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いつかどこかで見た映画 その55 『アメリカを売った男』(2007年・アメリカ)

“Breach”
監督:ビリー・レイ 脚本:ビリー・レイ、アダム・メイザー、ウィリアム・ロッコ 撮影:タク・フジモト 出演:クリス・クーパー、ライアン・フィリップ、ローラ・リニー、デニス・ヘイスバート、カロリン・ダヴァーナス、ゲイリー・コール、キャスリーン・クインラン、ブルース・デイヴィソン

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 2001年2月に、FBIのベテラン捜査官がスパイ容疑で逮捕された。その男は、アメリカの国防に関する極秘文書を、実に20年以上にもわたってソ連=ロシアに売り続けていたという。その情報によって何十人もの諜報部員や協力者が殺され、世界各地で組織の不祥事が発覚した。そうした被害の全貌は、未だ明らかにされていない……。
 というのが、『アメリカを売った男』という映画のもととなった事件のあらまし。2001年といえば、例の同時多発テロがあった年だ。“9・11”の衝撃でいささかかすんだ感があるこのスパイ事件だけれど(少なくともぼくは、そんな事件があったことすら忘れていたーーというか、たぶん知らなかった。いやはや)、あちらでは「米国史上最大の情報災害」といわれているそうな。う〜ん、なるほど「災害」ですか。
 そういえば少し前にも、“アメリカの駐イラク大使の妻は、CIAの諜報部員[エージェント]だ”と暴露するスキャンダルが巻き起こった。これは当時の副大統領チェイニーの側近が情報を漏洩[リーク]したとされ、つい最近も裁判で判決が出たはずだ。この騒動そのものは、ブッシュ大統領のイラク政策に批判的だった大使を窮地に陥れるための陰謀という風評がもっぱらで、これまた、さもありなんという気がする(だとしたら、自国のためにカラダをはっている諜報部員ーーしかも、ブロンド美人の女スパイ!ーーを危機にさらすという、最低の「裏切り」を時のブッシュ政権はおかしたことになるワケだ)。
 ……東西冷戦など、もはや過去の歴史[エピック]となった現在でも「スパイ」はなお“現役”であること。これは、なかなかどうして驚くべきことなんじゃあるまいか。ーーとは、平和ボケした日本人だからこその感想と、一笑に付されるかもしれない。もちろん、テロリストや麻薬組織などがグローバル化(!)する国際情勢にあって、潜入捜査などの諜報活動は必要不可欠だろう。それでもこの世界の“裏側”で、周囲をあざむきながら極秘の任務に命をかける人々が今も実在することを知らされるのは、(ことスパイ映画好きにとっては)どこかワクワクと心躍らせてくれるエピソードには違いない。
 その上でなお、21世紀に入ってなおこれほど“大物”の二重スパイが現れたとは! ……不謹慎かもしれないけれど、この「二重スパイ」というどこか古色蒼然としたコトバの響きに、ぼくは一種陶然となってしまうんである。何より、「国家」に忠誠を誓いつつ裏切るという背徳的かつ犯罪的な薄暗い魅惑をたっぷりとたたえた、まさに「文学的」存在であること。しかも国家機密を売った先が旧ソ連であり、社会主義体制崩壊後のロシアだったというあたり、まったくもって欧米スパイ小説の「王道」そのものじゃないか。今どき、こんなロマネスクな人物がいたなんて! ……そう、ロバート・ハンセンというこの男こそ、ある意味“理想的”なスパイ・キャラクターを体現している。この手の小説の愛好家なら、まこと事実は小説よりウンヌンという常套句[クリシェ]を、思わず口にすることだろう。
 さて、映画は冒頭で、ハンセン逮捕を発表する当時のニュース映像を映し出す。そこからあらためて2ヶ月前にさかのぼり、FBI側がいかにこの二重スパイを追い詰め、正体を暴いたかを追っていくという展開だ。
 ハンセン監視の任務に抜擢されたのは、エリック・オニールという若手捜査官。最初はハンセンの部下として働きながら、彼の行動を徹底的にマークせよとだけ命じられる。けれど、FBIの大ベテランで、頑固で偏屈者だが有能なハンセンと次第に気心が知れてくるなか、オニールはこの任務が何の目的なのかと疑問を抱かずにはいられない。そしてついに、ハンセンには重大なスパイ容疑がかけられていることを聞かされるのだ。
 この時から観客もまた、ともに裏と表ふたつの貌[かお]を持つ彼らの行動と、その心理を克明に追うことになる。一方は国家に忠誠を誓うら、国家を裏切り続けてきた売国奴。そしてもう一方は、そんな男の忠実な部下となり、その信頼を得ることで彼を破滅させようとする。……ここで興味深いのは、ハンセンが信頼厚いFBI捜査官であることと国の裏切り者であることが、何の矛盾もなく彼のなかで両立しているらしいことだ。対するオニールは、ハンセンに忠実でありつつ裏切ることに、ある種の逡巡や葛藤を抱えていることが描かれる(ちなみに本作には、実在のオニールが“特別顧問”として参加している。このあたりの心理的な陰影は、たぶん本人自身の体験が反映されているんだろう)。その上でハンセンを欺き、罠にかけようとすることの“危うさ”が、サスペンスを生み出す原動力となっているあたり、なかなか見事な構成だといって良い。観客は、次第に追いつめられていくハンセンがいつオニールの“嘘”に気づくか、その一点においてハラハラしながら見守ることになるからだ。
 だが、そういった心理的な攻防戦以上にこの映画がめざそうとしているのは、あくまでロバート・ハンセンという男の複雑な人間性であったはずだ。それは、監督・脚本を兼任したビリー・レイの、《私は偽装についての物語に惹かれる傾向にある。あるいは、その中間で真っ二つに引き裂かれるキャラクターに惹かれているだけなのかもしれない。彼らは様々な側面を持ち、ある種外側の人生と、非常に異なる内側の人生の両方を生きている。それが物語をさらに面白いものにしているんだ》(以下、引用はすべて作品公式HPより)。さらに、《ハンセンは、祖国に想像を絶するダメージを与えた、驚くべき矛盾を抱えた男だった。(中略)そのような人物をどうしても映画化したいと思った》というコメントからも窺える。《真っ二つに引き裂かれるキャラクター》といい、《驚くべき矛盾を抱えた男》こそ、二重スパイの「本質」に他ならない。というか、そういった《矛盾》を矛盾なく生きる(!)ことが出来る者こそが、真の意味での「二重スパイ」なのだ。本来なら、そのことを描こうとするべきはずだった。
 ……はずだった? そう、映画はこのハンセンという男を、“愛国者を装いつつ売国奴である”ことを平然とこなせる人物であるのか、あるいは“愛国者にして売国奴だった”のか、結局のところあいまいにしたまま幕を閉じるのだ。確かにこの男の、表向きは謹厳実直かつ信仰にも厚い、けれど自分の妻とのセックスをビデオに撮っては投稿しているという倒錯趣味を併せ持つ人物像が、極めて説得力をもって描かれる(もっともその功績は、クリス・クーパーの腹芸たっぷりな快演によるところも多いのだけれど。まったく、いぶし銀とはこの役者のためにあるような表現だ)。しかしそれらは、彼が二重スパイであることに対して、ほとんど何の答えにも、暗示にすらなっていないんである。
 たとえばスパイ小説の大家ジョン・ル・カレによる『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』や『パーフェクト・スパイ』などで、組織の中枢にいながら国を裏切る二重スパイたちは、思想や信念の問題として、あるいは逃れざるのっぴきならない事情から“国を売る”こととなった。ル・カレ作品では、熾烈な諜報戦を通じて、二重スパイの《矛盾》をあくまで人間の「弱さ」や「脆さ」へと帰納させていく。そこから、人間この哀しき存在への諦観が、読者をして圧倒的な感動へと導くんである。
 対して、英文学の巨匠グレアム・グリーンのスパイ小説『ヒューマン・ファクター』に登場する二重スパイは、あたかも「二重スパイ」であることが自分にとっての必然(!)であるかのように、平然と任務をこなし、極秘情報をソ連に流し、同僚を“身代わり山羊”にする。そこには、ル・カレ作品のごとき「人間的」なるものへと帰結するような動機や背景が、まるで存在しない。あったとしても、それは決して事の本質ではないのだ。まさに《矛盾》を矛盾のまま平然と生きること、それもまた「人間の要因[ヒューマン・ファクター]」であることをグリーンの小説は告げる。そして読む者は、その“空虚な深淵”ともいうべきものをのぞき込むことで、畏怖の念に打たれるんである。
《矛盾》ゆえに破滅するか、矛盾のまま受け入れるか。ーーいずれにしろ二重スパイは、「二重」であることによって引き裂かれた存在であり、Aであると同時にAではないという「二重拘束[ダブルバインド]」を、身をもって生きざるを得ない者たちであるだろう。それは《異次元の相矛盾する二つのメッセージを受け取った者が行動不能に追い込まれた状態》(『広辞苑』)であり、常に統合失調症(=精神分裂症)的な危機にある。
 しかし前述の通り、この『アメリカを売った』は、監督自身が「驚くべき矛盾を抱えた男」というハンセンの、その《矛盾》に立ち入ろうとしない。彼が二重スパイであることの「意味」に、ほとんど触れようとしないんである。あたかも、この男が「二重スパイ」であることは端的な事実であり、そこにいかなる理由も不要だといわんばかりに……。そこに不満を持つ向きも、決して少なくはあるまい。これじゃあまるで、ただ大物スパイ逮捕の顛末を再現しただけじゃないかと。
 ただ、そこで言われている《矛盾》が、実のところ「二重スパイ」としてのハンセンに向けられたものではないことを、ぼくはほぼ確信している。……ハンセンは、オニールが何者であるか気づいていた。少なくとも監督のビリー・レイは、明らかにそういう視点から本作を撮った。それはハンセンが、自分と共通する《真っ二つに引き裂かれる》者の姿をオニールに見出したためではないか。その時オニールは、彼にとって精神的・象徴的な意味で「息子(!)」に他ならない。そうしてこの映画は、実在した二重スパイの逮捕劇という以上に、父と子の相克をめぐる一種の「父親殺し」のドラマーーオイディプス劇として、ぼくたちの前に現れるのだ。
 あまりにも穿ち過ぎな見方だろうか? けれども、一見するとシンプルなこの映画には、そんな“深読み”へと誘う多義性があること。それだけは間違いないだろう。もっというなら、たぶん本作の魅力の(ぼくにとっての)魅力の大部分が、その一点にこそあった。……そう、《神話》とは常にこういった「卑小」でドメスティック(!)な次元で語られ、紡がれるものであったのだし、これからもそうであるだろう。そうして、現代における「父親殺し」のドラマを創造するに、なるほどこの「実話」二重スパイ事件ほどうってつけのものはあるまい。
 とにかく、前述の通り驚くべき名演を見せるクリス・クーパーや、オニールを演じたライアン・フィリップ、オニールの上司でハンセン追及の指揮をとるローラ・リニー(いやぁ、何というカッチョよさ! 『フィクサー』のティルダ・スウィントン以上に凄い! 渋い! 最高!)などといった役者の演技、さらに撮影監督タク・フジモトによる見事な画面を眼にするだけでも、じゅうぶん“もと”は取れるはずだから。と、これだけは断言しておこう。

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