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いつかどこかで見た映画 その192 『ぼくは君たちを憎まないことにした』(2022年・ドイツ=フランス=ベルギー)

“Vous n'aurez pas ma haine”
監督・脚本:キリアン・リートホーフ 脚本:ヤン・ブレーラン、マルク・ブルーバウム、ステファニー・カルフォン 原作:アントワーヌ・レリス 撮影:マニュエル・ダコッセ 出演:ピエール・ドゥラドンシャン、カメリア・ジョルダナ、ゾーイ・イオリオ、トマ・ミュスタン、クリスタル・コルニル、アン・アズレイ、ファリダ・ラウアジ、ヤニック・ショワラ


 2022年2月にロシアがウクライナに軍事侵攻を開始して、両国のあいだで現在もなお戦闘が続いている。と思ったら、今年(2023年)の10月にはパレスチナ・ガザ地区を拠点とする武装組織ハマスがイスラエルを襲撃。その報復としてイスラエル軍は空爆や地上戦でガザを攻撃し、これまでに民間人を含む9千人以上の人々(その7割は女性と子供だという……)を殺害したという。これを書いている現在も攻撃は継続中で、当初はイスラエルに同情的だった欧米でもその度が過ぎた軍事行動を即刻中止する声が高まっている。
 思えば、2001年のアメリカの同時多発テロによって幕が開いた(というか、むしろ「地獄の釜の蓋が開いた」と言うべきか)この21世紀は、つねに世界のどこかで紛争や衝突が繰りひろげられてきた。さらには国際的過激派組織による一般市民の無差別殺傷をねらったテロ行為が、各国の都市で繰りひろげられてもきた。新型コロナウイルスによる世界的な感染爆発[パンデミック]にしても、人類に対する自然界からの“報復テロ(!)”だとするなら、われわれはまさに「戦争とテロの時代」を生きているのだと言えるだろう。
 幸いにというか、いまのところ日本はテロのリスクが低いといわれている。中国と台湾をめぐる情勢や北朝鮮の動向、憲法改正など政治の右傾化への動きは気がかりだが、それでも「戦争」を意識することもない。テレビのニュース報道やネットの映像などでウクライナやパレスチナの惨状を目にして、胸をいためることがあっても、円安による物価の高騰や相次ぐ増税のほうが深刻かつ切実なモンダイだと思っている(……岸田政権、責任をとれ!)。
 しかし世界では、ほかでも各地で戦争やテロによる恐怖と憎悪がうずまいている。また、欧米では移民や難民に対する排斥運動が活発化したりと、憎しみが憎しみを呼び、暴力があらたな暴力を生むといった「負の連鎖」が、ここにきてさらに加速していることを感じざるをえない。こうした国際情勢の不安定化に、日本だけが無関係ですまされるはずがないだろう。
 とはいえ、じゃあどうすればいいのか。いったいぼくたちに何ができるのか、巨大な“暴力”を前にしたとき、われわれ「個人」などただ無力で、ほとんどなすすべもないんじゃないか……。
 だが、テロにより最愛の妻を亡くしたフランス人ジャーナリストの実話にもとづく映画『ぼくは君たちを憎まないことにした』は、逆に“そういった「負の連鎖」を断ち切ることは、われわれ「個人」だからこそなし得るのかもしれない”という。突然見舞われた妻の死に、悲嘆と苦悩、絶望のどん底に叩き込まれながら、それでも彼は彼女を殺した犯人たちを「憎まない」ことを選択する。その“決意”を表明したSNSへの投稿[メッセージ]が大きな反響を呼び、ひとりの男による「負の連鎖」に陥らないテロとの戦い方は、世界中の人々に勇気と希望をあたえることになったのだ。
 ……2015年11月13日のパリ。アパルトマンの一室でアントワーヌ(ピエール・ドゥラドンシャン)と妻のエレーヌ(カメリア・ジョルダナ)、まだ2歳にもみたない息子メルヴィル(ゾーエ・イオリオ)が朝をむかえる。あわただしい時間のなか、予定していたコルシカ島への家族旅行よりも仕事を優先したエレーヌに、不満を口にするアントワーヌ。そんな夫を笑顔で軽くいなし、だだをこねるメルヴィルのご機嫌をとったエレーヌは、さっそうと仕事に出かける。
 ジャーナリストで小説家志望の夫と、まだ幼い長男の面倒をみながら外で働いているしっかり者で美しいエレーヌ。「もう小説を書くのをやめようかな」と弱音をはくアントワーヌに微笑みながら、「そうね。でも、第3章までは素晴らしかったわよ」と言ってくれる。アントワーヌにとってこのかけがえのない妻が、しかし突然、二度と帰らぬ人となってなってしまうのである……。
 その日の夜、パリを襲った大規模なテロ。それはサッカースタジアム、人気レストラン、コンサート会場などを同時にねらった過激派組織“IS(イスラム国)”の犯行で、死者130名、負傷者300名以上という大惨事となった。そしてエレーヌは、夫とも旧知の友人ブリュノ(ヤニック・ショワラ)といっしょに、89名の犠牲者をだしたコンサート会場に行っていたのだ。
 安否を気づかう兄や義姉からの連絡で事件を知ったアントワーヌは、あわてて妻のスマホに電話する。しかし何度かけてもエレーヌは出ない。ようやくつながったブリュノの電話も、エレーヌのことが聞けないまま切れてしまう。心配して駆けつけた兄と自動車でパリじゅうの病院を訪ねまわるが、エレーヌの消息はわからない。夜が明けて、自宅に戻るアントワーヌ。こんなときでもメルヴィルの朝食をつくらなければならないのだ。何も知らない息子のために、アントワーヌはつとめて平成をよそおう。
 結局アントワーヌがエレーヌに会えたのは、事件から3日目のことだった。遺体安置所のガラス越しに対面した、眠っているように横たわるエレーヌ。その横顔に涙しながらもどこか“安堵”するアントワーヌは(……この、悲しみのなかにも“ようやく会えた”という思いと“妻は美しいままだった”ことへの安心感という複雑な感情を、アントワーヌ役のピエール・ドゥラドンシャンは見事に表現している)、その夜、パソコンを開いてSNSにテロリストたちへの“手紙”を書きはじめるのだ、「ぼくは君たちを憎まないことにした」と。
 ーー君たちはぼくにとってかけがえのない人の命を奪った。しかし君たちに憎しみという“贈りもの”をおくることはない。君たちは、ぼくが恐怖におののき、隣人たちを疑い、おびえて暮らすことを望んでいる。だが君たちの負けだ、ぼくは変わらない。もちろんぼくは悲しみに打ちのめされている。君たちの小さな勝利は認めよう。でもそれは長くは続かない。ぼくと息子は2人きりになったが、でも世界じゅうの軍隊よりも強い。そしてこれ以上、君たちに割く時間はない。この幼い息子が幸せで自由な人生をおくることが、君たちを辱めるだろう……。
 誰に宛ててのものではなく、たぶん自分自身にむけて書いた“手紙”。しかしその文面はたちまち20万人以上に共有[シェア]され、新聞の一面やテレビのニュース番組にも取りあげられることになる。アントワーヌの「憎しみに憎しみを贈らない」という表明は、テロへの恐怖と憎悪にかられた人々の心に希望を灯し、暴力に屈することなく平和で幸せに生きることこそテロに打ち克つ“戦い方”であると諭すことになったのである。
 ……さっき笑顔で見送った妻が、理不尽な暴力によって突然失われることの絶望と悲嘆。その事実と向きあいながら、なおアントワーヌは愛するものの命を奪った相手に「憎まない」と言う。
 だがそれは、人々がそう受けとめたように彼の強さや気高い人間性といったものによる宣言では決してなかったことが、やがてわかってくるだろう。というかこの映画は、そこからアントワーヌが「妻の死」という過酷な現実から逃れたくても逃れようもなくのたうちまわり、さらには彼をとりまく周囲の人間関係や社会に翻弄され疲れはてる姿をみつめていく。それでも彼が、何とかその深い「喪失感」を受け入れようとするまでの“記録[ドキュメント]”としてあるのだ。
 そう、最愛の妻エレーヌの「顔」を見ていったんはその死を受け入れたつもりだったアントワーヌだったが、家のいたるところに残る彼女の痕跡や“面影”にむせび泣く。当夜の妻に関する話を聞かされるのが恐ろしくて、助かった友人ブリュノからの電話に出ることができない。街に出たら、アラブ系の男たちに思わず敵意ある目をむけてしまう。息子メルヴィルの保育園では、他の母親たちの彼ら父子への同情と“おせっかい”に辟易させられる。メディアの取材を受ける彼にたいして義姉たちがむける非難めいたまなざしに、それは自分がエレーヌのことを忘れたくないからだという思いをわかってもらえない。そして何よりも、まだ母親の死と向きあえる歳ではない息子が、ことあるごとに“不在”の母親を求めることが悲しく、ときに耐えがたくなってしまう……。
 そういったアントワーヌの文字どおり一挙手一投足を、映画は克明に追っていく。手持ちカメラによるその映像がとらえ続けるのは、決して崇高な精神と意志のあり方を説く「悲劇」の英雄[ヒーロー]像ではなく、妻の死という現実を受け入れようと懸命にもがき苦しむひとりの男の姿だ。というか、事件は確かに悲劇的だが、ぼくやあなたが同じ立場に直面したならきっと同じような“醜態”をさらしただろう「普通の男」による、むしろ「非=劇的」な“喪の仕事”が描かれるばかりなのである。
 それでも、いや、そうだからこそ彼が発信した「ぼくは君たちを憎まないことにした」というメッセージは、多くの人々の心にとどくものになった。「憎まない」とは“赦す”のではなく、ただしく“断念”することだ。そしてぼくたち、はそこから再出発するしかないのだーーと。
 キリスト教的(?)な人類愛に燃えた気高い“信念”を説くのでもなく、政治的な思惑を込めた社会思想[イデオロギー]でもない、ひとりの、どこにでもいるような男がただ自分自身にむけた「祈り」のようなつぶやき。しかしそれが、“眼には眼を”という「負の連鎖」の応酬にに疲れはてた人々を深く鼓舞し“慰撫”することになったのだ。
 もちろんそれが、「インターネット社会」ゆえに実現した今日的な“現象”にはちがいないだろう。が、そういった「社会学」視点やテロリズムへの批判的考察に、この映画は深く立ち入ることがない。《妻を殺害された男性の絶望と、息子への愛を描く作品なので、事件の緊張感や情況をリアルに再現して注目を集めることは避けた。もしそんなことをしたら、犠牲者やその家族をまた傷つけてしまうから》とは、監督であるキリアン・リートホーフ自身の言葉だ。が、それは「現実」を直視することから“逃げている”ことではあるまいか……。
 それでもぼくは、この映画が現代を生きるわれわれに“時代と向きあう”ことの大切さを教えてくれるものだと、信じて疑わない。そして映画の最後ちかく、アントワーヌたちが家族で旅行するはずだったコルシカ島の海辺で楽しそうに遊ぶ父と子の映像に、感動しつつあらためて思うのだ──幸せになることが最高の「復讐」なのだ、と。

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