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いつかどこかで見た映画 その184 『博士の愛した数式』(2006年・日本)

監督・脚本:小泉堯史 原作:小川洋子 撮影:上田正治、北澤弘之 音楽:加古隆 出演:寺尾聰、深津絵里、吉岡秀隆、浅丘ルリ子、齋藤隆成、井川比佐志、頭師佳孝、茅島成美、観世銕之丞


(この文章は、2006年1月に書かれたものです。)

 小泉堯史の映画は、美しい。そしてその「美しさ」は、これまでぼくたちが見てきた映画のなかでも、ほとんど“稀有”なものだと思う。
 それは何かを声高に主張したり、訴えようとしない。自分の「美しさ」を誇ったり表現しようとすらしない。他の映画や監督たちが競って自己の(というか、「自意識」を肥大化させただけの)「内面」だの、社会と個人の「関係」やら「危機」などといった〈主題〉によって何かを表現しようとしたり、あるいは単に“泣かせよう・笑わせよう・手に汗にぎらせよう”というその場限りの「娯楽」に終始するご時世にあって(……もちろん、観客が期待するそういった「娯楽」を提供することも映画の大切な“義務”だとは認めつつ)、小泉監督の映画は、そういった〈場所〉から一歩引いたところで静かにたたずんでいる。しかもそれは、「孤高」などという超然とした面持ちやら“とっつきにくさ”を決して感じさせることはない。
 そういう、時代とも、社会や映画をとりまく「情況」やらとも迎合しないものの漂わせる、端然としたたたずまいとにじみ出る含羞といったもの──そう、かつて清岡卓行が吉野弘の詩を評した次のような「優しさ」こそが、小泉堯史の映画の最大の美質であり、魅力であるだろう。
《戦後の詩人たちの中でおそらく最も優しい人格。自分にきびしく、他人に寛大な、どこまでも静かに澄みわたってひろがろうとする批評。生命へのほのぼのとした向日的な温かさ。そして、けばけばしく過度な表現をいとう、つつましい美しさの趣味》(『抒情の前線・戦後詩十人の本質』より)
 ここで「詩人」とあるのを「映画監督」に代えたなら、それは何よりも小泉堯史監督(と、その映画)への評価そのものだ。というか、これ以上つけ加えることなどないとすら言っていい。実際、監督第1作である『雨あがる』からすでにその作品は、「優しい人格」につらぬかれ、「どこまでも静かに澄みわたってひろがろうとする」穏やかさに満ちあふれていた。さらには「生命へのほのぼのとした向日的な温かさ」という姿勢[スタンス]のなか、「けばけばしく過度な表現をいとう、つつましい美しさの趣味」において見事に“完成”されていたのだった。
 そしてそれは、長く黒澤明の助監督をつとめ、その師の遺稿シナリオを映画化したものであるという経緯を知るとき、やはり意外な思いにとらわれるのではあるまいか。というのも『雨あがる』にあるのは、黒澤作品の特権的な“存在=表象[トレードマーク]”だったあの荒々しい「疾風」とはおよそ対照的な、そよそよと葉茂みを揺らす「そよ風」であったからだ。
 全編にわたってフィルムの表面(おもて)を「そよ風」が吹きわたり、この、無類の剣術の達人でありながら優しすぎるがゆえにかえって周囲の理解を得られない浪人と、主人公の唯一の理解者である妻の心の機微を、軽やかに、つつましく、だがくっきりと際だたせていく。それは、“世界のクロサワの愛弟子”というのではない、あくまで「小泉堯史」というひとりの、たぐいまれな映画の担い手の誕生を告げるものとしてあったのである。
(……そして、ここでもぼくは吉野弘と、その『夕焼け』という詩の一節を思いだす。

やさしい心の持主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる
何故って
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから

──この、満員電車内で老人に席を2回ゆずり、3回目にはとうとうゆずれないままうつむく娘をうたった詩で、「やさしい心の持主」とはだれだろう? もちろんそれは「娘」のことには違いないのだけれど、「やさしい心の持主は/他人のつらさを自分のつらさのように/感じるから」というとき、「感じ」ているのはこの娘を見守る詩人そのひとに他ならないだろう。
「受難者」とは、他人の“痛み”を自分のものとしてしまうもののことだ。そして『雨あがる』もまた、そういう「やさしい心の持主」である主人公を見つめる、映画の、つまりは作り手である小泉堯史のまざなしの「やさしさ」こそが魅力のほとんどすべてだ、とすら言ってしまいたい。観客であるぼくたちは、主人公とその妻の「夫婦愛」に感動するのではなく、ただただ主人公たちの「やさしさ」を見つめるこの映画の「やさしさ」に胸をうたれるのだ……)
 続く監督第2作『阿弥陀堂だより』でも、そんな小泉作品らしさは何ひとつ変わるところがない。ある夫婦をめぐっての「再生のドラマ」も、その「優しい人格」ゆえにこそ、美しい、あまりにも美しい映画たり得ていたのだった。くり返すが、それは決して自己を主張したりなにかを“表現”したつもりになることのない、あくまでつつましやかなスタンスにおいてより際だつといった「美しさ」なのである。
 パニック障害におちいった妻や、失語症の女性などといった“心の病い”を扱いながらも、そこにあるのは寺尾聰の主人公が町内公報「阿弥陀堂だより」を配り歩くときに住民たちとかわす挨拶のような、おだやかな「空気」だけだ。そしてやはり画面には、静かに、ただ「そよ風」が吹いている。
 さて、これまで山本周五郎、南木佳士といった作家の、それもとりわけ“地味”な小説を映画化してきた小泉監督だけれど、その最新作もまた純文学作家・小川洋子の原作によるもの。この、知的でいかにも“体温の低い”作風の著者にしては幅広い人気を得たベストセラー小説とはいえ、『博士の愛した数式』というタイトルどおり、「数学」をモチーフにしたこれもまた“地味”なものだ。
 主な登場人物は、自動車事故の後遺症で80分しか記憶が保てない初老の数学者である博士(寺尾聰)と、彼の世話をするシングルマザーの若い家政婦(深津絵里)、そして博士から“ルート”とあだ名さされた彼女の10歳になる息子(齋藤隆成)。そこに博士の義姉である未亡人(浅丘ルリ子)も数少ない“波瀾[ドラマ]”の要素としてからんでくるとはいえ、原作小説も映画も、おおよそのところは博士と家政婦の母子の3人がおりなす、奇妙な、けれどほのぼのとした日常を淡々と描いていく。
 もっとも、小説のほうが家政婦によって“観察”された「博士の肖像」と、自分たち母子と博士の日常の「記録」といった叙述[スタイル]であるのに対し、映画は、成人して高校の数学教師になったルート(吉岡秀隆)が、1学期の最初の授業で語る博士の「思い出話」というかたちをとっている(……ただ、小説でもその終わり近くに、ルートが大学で数学を専攻するといったくだりがある。つまり映画は、彼が大学を卒業して教職に就いたところからはじまる“小説の後日談”を描いたもの、と言えるかもしれない)。
 事故前のこと以外は、正確に80分しか記憶が続かない博士(……それゆえ博士は、一張羅の背広のいたるところに必要なことがらを紙に書いて安全ピンで留めている──あの、身体じゅうに記憶すべきことを刺青(いれずみ)として残したクリストファー・ノーラン監督の『メメント』の主人公さながらに、あるいは、家じゅうにメモ紙を貼りつけた寺山修司の『さらば箱船』の山崎努のように!)と家政婦は、だから毎日が“初対面”として接する。博士はまず家政婦に、「きみの靴のサイズはいくつかね」と訊き、家政婦は「24です」と答える。すると博士は、「ほぉ、実にいさぎよい数字だ。4の階乗だ」と応じる。ふたりはこのやりとりを、毎朝くり返すのである。
 それ以外にも博士は、ことあるごとに「素数」だの「友愛数」だの「オイラーの公式」だのと、数式によってコミュケーションをはかろうとする。それは、数字を媒介としなければ他人と接することのできない、博士にとって唯一の“処世術”に他ならない。しかし家政婦とルートの母子は、そんな博士が語る数式の「美しさ」に魅了されていく。と同時に、数字そのものように純粋な博士の存在が、この母子にとってかけがえのないものになっていくのである。
 もちろんそこに、「恋愛」めいた感情は微塵もないだろう。若い家政婦もルートも、あくまで数字の、数式の「美しさ」に魅せられたのであり、そんな母子にとって博士とは、実のところ〈数式〉の美そのものなのだから。……ある日、家政婦の誕生日が2月20日だと聞いた博士は、学生時代に書いた論文でもらった学長賞の記念の腕時計に刻まれた「No.284」という数字を見せながら、「友愛数」について説明する。
 220の約数1、2、5、10、11、20、22、44、55、110と、284の約数1、2、71、142を紙に書き、「見てごらん、この素晴らしいひと続きの数字の連なりを。284の約数の和は220、220の約数の和は284。友愛数だ。滅多に存在しない組み合わせだよ。神の計らいを受けたきずなで結ばれた数字なんだ。美しいと思わないかい? きみの誕生日と、ぼくの手首に刻まれた数字が、これほど見事なチェーンでつながりあっているなんて」。
 そのとき、家政婦がそれを「美しい」と感じたように、観客であるぼくたちもまた、その「友愛数」の不思議さと美にうたれる。そうして気づかされるのだ、小説も、この映画も、ただただそういった「美しさ」に捧げられたものであることに。数式が純粋な、あるいは絶対的な〈美〉そのものなら、博士もまたどこまでも純粋で、「美しい」。義姉との秘めた過去(……とはいえ、博士にとってそれは常に「現在」なのだが)を持ちながら、しかし数式をとおして博士とふれあう家政婦とルートにとっての彼は、『阿弥陀堂だより』の北林谷栄が演じたあの老婆のように、もはや「妖精」的存在に他ならないのだ。
 ……と、実のところここまでぼくは、映画と小説をほとんど区別することなくこの『博士の愛した数式』について書いてきた。なるほど、小泉堯史監督自らによるシナリオは、前述のように語り手を家政婦から成人した息子のルートに変更した。が、それ以外は原作小説にきわめて“忠実”だ。そして演出もまた、映像的に何かを創造し「表現」しようというより、あくまでも小川洋子の小説世界を丁寧に映しだそうとしているかのようだ(……《小川さんの「書き言葉」は、いま、スクリーンに「話し言葉」として、映像、音楽と共に甦ります》とは、監督自身のコメントだ。まったく、何という“謙虚”な口調[トーン]だろう)。
 けれども小説が、家政婦を通して、彼女によるどこか「観察者」めいた“冷静さ”(まさに「小川洋子」的なまなざし!)によって博士の、そして数式の純粋な〈美〉を描くものであるのに対し、『雨あがる』や『阿弥陀堂だより』がそうだったように、小泉監督の映画は、ここでも登場人物たちの“優しさ”こそを見つめる映画の「優しさ」によってつらぬかれている。──生徒たちにむかって博士の思い出話を語る成人したルートが、そこで「素数」や「完全数」などについて説明する。そのとき、これら数式の何と“ぬくもり”を感じさせることだろう! ……原作者の小川洋子が、映画のなかのある場面にふれて、《その時彼ら(博士と家政婦の母子)の間に流れる暖かい絆について、私は語るべき言葉を持たない》とのべるとき、それは決して社交辞令ではあるまい。この映画は数式の「美しさ」を語り、と同時に“ぬくもり”に満ちた人間の「美しさ」をも語ってみせた。そのことに、小説の作者は素直に感嘆しているのである。
 ……映画の創生期における巨人D・W・グリフィス監督は、その映画がトーキー時代をむかえた頃にこんなことを言ったという。「今の映画に欠けているのは、木立を渡る風だ」と。──そう、もはや映画は「風」を、そして同じように“眼に見えない”「愛」や「優しさ」をスクリーンに映しだす〈奇跡〉の力を失ってしまった。そこにあるのは、単に〈物語〉を展開するための手段というか“道具”としての「愛」や「優しさ」でしかない。
 けれど小泉堯史監督の映画からは、この『博士の愛した数式』にしても確かにそういった「木立を渡る風」が“見えてくる”。……そして今、そのような映画を見ることができることはなんと幸福なことだろう。

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