いつかどこかで見た映画 その14 『ワンダーウーマン』(2017年・アメリカ)
“Wonder Woman”
監督:パティ・ジェンキンス 脚本:アラン・ハインバーグ 出演:ガル・ガドット、クリス・パイン、ロビン・ライト、コニー・ニールセン、エレナ・アナヤ、デヴィッド・シューリス、ルーシー・デイヴィス、ダニー・ヒューストン、ユエン・ブレムナー、サイード・タグマウイ
いやもう、とにかく“驚嘆[ワンダー]”の一語なのである。何が? もちろん『ワンダーウーマン』のことさ! この映画を見ているあいだじゅうずっと、ぼくという観客は彼女のそのすべてにすっかり魅了されてしまっていた。いったいこれほどまで「スーパーヒーローもの」の主人公に熱狂したことなど、リチャード・ドナー監督がクリストファー・リーヴ主演で撮った『スーパーマン』か、サム・ライミ監督版の『スパイダーマン』以来ではなかろうか。
もっともぼくの場合、マーヴェル・シネマティック・ユニバース(MCU)とかいうマーヴェル・コミックス出身のヒーローたちが繰りひろげる一連の作品群(……アイアンマンやキャプテン・アメリカやマイティ・ソーやハルクやスパイダーマンやアントマンや、等々)を、ほとんど見ていない。さらに、ヘンリー・カヴィルが主演をつとめるスーパーマンや、『スーサイド・スクワッド』等といった、こちらはDCコミックスにおける人気ヒーローたちの実写化作品もまったく見ていないのだから、これはもうお話になりませぬ。こんな野郎が「スーパーヒーロー」について語ろうなど、まったく笑止千万ではあるだろう。
そもそも、ここ最近のアメリカン・コミック(以下、アメコミ)を原作とした映画じたいに、正直いってあまり興味がもてないのだ。いや、そういった映画の「傾向に」と言いそえておこうか。ノーラン監督の『バットマン・ビギンズ』にはじまるあの“バットマン三部作[トリロジー]”あたりから、この手のスーパーヒーロー作品はどんどんと「シリアスさ」を増していった。彼らヒーローたちは、正義とは何かとか、超人的な“力[パワー]”を行使することの是非などおのれの「本質」そのものに悩み、悪役たちもまたその暗い“出自”や、社会やこの世界への個人的あるいは道理的な憎悪ゆえに、破壊と陰謀をとりおこなうのだ。
つまり、ヒーローも悪役も“自分は何者なのか”という「アイデンティティー・クライシス(!)」をかかえる存在なのである。それゆえ、彼らはともに何かあるごとにウジウジと苦悩し、また何だかんだと自己を正当化する。しかもいいオトナたちが、あのど派手で素っ頓狂なコスチュームを身にまとってだ……ああはずかしい!
もちろん、タイツ姿でマントをひるがえさないとそれは「スーパーマン」じゃないし、全身黒装束とマスクで顔をかくさねば「バットマン」とは呼べない。アメコミ・ヒーローたちのコスチュームとは、そういう“お約束”であることも承知している。
が、だからこそ、そういう「深刻[シリアス]」ぶった心理や内面のドラマなんぞ別のところでやってくれと、ぼくなどは思ってしまう。スーパーマンなら地球の自転を逆回転させて死んだ恋人のロイス・レーンをよみがえらせていいんだし、バットマンははじめから“狂人”ーーといって悪ければ、ペンギンやジョーカーなどと同類の“闇の世界の住人”であればいい。それをわかっていたからこそ、ドナーやバートンやライミ監督の作品はそういった“はずかしさ”をも超越した「スーパーヒーローもの」たり得たのである。そう、「たかが(ヒーロー)映画じゃないか」なのであり、それこそが映画の“粋”でありソフィスティケーションというものじゃないか。
対してノーラン監督や『バットマンvsスーパーマン』などのザック・スナイダー監督作品は、なぜあんなにもご大層に深刻ぶってしまうのか。なんだかコミック原作の「ヒーローもの」を撮っていることを恥じている(?)かのように、そこに重厚かつ深刻[シリアス]な“主題[テーマ]”をもたらそうとする。その「ものほしげさ」がどこまでも“野暮”なのだ(……もっとも、ソフィスティケーションには「詭弁」という意味もあるゆえ、それこそあまり真面目[シリアス]に受け取らないように)。
しかし、この『ワンダーウーマン』が実現してみせたのは、アメコミ原作のスーパーヒーロー映画にあって、主人公(……しかし、これまで「ヒーロー」を“男性形”として使い慣れてきたせいか、女性に対しては何か違和感があると言ってしまうのは、やはり“社会的性差[ジェンダー]”の見地からもNGだろうか?)がとにかく「強い」こと、さらに「美しい」こと、そして何より「崇高」であることだろう。ーー彼女は他の「男[ヒーロー]」たちのように、決してウジウジと苦悩しない。たとえ何があっても、おのれの信念に忠実であり続ける。彼女は美しい。それは自分の「美しさ」など何ものでもないという、ほとんど傲岸不遜なまでの美しさだ。そのうえで、彼女はどこまでも強く「崇高」なのである。
……人間界から隔絶され、女たちだけが暮らす島で王女として育てられたダイアナ(ガル・ガドット)。彼女たちは、神ゼウスによって戦いの神アレスから世界を守るため創造された、女戦士のアマゾン族だった。ダイアナもまた、母親の女王(コニー・ニールセン)の心配をよそに叔母アンティオペ(ロビン・ライト)からきびしい訓練を受けながら成長する。
そんな彼女たちの島に、1機の飛行機が不時着する。操縦していたのは、アメリカ人パイロットのスティーブ(クリス・パイン)。彼は英国軍に身を置いて、敵国ドイツの恐るべき毒ガス兵器の機密情報を盗み出した諜報員だった。続いてスティーブを追ってきたドイツ軍も島にあらわれ、迎え撃つアマゾン族との凄絶な戦いへと発展。多くの犠牲者を出しながらも、ダイアナたちは何とかドイツ軍を撃退する。
そして、島の外の世界は第一次世界大戦のさなかで、多くの人々が苦しんでいると聞かされたダイアナ。それこそ戦いの神アレスのしわざに違いないと確信した彼女は、打倒アレスを胸に母である女王の制止をふりきって人間の世界へと向かうのだった。
その後は、ロンドンでの愉快な間奏曲[インターメッツォ]的展開をはさんで(……この“世間知らずな王女が街をゆく”というくだりは、映画評論家の町山智浩氏のおっしゃる通り『ローマの休日』をほうふつさせる楽しさだ)、ヨーロッパの戦場へと舞台をうつす。そこでダイアナが目にしたのは、戦禍に巻き込まれて逃げまどう人々の悲惨な姿。さらに、ドイツ軍とにらみ合いを続けながら塹壕から一歩も進めない兵士たちの姿に、ダイアナはついにたったひとりで最前線に立つのである。
……降りそそぐ銃弾をものともせず、戦場にすっくと立つダイアナ。このとき、ついに彼女は「ワンダーウーマン」として屹立している。続いて彼女はゆっくりと前進し、ついには疾走するだろう。その場面に、その彼女のたたずまいに、ぼくという観客は総毛立つような畏怖の念を抱き、思わず涙をあふれさせてしまった。ーーああ、これこそが「崇高さ」そのものじゃないか!
18世紀英国の思想家エドマンド・バークは、「崇高さ」をたとえば次のように定義する。《我々が崇高を感得するのは暗い森林や寂しき荒野、ライオンや虎や豹や犀などの姿においてである、(中略)それが解き放たれていて人間を無視していることの強調によって、少なからぬ崇高な姿に盛り立てられているが、そうでなければこの種の動物の描写は何一つ高貴な要素をそなえぬであろう》(『崇高と美の観念の起源』中野好之訳)。
弱き者たちや犠牲者への慈悲の心を持ちあわせ、思いやれる、美しく純粋な正義感にあふれたダイアナ。だが、いざ戦いの場へと立ったならば、彼女は「解き放たれていて人間を無視」する「ライオンや虎や豹や犀など」のような、ただただ「崇高」な存在となる。ワンダーウーマンとは、そういった「高貴さ」にこそ与えられた名称にほかならない。
ーーやがてダイアナとしての彼女は、宿敵アレスとは関係なく自分たち同士で殺し合いをやめない人間の「愚かさ」に気づき、幻滅する。しかし、一方でそんな彼らが持つ「愛」や「愛する者たちを守ろうとする」ことの「気高さ」を知ることで、あらためて人間たちとこの世界のために戦うだろう。彼女が、この世界がなお“護るに値する”ことを教えられる場面の美しさ。そのとき彼女は、「人間的[ヒューマン]」であると同時に「人間を超えた者」としての、つまりヒーローとしての真の〈倫理〉にめざめたのである。良くも悪くも「人間味」をしか感じさせない(……あの、スーパーマンですら!)昨今の神経症気味(!)な男たちのヒーロー像とはハッキリと一線を画す、この女性ヒーローの登場こそ、ひとつの画期[エポック]であること。それだけは間違いない。
が、あらためて繰り返そう。ワンダーウーマンとしての彼女は、そういった「女性的」なるものをも超えて強く、美しく、ただただ崇高そのものなのだ。だからこそこの映画は、真にエポック・メーキングたり得るのだ、と。
……この映画のキャッチフレーズは、「美しく、ぶっ飛ばす。」である。ぼくもまた、あと何回でもこの映画に“ぶっ飛ばされたい”と願わずにいられないのだった。嗚呼。
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