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いつかどこかで見た映画 その48 『乱暴と待機』(2010年・日本)

監督・脚本:冨永昌敬 原作:本谷有希子 音楽:大谷能生 出演:浅野忠信、美波、小池栄子、山田孝之

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 映画を見る時、ぼくたち観客は登場人物の誰かに多かれ少なかれ感情移入するものだ。だからこそ、ヒロインが難病で死んだりすると主人公といっしょになって涙を流し、数々の苦難を乗りきったヒーローとともに快哉を叫んだりする。あるいは『13日の金曜日』シリーズみたく、残忍な殺人鬼が頭の悪そうなティーンエイジャーを次々と血祭りにあげるような類の作品であっても、「あんなアホども、どんどんブチ殺しちまえ!」とジェイソンに“肩入れ(!)”し(というアブナイ見方こそ、この手の映画を楽しむための“ただしい”鑑賞法なのにちがいない!)、恐怖におびえるヒロインがついに必死の反撃にでると、今度は彼女と“一体[シンクロ]”してしまって手に汗をにぎることになるんである。
 また、時には、映画の作り手に感情移入することだってあるだろう。『気狂いピエロ』を見ながら、当時のゴダールがどんな心情で離婚直後のアンナ・カリーナをヒロインに起用し、“マリアンヌ・ルノワール”という蠱惑的で絶望的な「運命の女[ファム・ファタール]」演じさせたのだろうという、ほとんどメロドラマ的感情(というか、感傷)をおぼえることも、あの作品がかくも愛され観客を魅了し続ける要素のひとつではあるまいか。
 主人公や登場人物に感情移入し同化することで、観客は「物語」に没入し、カタルシスを得る。たぶん、映画を見ることの“愉しみ”の大きな部分がここにある(……その一方で、そんな「物語」にのめり込む見方を拒絶し、ひたすら映像を「記号」として分析的に見るといった向きもあるだろう。けれど、学者センセイや批評家でもないわれわれには、映画を見て、思う存分笑ったり泣いたりする“権利”があるのだ)。
 もちろん、なかには「物語」そのものがほとんど無効というか、無力化された映画も存在するし(……たとえば1970年代以降のゴダール作品や、鈴木清順監督の『オペレッタ狸御殿』等々……)、観客の感情移入を逆なでするような“悪意”に満ちたミヒャエル・ハネケ監督の映画なんかも、ある。ぼくたちだって、何もそういった監督たちの作品にはじめから物語的なカタルシスを求めようとはしないだろう(……そういう場違いというか“不幸な観客”は、途方に暮れるか、怒って席を立つか、居眠りするかしかない)。
 ゴダールや鈴木清順の映画を見ることは、ごく大雑把にいってしまえば「映画とは何か」という問いに直面させられる〈体験〉としてあるのだと、ぼくは思っている。こんな映画もあるのか、これも映画なのか、何が映画なのか……という「問い」そのものの現前としての映画。それもまた、一部の“信者[カルト]”めいた観客や研究者などに独占させておくのはもったいないスリリングで充実したものであるんだけれど、とりあえずここでは措いておく。とにかく、感情移入できればできるほど、ぼくたちはその映画のことが“好き”になる。逆に、誰にも、どこにも感情移入できない映画は、もはや見続けることすら苦痛であるだろう。
 しかし、本谷有希子の原作を冨永昌敬監督が映画化した『乱暴と待機』の場合、どうも事情がちがう。主な登場人物が4人だけのこの映画、そのいずれもがはっきりいって“ヘン”ーーというか、およそ感情移入の余地がないキャラクターばかり。だのに、一度見たら最後、これがもう眼が離せない。そして奇妙なことに、感情移入できないまま彼ら(と、この映画)のことが“好き”になってしまうのだ。
 ……映画に登場する4人のうち、中心的存在となるのが奈々瀬(美波)。彼女はいつもグレーの地味なスウェット姿で眼鏡をかけ、おどおどと他人の顔色をうかがいながら嫌われないように気を遣ってばかりいる。彼女は「お兄ちゃん」と呼ぶ男・英則(浅野忠信)と同居しているが、血のつながりはない。英則は、自分でも思い出せない理由から奈々瀬に復讐しようと彼女を家に連れ帰り、以来ふたりは「兄妹」として、奇妙な同棲生活をおくっていた。
 そんな彼らが暮らす郊外の木造平屋建ての長屋に、失職中の夫・番上(山田孝之)と、妊娠中でスナック勤めの妻・あずさ(三池栄子)が引っ越してくる。偶然にも奈々瀬とあずさは高校時代の同級生で、あずさは奈々瀬に何か深い恨みを抱いているらしい。一方、夫の番上は奈々瀬になぜか興味をもち、彼女に言い寄ろうとする。
 ……他人に嫌われることを極端に恐れ、それゆえ嫌みなくらいへりくだる奈々瀬(「面倒くさい女」という公式HPにあった表現は、まさに言い得て妙だ)。家に帰ると黙々とカセットテープの編集に没頭し、マラソンに行くと外出するふりをして、実は家の屋根裏から奈々瀬のことを覗き見している英則(……片足が悪いという設定は、どうやら彼が「不能[インポテンツ]」であることのメタファーだろうか?)。奈々瀬への憎悪と嫌悪に凝り固まり(いったい、ふたりのあいだに何があったんだ……)、暴力的に奈々瀬と英則に干渉するあずさ。妻にバレているのにも気づかず、こそこそと奈々瀬を誘惑することにご執心な番上……。
 いやはや、見事なくらい“ウザい・キモい・コワい・セコい”顔ぶれじゃないか。それが戯画化[カリカチュア]されてギャグっぽく笑えるならまだしも(いや、確かに笑えるんだが)、映画は、このほとんどアブノーマルな4人を“等身大[ノーマル]”な存在としてーーつまり、喜劇的なり悲劇的なりといった何らデフォルメのない「フツーの人々(!)」を見つめる眼差しで描いている。それゆえ、彼らのその“ヘン”さに対して、共感や同情はもちろん反感や嫌悪すら持ち得ないまま、ぼくたち観客は宙ぶらりんの状態で見守り続けることになるのである。
 けれど先にも書いた通り、それがちっとも苦痛でも退屈でもない。彼ら4人は、それぞれ人間のネガティブな面ばかりを、とことん露悪的に体現した存在だろう。が、それをごく「普通[ノーマル]」なものとしてフラットに見つめる眼差しは、まるで地球人を「観察」する宇宙から来たエイリアンのそれだ。そこにあるのは感情移入などじゃなく、ただ純粋な“好奇心”に他ならない。そのエイリアンの視点を通して、ぼくたち観客もまた、彼らの「非日常的な日常」をワクワクするような好奇心とともに観察し続けることになるのだーーそもそも、奈々瀬と英則はなぜいっしょに暮らし続けているんだろう? と。
 原作の本谷有希子といえば、先に映画化された『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』があった。あそこでも、兄と姉妹の異様なまでにテンションの高い愛憎劇が繰りひろげられ、しかしそれが何とも晴れやかな笑いと「解放感」の大団円をむかえるという離れ業で唸らされたものだ。(……もちろん、そんな濃度満点な劇[ドラマ]を、往年の名作ギャグ・アニメ『トムとジェリー』を彷彿させる“ネコとネズミの終わらない闘争劇”という寓意性によって押しきった吉田大八監督の豪気と才気も、おおいに賞賛されなければならないだろう)。
 今回も奈々瀬と英則の、それを「異形の愛」といってしまうにはあまりにグロテスクで馬鹿馬鹿しい関係(……英則は「この世で最も惨い復讐方法」を考え続け、 奈々瀬はその「復讐」を受ける日を待ち続けている。けれどそれは、ふたりにとっていっしょにいることの唯一のりゆうというか“根拠”であり、愛よりも絶対的な「きずな」なのである)を、この劇[ドラマ]は最終的に“肯定”する。そして驚くべきことに、ぼくたち観客もそのことに安堵しハッピー(!)な心もちになっている。ーー共感とかじゃなく、これもまた「ピュア」な男女のあり方として納得(……説得?)させられるんである。そのうえでなお残る「劇」的な過剰性というか、良くも悪くも(いや、この場合“悪くも悪くも”か)濃ゆい人物たちの関係性の「重さ」を、フラットな観察者の視点で軽やかに「無重力化」し浮遊させてみせた冨永昌敬監督。ーーこの男は、本当に「エイリアン」なのではあるまいか……。
 冨永監督は、太宰治の小説を映画化した前作『パンドラの匣』でも、原作に極めて忠実ながら文芸映画ならぬまったく新しい「文芸/映画」を構築してみせたものだ。それは、全編アフレコ(台詞や音を撮影後に入れる手法)による映像と音の微妙なタイミングや、現代的な顔立ちをした役者たちが口にする古風な台詞や、奇妙に褪色した画面の質感といった、さり気なくも周到に計算された「ずれ」を導入することによる真に〈前衛的〉なものだった。肝心なのは、しかもなおそれが実に「面白い映画」だったことだ。
 この『乱暴と待機』においても、とことんネガティブな人物たちによって、いかにポジティブな映画をつくり得るかという課題に、冨永監督は易々と応えているかにみえる。原作の世界観を遵守しながらも、そこに支配する「重力」から解き放たれた「軽さ」を実現すること。その「重くて軽い」感覚こそ、本作の最も魅力的なポイントにちがいない(……つくづく、本谷有希子の原作は監督に恵まれていると思う)。
 最後になったけれど、4人の登場人物を演じる役者たちのハマリっぷりもまた凄い。とにかく、「凄い!」としかいいようのないほど、“ウザい・キモい・コワい・セコい”それぞれの役をドンピシャリにこなしている。特に奈々瀬を演じる美波には、ほとんど眼が釘付け状態。ーーはじめにぼくは、この映画のキャラクターにはまったく感情移入できないと書いた。でも、奈々瀬というキャラを演じる美波は、英則や番上ならずとも“萌え”る。それだけは、きっと男性諸氏なら「共感」してくれることでありましょう。

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