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いつかどこかで見た映画 その12 『人生はシネマティック!』(2016年・イギリス)

“Their Finest”
監督:ロネ・シェルフィグ 脚本:ギャビー・チャッペ 出演:ジェマ・アータートン、サム・クラフリン、ビル・ナイ、ジャック・ヒューストン、リチャード・E・グラント、ヘレン・マックロリー、エディ・マーサン、レイチェル・スターリング、ジェレミー・アイアンズ、ポール・リッター

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 映画や舞台におけるその内幕というか“舞台裏[バックステージ]”を描く、いわゆる〈バックステージもの〉と呼ばれる作品は、サイレント映画の時代から数多く作られてきた。古くは喜劇王ハロルド・ロイド主演の『ロイドの活動狂』や、ミュージカル映画の名作『雨に唄えば』、フランソワ・トリュフォー監督による『アメリカの夜』もあれば、ロバート・アルトマン監督がアメリカ映画への“完全復活”をはたした『ザ・プレイヤー』や、最近では「フランス映画」でありながら米アカデミー賞で作品賞を受賞した『アーティスト』等々、それこそ枚挙にいとまがないくらいだ。
 そんな〈バックステージもの〉に共通する展開もしくは“筋[プロット]”といえば、およそこういった感じだろうか。ーー1本の映画やひとつの舞台を制作するために、いろんな人物たちが集まってくる。そしてさまざまなトラブルや人間模様のスッタモンダに見舞われ、それでもなんとか完成に向けて進められてきた撮影や稽古だったが、ついに“もはやこれまで”という事態に直面。いよいよダメかという土壇場のそのとき、ひとつの幸運が、あるいは誰かひとりの情熱やひらめきがきっかけとなって、映画を、舞台を、奇跡のようによみがえらせようとする……。
 おなじく〈バックステージもの〉であるミュージカル映画『バンド・ワゴン』を論じた、アメリカ文学者で映画評論家の畑中佳樹氏の言葉を借りるなら、《これは映画ファンを、いちばん泣かせる話なのだ。だからこれは、何度も何度もリメイクされるべきスタンダード・ストーリーなのであり、フランソワ・トリュフォーの『アメリカの夜』も、森崎東の『ロケーション』も、この同じストーリーを歌いついだ映画であったのだ》(『誰もヒロインの名を知らない』所収「ハイ・ヒールとトゥ・シューズの惑乱」)。
 そう、この〈バックステージもの〉にあってぼくたち観客は、映画や舞台制作にまつわるゴシップ的な興味以上に、はじめはバラバラだった者たちが、いつしかひとつの作品の完成に向けて歩調をあわせ団結していくさまこそが見たい。ときに挫折や絶望にうちひしがれることがあっても、その現場を通じて彼や彼女たちが、作品や仲間への「愛」や「友情」や「夢」にめざめていく姿こそが美しいのである。だからこそ、〈バックステージもの〉は「ハッピーエンド」がふさわしい。
 デンマーク出身で、『17歳の肖像』や『ワン・デイ 23年のラブストーリー』など近年はイギリスを拠点に映画を撮っているロネ・シェルフィグ監督の最新作『人生はシネマティック!』も、とある映画制作の舞台裏をめぐる物語だ。もっともその映画とは、第2次世界大戦下における国民の士気を鼓舞するための「戦意高揚[プロパガンダ]映画」。しかもそれを、ひとりの「女性脚本家」を中心に描こうというものなのである。これはなかなか興味深く、面白い着想ではあるまいか。
 ……連日ドイツの空襲にさらされている、1940年のロンドン。情報省映画局の特別顧問を務める脚本家のトム・バックリー(サム・クラフリン)は、新作の実現にむけてカトリン・コール(ジェマ・アータートン)を「脚本家」としてスカウトする。コピーライターの秘書だったカトリンには、脚本家としての経験はなかった。が、出征した男たちの代わりに書いた彼女の広告原稿に、トムが目をつけたのだ。一方のカトリンにとっても、この申し出はいまの生活を守るためのチャンスだった。スペイン内戦に義勇兵として参加し、負傷した足が不自由な内縁の夫コール(ジャック・ヒューストン)は、空襲監視員を務めながら画家としての成功をあきらめきれないでいる。そんなコールを、カトリンは懸命にささえていたのである。
 さっそく彼女にあたえられた仕事は、イギリス兵たちを救出するため、「ダンケルク戦い」に父親の漁船ナンシー号で駆けつけた双子の姉妹を取材すること。トムは、彼女たちを主人公にした映画を企画していた。しかし、いざ話を聞いてみると、姉妹の船は途中で故障して実際にはダンケルクまで行っていないという。だが、映画局での会議の席上でカトリンはあえて事実を報告せず、「イギリスの国民を鼓舞する“真実”の物語」として『ナンシー号の奇跡』の映画化が決定する。
 こうして「脚本家」としての人生がスタートしたカトリン。空襲の脅威にさらされる日々のなか、彼女は、トムや彼の師匠で共同脚本家パーフィット(ポール・リッター)とともに仕事にはげむ。そして、トムの厳しいダメ出しや、映画局のフィル(レイチェル・スターリング)やロジャー(リチャード・E・グラント)からのたび重なる要求やら無理難題をともにこなしていくなか、カトリンはその才能を次第に発揮していくのだった。
 だが、いざ撮影がはじまってからも現場は困難の連続。双子姉妹の「事実」の発覚はやり過ごせたものの、監督はドキュメンタリー映画しか撮ったことがない。かつて一世を風靡した人気シリーズの主演スターだったアンブローズ・ヒリアード(ビル・ナイ、本作でも実に素晴らしい!)は、主人公姉妹の酔っぱらいの叔父というわき役が気にくわない。さらに陸軍長官(ジェレミー・アイアンズ)からは、いまだ参戦しようとしないアメリカに対して、イギリスの奮闘ぶりを誇示し参戦をうながすため、「勇敢に戦うアメリカ人」を登場させろと要求されてしまう。しかもその役には、イギリス空軍に入隊したアメリカ人飛行士のカール大尉(ジェイク・レイシー)という“ズブの素人”を起用しろというのである。
 次々と巻き起こる問題に振りまわされながら、そのつど機転をきかせて対処していくカトリンとトムたち。カトリンは、アンブローズが演じる役をよりドラマチックにすることで、カールの演技指導を依頼することに成功する。画家としてようやく成功のきっかけをつかんだ夫を気にかけながらも、いつしか彼女にとって「映画」とトムや撮影隊の仲間たちの存在はかけがえのないものになっていた。
 ……ひとりの脚本家として“成長”することが、ひとりの女性としての“自立”につながっていく。まだ女性の社会的地位が低かった時代に、自分の才能にめざめ開花させることで「男性(=社会)」と渡りあっていく主人公の姿は、文句なしに魅力的だ(ちなみに、本作の監督であるシェルフィグはもちろん、原作のリサ・エヴァンスも脚本のギャビー・チャッペも女性である)。しかもそれを、本作はあくまで「ロマンチックコメディ」の文脈において物語ろうとするのである。だが、思えば1930年代から40年代(それは、この映画の時代設定にも通じる)にかけて全盛をきわめた「コメディ映画」こそは、まさにそういった女性の“成長と自立”を謳いあげるものではなかったか。
 この映画のなかで、はじめのうちは距離をおいていたカトリンとトムが、いつしかひとつところの机で向かい合ってタイプライターを叩いている。それは、辛辣なトムのことを煙たがっていたカトリンが、いつしか彼との“心の距離”を縮めたことを物語るものであるだろう。が、その光景はまた、1940年にハワード・ホークスが監督した『ヒズ・ガール・フライデー』におけるケーリー・グラントとロザリンド・ラッセルそのものだ。あの、「ロマンチック」というには“奇天烈[スクリューボール]”すぎるコメディ映画のなかで、グラントとラッセルが扮する離婚したばかりの編集者と記者は、ひとつの事件を解決するためにふたたび「共闘」するハメになる。そのときふたりにとっての“武器”が、デスクに置かれたタイプライターなのである。
 そして『ヒズ・ガール・フライデー』のグラントとラッセルが最後には元のサヤにおさまったように、「ロマンチックコメディ」の“お約束”通り、ここでもカトリンとトムは次第にひかれあっていく。すったもんだがありながらも映画の撮影は進み、ふたりの関係も「ハッピーエンド」を迎えるかのように進んでいくかにみえる(……カトリンの夫コールをめぐるあれこれは、ここではふれないでおこう)。
 しかしこの映画、「ロマンチックコメディ」のはずだのに、決してそんなに“甘くはない”のである、これが。
 ……映画のなかでトムは、「どんな死にも意味などない。人は無意味に死んでいく。しかし映画は、そんな人生を構成することができる。意味をあたえることができるんだ」といったようなことを口にする。だから人々は、こんな死と直面した時代だからこそ映画を見に行くのだ、と。その言葉どおり、この映画は「ロマンチックコメディ」でありながらも多くの「死」を描く。空襲に遭遇して間一髪のところ助かったカトリンが、瓦礫のなかで目撃した女性の死体。アンブローズは、古いつきあいのエージェントで友人のサミー(エディ・サーマン)の変わり果てた姿と遺体安置所で対面する。さらに、空襲のたびに減っていく撮影所のスタッフたち……。それはまさに、「映画」のなかに戦争という「現実」が顔を出す瞬間のようになまなましい。
 そういった「現実」によって、カトリンもまた深刻な事態におちいってしまう。それはもうふたたび立ち直れないかのような、精神的危機だ。しかし、カトリンやトムをはじめ、多くのスタッフや役者たちが戦時下にあっても全力でとりくんできた映画の制作は、“最後までやり遂げなければならない[ショー・マスト・ゴー・オン]”(とは、バックステージものの「合い言葉」だ)のである。そしてカトリンは、ふたたび立ちあがる……
 最初の方でぼくは、〈バックステージもの〉は「ハッピーエンド」がふさわしいと書いた。はたして映画『ナンシー号の奇跡』は完成したのか、カトリンは「ハッピーエンド」をむかえることができたのか? ーーひとつだけ言えるとすれば、この映画はそれこそ「映画」のように素晴らしい、ということだ。そう、この映画は少なくともぼくという観客を見ているあいだ“幸せ”にしてくれたし、きっとあなたという観客にとってもそうであることを信じる。
 ……すべての“女性[カトリン]たち”の人生に幸あれ!

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