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いつかどこかで見た映画 その134 『あなたの顔』(2018・台湾)

“你的臉(英題:Your Face)”

監督:ツァイ・ミンリャン(蔡明亮) 製作総指揮:ツァイ・ミンリャン(蔡明亮)、ジェシー・シー(施悦文) 製作:クロード・ワン(王雲霖) 音楽:坂本龍一 撮影:イアン・クー(古桓誼) 編集:チャン・チョンユェン(張鍾元) 出演:出演:リー・カンション(李康生)、台北の人々

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 あなたはこれまでに、誰かの「顔」をひたすら“凝視”し続けたことがあるだろうか。
 たとえば、愛する人の寝顔をじっと見つめる。あるいは、ひそかに想いをよせる相手の顔をそっと盗み見る。大好きなスターやアイドルのポートレイト写真や映像を、それこそ穴が空くほど見つめ続ける。ーーそういったロマンチックというかほほえましいまなざしを向けるのじゃなく、見ず知らずの相手の顔を、その「顔」だけをなかば“強制的”に見つめなければならない……。考えるにそれは、日常ではなかなかありえない稀有な体験だろう。
 いよいよ日本でも公開となる、台湾映画の鬼才・蔡明亮[ツァイ・ミンリャン]の2018年度作品『あなたの顔』は、まさにそういった“体験”を観客に要求する。この映画を見る者は、上映時間の大半を占める「13人の顔」との“対峙”を強いられることになる。途中で退席するか目を閉じる(=眠る!)以外、彼ら彼女らの「顔」だけを文字通り“凝視”し続けなければならないのである。
 それにしても、「顔」だけの映像? ……そう、ここにあるのは人物の首から上の、クローズアップで撮られた映像だけだ。薄暗い背景のなか、13人の男女の顔だけに照明が当てられ、画面に浮かびあがる。最後のひとりを除いて、それはぼくたちの知らない「顔」ばかり。台北の市中で暮らすいずれも中年過ぎから老年に達した彼や彼女たちは、ひとりずつ正面から、あるいはやや右向きか左向きからのカメラの“まなざし”にさらされる。そして、そのまなざされた個々の肖像[ポートレイト]という以上に「顔」それ自体を、ツァイ・ミンリャン監督は「映画」としてぼくたちに差し出すのだ。
 ……1人目の女性は、はじめのうちカメラの方を見たり見なかったり、視線が落ち着かない。が、しばらくしてクスクスと笑い出す。そこへ、おそらくツァイ・ミンリャンの声で「何を話したい?」という問いかけ。「わからない」と彼女。「笑っちゃう?」「うん」「どんな気分?」「感じるのは奇妙な面白さかな」「どうして?」「実際の私と映っているのとは違うんでしょ」といったやりとりが交わされる。
 2人目の女性は、真っ赤な口紅と真珠の首飾りをしている。彼女は画面の右斜め上に視線を向けたまま、ついにひと言もしゃべらない。
 3人目の女性はしばらくの沈黙の後、いきなり舌でべろべろと口の周りを舐めはじめる。ただの舌の体操だと彼女。「こうやって筋肉をほぐさないと、年寄りはうまくしゃべられなくなるから」と。さらに、顔全体や頭髪もマッサージしはじめる。
 4人目は、はじめての男性。じっと目を閉じている。が、そのままいびきをかきはじめて眠ってしまう。しばらくして気がつき背伸びをするが、ひと言もしゃべらない。
 5人目は、若々しく華やいだ装いの女性。「好きなことは金儲け」と笑いながらカメラの向こうの監督に語りかけ、貧しかった少女時代(……「でも街一番の美人だったのよ!」)から美容関係で成功するまでの生い立ちを饒舌に披露する。
 6人目の男性は、少しおびえたような表情を終始カメラに向けたままでいる。そして無言。
 7人目も男性。1年から2年ごとに違う女性がいたこと、日本への旅行でパチンコにはまり、帰ってからも散財したことなどをどこか自慢げに話す。
 8人目の男性は、突然ハーモニカを取り出して演奏しはじめる。そして、もう1曲。カメラやその背後にいるであろう監督には、視線を向けることはない。
 9人目は、口ひげをたくわえた男性。正面を向き、じっとカメラを見すえている。が、だんだんと視線がおよぎ出す。やがて、またカメラを見すえ、少し笑ったように見える。 
 10人目の男性は、全身でカメラを拒絶するかのような姿勢をとり続ける。決して目を向けず、何もしゃべらない。
 11人目の女性は、仕事の話をはじめる。どうやらまじめな働き者らしい。しかし自分の生い立ちにおよぶと、親との確執があったことがわかってくる。「私はだめな長女だった」と涙ぐむ彼女。
 12人目の男性は、じっと右方向を見つめ少しほほえんでいるように見える。だが、だんだんと口が半開きになり、そのままウトウトしてしまう。まもなくハッと気がつくものの、またウトウト。そのくり返しだ。
 そして13人目が、ツァイ・ミンリャン監督の全作に出演してきた盟友にして創造の“詩神[ミューズ]”である李康生[リー・カンション]。正面に据えられたカメラに向って、ゆっくりと父親のことを語りはじめる。さらに学生時代のことや、母親が「自分は父親似だ」と言ってこと、等々。ここでのリー・カンションは終始リラックスしているように見えるが、実は微妙にカメラから視線をはずしている。
 ……以上、ここで画面に登場する人々、というかその「顔」について書きとめてみた。饒舌にしゃべる者もあれば、寡黙をつらぬく者もある。カメラをじっと見つめる者や、決してレンズに目を合わせないようにする者。そういった各人各様の「顔」を、単調のようで実のところひとりずつカメラの角度を変え、入念にライティングを施し、1カットで撮っていくのである。
 監督のツァイ・ミンリャンは「ザ・フィルム・ステージ」誌のインタビューのなかで、「私は2つだけ(彼らに)指示をした。最初の30分はあなたの好きなことについて話して欲しい。次の30分は、写真館にいるように私にあなたをただ撮らせて欲しいと頼んだ」という(引用はネットサイト「Indie Tokyo」掲載の記事より)。そうやって撮られた映像のなかから、それぞれ数分間ずつ切り取られた「顔」たち。その“13人の「顔」”と、ときおり思い出したように坂本龍一による音楽ーーというより「音[サウンド]」が聞こえてくる以外(……そういえばこれは、ツァイ・ミンリャンがはじめてオリジナルな「映画音楽」を使用した作品でもある)、ここにはもはや“何もない”。
 では、そんな映画が「面白い」のかと問われたなら、もしあなたが一般的な「劇映画」や「ドキュメンタリー映画」と同じつもりで見たなら、たぶんとまどい退屈するばかりだろうと言っておく(……それでも、たとえば『死霊の盆踊り』におけるヌード・ダンサーたち総勢10名の「踊り」を延々と見せられるより、はるかに充実した“映画体験”であることは保証しておこう)。
 が、一方でもしあなたが1本でもツァイ・ミンリャン作品を見たことがあるなら、きっと本作をこの監督のひとつの“到達点”であると深く納得し、おおいに満足するに違いない。ーーああ、そうだ、これまでもツァイ・ミンリャンの映画は、その長回しのワンカットのなかにリー・カンションや出演者たちの“生(なま)”なたたずまいを、何よりその「顔」を“凝視”するものじゃなかったか、と。
 そう、あらためてこの作品、そこに映しだされた「顔」たちをふり返るとき、ぼくたちがそこに見る/見たのは“ひとつとして「同じ顔」がない”というあたりまえの、しかし絶対的な〈真理〉だ。たとえ一卵性双生児であろうと、この世に「同じ顔」はふたつとありえない。あるいはそれを、“誰もが「ひとつの顔」を持っている”と言い換えてもいい。
 そして、そこに刻まれた皺や皮膚のたるみ、髪の毛、筋肉の動きが作り出す表情に見てとれるそれぞれの人生の流れという「時間」と、そんな「顔」を“凝視”するワンカットの映像に流れる「時間」。このふたつの「時間」こそ、ツァイ・ミンリャンの監督作品が描き続けてきたものだった。
 ……作品の最後に映しだされるのは、風格をたたえた広大な建物内。それは日本統治時代に建てられた台北の中山堂で、13人の「顔」が撮影されたのもこの館内でだったという。ともあれ、誰もいない薄暗いその空間をカメラはじっと“凝視”する。それはまるで、1枚の写真を見るように静止したかのような映像だが、外の陽射しのかげんによるのか、かすかに館内が明暗するのがわかる。
 歴史を象徴する台北の「顔」ともいうべき中山堂と、その館内を捉え続けるカメラ。ここで映画は、あらためてふたつの「時間」の流れを明示することで、本作の主題そのものを“絵解き”するかのようだ。ーーガチガチの「アート・フィルム」のようで、決して観客を“疎外”しないツァイ・ミンリャンなのである。

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