライアンの娘』が望遠レンズで捉えた映像には、この“空気感”が徹底的に欠如してる。同じことはピレ・アウグストの『ペレ』や、エドワード・ズウィックの『レジェンド・オブ・フォール』などといった作品にも言えるだろう。それら映画の画面は確かに美しく絵画的であっても、そこには“風”がついに見えてこないのである)。 
 アメリカン・ニューシネマの“遺産”ともいうべきこの映像感覚は、いっぽうでズームの濫用をまねくことで薄っぺらな叙情や詩的雰囲気(いわゆる「ムーディーな画」というやつだ)をもたらし、やがてTVコマーシャル程度のものへと堕していった。だがキャロル・バラードは、まさにそこから出発し、その様式[モード]を継承し、自身のスタイルへと昇華させたのだった。──そう、この『グース』の美しさ、それはグリフィスにもフォードにもない、『イージーライダー』以降の映画“だけ”に与えられた「美」にほかならないのである。


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