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いつかどこかで見た映画 その179 『オレンジ・ランプ』(2023年・日本)

監督:三原光尋 原作・脚本:山国秀幸 脚本:金杉弘子 企画協力:丹野智文 撮影:鈴木周一郎 編集:宮島竜治 出演:貫地谷しほり、和田正人、山田雅人、赤間麻里子、伊嵜充則、平尾菜々花、安山夢子、新井康弘、水木薫、金沢美穂、堀田眞三、赤井英和、中尾ミエ


 認知症をめぐる映画といえば、最近でもアンソニー・ホプキンス主演の『ファーザー』があったし、ブルース・ダーンが認知症のふりをして、施設にいるかつての恋人に接近しようとする『43年後のアイ・ラヴ・ユー』という、不謹慎(?)だが実に心あたたまる作品もあった。邦画に目をむけても、森﨑東監督の遺作となった『ペコロスの母に会いに行く』や、山崎努に蒼井優、竹内結子など豪華キャストが揃った『長いお別れ』、昨年には続編も公開された信友直子監督のドキュメンタリー『ぼけますから、よろしくお願いします。』等々、こちらもなかなかの隆盛ぶり。かつては“難病もの”といえば「白血病」だったが、いまや「認知症」がそれにとってかわる勢いというべきか。
 わが国の内閣府の発表では、2025年には65歳以上の認知症患者数が国内で約700万人に達すると推計されている。つまり、まもなく日本では高齢者の「5人に1人」が認知症になるという。おそらく、そういったもはや他人事ではないという“切実さ”が、映画の世界にも如実に反映されているということなんだろう。
 そうしたなかで、「認知症」に対するわれわれの認識というかイメージも、少しずつ変わってきているかもしれない。かつて高齢の認知症患者は「痴呆」や「ボケ老人」などと言われ、ほとんど“廃人同様”にあつかわれてきた。それゆえ家族は、そういった老人の存在を「恥」として世間から隠そうとし、あくまで“身内の問題”として夫である男たちは、「親の面倒をみるのは嫁の役目」と妻に介護を押しつけてきたのである(……そしてその構図は、今もさほど変わっていないのではあるまいか)。
 たぶんそんな「認知症」をめぐる状況を一変させたのが、ベストセラーとなって社会現象化した有吉佐和子の小説『恍惚の人』であり、森繁久彌と高峰秀子主演で1973年に映画化された同名作品の大ヒットだろう。自分の息子や娘の顔も忘れ、徘徊や奇行を繰りかえす義父と向きあう嫁の姿を中心としたこのホームドラマの秀作は、それまでだれもが“見て見ぬふり”してきた認知症患者の存在と問題を一挙にさらけ出した。いっぽうで、森繁の名演もあって鬼気迫る老人の描写は、「認知症になったら人間としてお終いだ」という印象をひろく決定づけたのだったと思う。
 この、“認知症をわずらえば過去の記憶を忘れて、自分が自分でなくなっていく。やがて周囲のものたちにも迷惑をかける「廃人」になり果てる”というイメージ、さらには、治療法や特効薬がなくせいぜい進行を遅らせるだけという「不治の病い」という事実に、あらためて人びとは不安をいだく。「人間としてお終い」という恐怖は、スーザン・ソンタグの『隠喩としての病い』を援用するなら認知症という病いを実際以上に〈隠喩[メタファー]〉として肥大化し、その結果として現実の認知症患者たちを二重に追いつめ苦しめることになるのだった(……そして、この『恍惚の人』がもたらした“衝撃[インパクト]”から13年後、羽田澄子監督による長編ドキュメンタリー映画『痴呆性老人の世界』とその続編的な『安心して老いるために』が登場して、ようやくわれわれは認知症にたいする「理性的」で前向きな医学的・倫理的視野を与えられることになるのだ)。
 2000年に介護保険制度がはじまり、それまでの“措置”から“奉仕”へと対応への認識もあらためられたとはいえ、それでもまだ認知症に対する「二重化」された不安や恐怖はぼくたちのなかに根強く残り続けている。認知症の家族をささえ介護する当事者は、さぞや大変なんだろうと考えてしまう。ましてや自身が認知症をわずらったとしたら、そのときはおそらく「人間としてお終いだ」と考えるだろう自分がいるのである。
 だからもし、これが「老人」ではなく、まだ働きざかりの壮年期に認知症患者となってしまったら……当事者にとってその絶望は、はかりしれないものがあるにちがいない。たとえば、有川浩の原作を堤幸彦監督が映画化した2005年の『明日の記憶』は、まさにそんな「若年性認知症」をわずらった男の苦悩と葛藤を描くものだった。そこで渡辺謙が演じる大手広告代理店のエリートサラリーマンは、49歳にしてアルツハイマー病と診断されたとき、絶望して病院の屋上から飛び降りようとするのだ。
 あるいはジュリアン・ムーアがアカデミー賞主演女優賞を受賞したアメリカ映画『アリスのままで』も、50歳で認知症となった大学教授は、病気が進行した近い将来の自分にむけて自殺をうながす動画をパソコン内に用意する。どちらの主人公も、仕事や家庭を残したまま「自分が自分でなくなっていく。何もできず、何もわからなっていく」ということへの悲嘆と絶望が“死”を選ばそうとするのである。
 そして、三原光尋監督の映画『オレンジ・ランプ』が描くのも、若年性認知症と診断された男性とその家族だ。しかも、先の2作品の渡辺謙やジュリアン・ムーアの主人公たちよりも、彼はずっと若い“39歳”でアルツハイマー病を発症してしまう。ふたりの娘たちもまだ10代前半だし、介護保険も40歳になってからしか受給できないという。状況的にはいっそう困難かつ絶望的だと思われる立場に、主人公は立たされてしまうのだ。
 けれども映画の冒頭、観客は思いがけない光景を目にする。そこに映しだされるのは、自宅でのテレビ取材でカメラをむけられた夫とその妻の姿。撮影がはじまり、女性インタビュアーはさも深刻そうな面持ちで、夫が認知症となってからこれまでさぞ苦労されただろうと同情する。しかし夫も妻も、「いや、そんなに大変ということもないです」とにこやかに答え、むしろ娘たちの反抗期に手を焼いたと笑うのである。それでもなお、認知症患者とその家族の「悲劇的」な逸話を聞きだそうとするインタビュアーに対して、ただ困ったような笑顔で見つめあう夫と妻。
 そう、ここで描かれる「若年性アルツハイマー病」をわずらった夫とその妻は、決して人生を悲観も絶望もしていない。それどころか、この夫婦は認知症となってなお日常を“謳歌”してきたのである! ──映画はそこから、妻の回想として9年前にさかのぼる。夫の発症からいかにしてこの家族は「危機」を乗り越え、現在にいたったかを、あらためて描きだすのだ。
 カーディラーの優秀な営業マンとして、妻の真央(貫地谷しほり)やふたりの娘とともに充実した日々をおくる只野晃一(和田正人)。だが、さっき洗車したばかりの車をまた洗ったり、顧客の名前や商談の約束を忘れるなど晃一の様子がどうもおかしい。鬱病ではないかと病院を訪れた晃一と真央だったが、検査の結果は「若年性アルツハイマー型認知症」という思いがけないものだった。
 39歳で認知症となった現実に打ちひしがれる晃一と、認知症に関する本を読みあさってできることは何でもしてあげようとする真央。しかし、街で声をかけてきた幼なじみでフットサル仲間の佐山(伊嵜充則)の顔も思いだせず、自宅までの道のりがわからなくなるなど晃一の症状は進行していく。心配する妻に、ときに声を荒げて苛立つ晃一。好きな営業の仕事もままならない晃一は、社長の島崎(赤井英和)に退職届を出す。
 そんなある日、「認知症本人ミーティング」という会合の存在を知った真央は、しぶる晃一に参加をすすめる。そこで出会ったのは、自身も認知症とは思えないほど快活な会の進行役・藤本(赤間麻里子)や、認知症となっても自分で工夫しながら営業の仕事を続けているとにこやかに語る加藤(山田雅人)たちだった。
 晃一もうながされるままに、認知症と告知されてからの心情を吐露する。「自分でできることは自分でしたい」という夫の思いを知った真央に、おたがいの気持ちを伝えあうことの大切さを説く藤本。いっぽう、同じ営業職ということで加藤と意気投合した晃一にも、ひさしぶりに笑顔が戻る。
 さらに、加藤に誘われて海に出かけた晃一と真央は、そこで若い仲間たちにサポートされながらサーフィンを楽しむ老人を目にする。その妻だという飯塚さゆり(中尾ミエ)の、「目をはなすと徘徊して、突然わめき出す夫に絶望していた。しかたなく家に閉じこめたものの、次第に衰弱する夫といっしょにもう死のうと思ったの。けれどサーファーだった夫は、ずっと海を好きだった自分のことを忘れていなかった。認知症になっても、あの人はあの人だった」と語る。「認知症になって、あの人も私も再スタートできたのかもしれない。あきらめない人生のね」とも。その言葉に、晃一は“今の仕事を続けたい”という決意をあらたにする。真央もまたそんな夫を、心から応援するのである……。
 あらためて驚かされるのは、これが実話をもとにしていることだろう。晃一のモデルになった丹野智文氏は、現在も会社で仕事を続けながら、講演や本の出版など認知症の啓発活動にとり組んでいるという。この丹野氏の存在そのものが、「認知症になったら人生はお終い」というわれわれの思い込みに対して、「認知症でもできることはあるし、やりたいこともある」ことを教え、実証してくれているのである。
 実際この映画には、「できることは自分でする、困ったときだけ助けてもらう」という“認知症とともに生きる”ことへの気づきやヒントが満ち満ちている。自宅で、職場で、街のバス停で、認知症当事者はときにどんな状況に見舞われるか。それに対してどう対処し、また周囲のものたちはどう応えるべきかを、ひとつの日常風景としていきいきと描きだすのである(……そしてそういった地域社会の人間的な共同体[コミュニティー]を見つめていく“温もり”ある眼差しこそ、三原光尋監督の作品ならではの味わい深さであるだろう)。
 そのうえで、本作を単なる“認知症啓発映画”に終わらせていないと思えるのは、これがある夫婦の“成長物語”であり普遍的な人間讃歌たり得ているからに違いない。──映画のなかで、タイトルにある「オレンジ・ランプ」が二回登場する。一回目は、自宅までの帰り道がわからなくなった晃一を探しまわる真央が手にして、二回目は、またも夫が家からいなくなったと思い込んで街へ飛びだした真央を、実は家にいた晃一が探しにきたとき、今度は彼が手にしているというもの。
 どちらも同じ夜の公園で繰りかえされる、ふたつの場面。一回目のときは妻の真央がランプを照らして「パパ」と夫にやさしく呼びかけ、夫も「ママ」と泣きじゃくりながら応える(……そもそもこの映画のなかで、ふたりはずっと「パパ」「ママ」と呼びあっているのだった)。しかし二回目、今度は晃一がランプを照らして妻に呼びかけるのだが、そのとき彼ははじめて「真央」と名前で呼ぶのだ。
 この二回目の場面で、ぼくという観客は感動する。それは認知症をわずらうことが「人間としてお終い」であるどころか、逆に「人間として成長させる」ものでもあることを教えてくれる瞬間[シーン]だったからだ。そのときこの映画は、彼ら夫婦の美しい「人間ドラマ」として“結実”したのである。

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