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いつかどこかで見た映画 その181 『キャプテン・ウルフ』(2005年・アメリカ)

“The Pacifier”
監督:アダム・シャンクマン 脚本:トーマス・レノン、ロバート・ベン・グラント 撮影:ピーター・ジェームズ 出演:ヴィン・ディーゼル、ブリタニー・スノウ、キャロル・ケイン、マックス・シエリオット、モーガン・ヨーク、ローガン・フーヴァー、キーガン・フーヴァー、ボー・ウィング、ルーク・ヴィング、ブラッド・ギャレット、ローレン・グラハム



(この文章は、2005年10月に書かれたものです。)

 功成り名を遂げたアクション・スターがコメディに挑戦するのは、アメリカ映画のひとつの典型というか“お約束”と言えるだろう。スタローンだって、シュワルツェネッガーだって、ハリソン・フォードだって、それが成功したか失敗だったかはともかくみ〜んなコメディ映画に出演している。あるいは「コメディもこなせること」が、彼らのキャリアのなかでさらなる飛躍を約束し“スター”としての地位を不動のものにする「ステータス」なのではあるまいか(……もしかしたらスティーブン・セガールやジャン=クロード・ヴァン・ダムがここ最近どうもパッとしないのも、彼らにこれといったコメディ映画の出演作がないことと因果関係(?)があるのかも。つまり彼らには「笑いのセンスがない」と判断された時点で、しょせん〈B級〉どまりであることを宿命づけられたというわけだ。もっとも、セガールやヴァン・ダムの場合その存在[キャラクター]自体が“コメディ”じゃないか、と言えなくもないんだが)。
 だから、“次世代アクション・スターの筆頭株”らしいヴィン・ゼィーゼルがファミリー向けの「コメディ」作品(しかも、ディズニー映画!)に出演すると聞かされたって、特に驚きもしない。『ワイルド・スピード』と『トリプルX』というロブ・コーエン監督(……ちなみにこの監督、もっと正当に評価されてしかるべきだと思う。どんな切り口のエンターテインメント作品であろうとそこに確かな説得力を与えうる、その語り口とキャラクターの造形力は間違いなく現代アメリカ映画界でもひいでた力量の持ち主だ、とぼくは確信している)の2作品では、単なる脳みそまで筋肉といったマッチョ・ヒーローとは一線を画す主人公像を見せた男だけに、この新路線の開拓は当然のことだったろう。
 で、その映画『キャプテン・ウルフ』だが、ヴィン・ディーゼル演じるタフでキレもののネイビーシールズ(アメリカ海軍特殊部隊)エリート軍人のウルフが、任務とはいえティーンエイジャーから赤ん坊までの5人の兄弟の“家政夫[ハウスキーパー]”となってのてんやわんや、というもの。まあ、シュワルツェネッガーの『キンダガートン・コップ』と同趣向のものといえばいいか。あの映画でも、泣く子も黙るはずのタフガイ刑事が幼稚園の潜入捜査で子どもたち相手に悪戦苦闘するさまを描いて大笑いさせてくれたものだ(……園児たちのこまっしゃくれていたり突拍子もない言動に、もはや演技をこえてタジタジとなるシュワちゃん。どんなスターも、やっぱり子どもにはかないまへん)。そしてこちらも、コワモテのディーゼルが赤ん坊のおしめ替えに悲鳴をあげたり、軍隊式になんとか規律正しくしつけようとするものの、子どもたちの思いがけない“反撃”に手を焼くあたりのドタバタ劇が、特に前半の主眼となっているわけだ。
 もっともこの『キャプテン・ウルフ』、その冒頭は、某国の諜報グループに誘拐されたアメリカ人の博士が監禁されているクルーザーを急襲するウルフたちネイビーシールズの活躍がスリリングに繰りひろげられる。本当にこれが「ディズニー作品」なのかと驚かされる、まるでジェリー・ブラッカイマー製作のアクション映画のようなハードさなのだ。しかも、その救出作戦に失敗して科学者が殺されるといった、まさかの展開がまっているのである!
 しかしこのように、最初にヴィン・ディーゼルの「アクション・スター」ぶりをたっぷり披露しておいて、その後のコメディ演技との“落差”を際だたせるというのは、なかなか計算高いともいえる。事実、スキンヘッドの硬派“男らしさ”を誇示してきたディーゼルが子どもたちにさんざん悩まされるあたりの前半は、このオープニングがあったからこそよけいに可笑しいのである(……もっともそれだって、『キンダガートン・コップ』の二番煎じにすぎないんだが。逆に言えば、それだけあの映画がこの手のファミリー=アクション=コメディ作品として実によくできていた、ということなんだろう)。
 さて、任務に失敗したウルフだが、今度は死んだ科学者プラマー博士の家で子どもたちの身辺警護を上官ビル(クリス・ポッター)に命じられる。博士は、ある重大な軍事機密のプログラム研究と開発をすすめていた。その研究を狙われて誘拐されたのだが、博士の死とともにプログラムは所在不明に。が、スイスの銀行に博士の貸金庫があるとわかり、プラマー夫人のジュリー(フェイス・フォード)とビルは現地へおもむくことになる。その留守中の子どもたちの安全と、プログラムの家宅捜査をウルフが任されたというわけだ。
 プラマー家の子どもたちは、長女のゾーイ(ブリタニー・スノウ)を筆頭に、長男セス(マックス・シエリオット)、次女ルル(モーガン・ヨーク)、次男ピーター(ローガン・フーヴァー)、まだ赤ん坊のタイラーという顔ぶれ。ウルフはさっそく軍隊式の規律と訓練を課すが、子どもたちの反感を買うばかり。ウルフを追い出そうとゾーイとセスが仕掛けた嫌がらせに、ベビーシッターのヘルガ(キャロル・ケイン)が引っかかってしまい、怒った彼女はプラマー家を出ていってしまったものだから、ウルフは赤ん坊のタイラーの世話もみるはめになってしまう。すぐ戻るはずの母親ジュリーは、貸金庫のパスワードがわからず帰るに帰れない。さあ、どうするウルフ……!?
 とはいえ、もちろんウルフと子どもたちがやがてお互いに心通いあわせるだろうことは、誰だって予想がつく。そのきっかけはやはり父親の博士を殺害した“敵”の存在で、その脅威を前に彼らは団結することも、「ああ、やっぱりね」と思ってしまう。そういった意味でこれは、観客の「見たいもの」「楽しみたい展開」を提供する典型的な“普通の娯楽映画[エンターテインメント]”以外のなにものでもないことは確かだ。
 ただ、ひとつ意外だったのは、ここで“悪の黒幕”として「北朝鮮」とはっきり名指されていたことか。いかにアクション映画仕立てだとしてもいちおうは「ファミリー向き」として製作されたはずの作品で、まさか現実の国名をだしてくるとは思わなかった。
 確かにここ最近のアメリカ映画は、『007/ダイ・アナザー・デイ』や『チーム★アメリカ ワールドポリス』、『ステルス』等々、公然と「北朝鮮」を〈悪役〉として設定することが多いな……という気がしてはいた。まあ、確かにいろんな意味で“厄介な国”かもしれないが、かりにも国連加盟の「主権国家」をテロやら陰謀の首謀者に仕立てて、「正義」のヒーローに粉砕されるといった扱いはいくらなんでもマズイんじゃあるまいか──と思ってしまう。だのに、ここでディズニーの「ファミリー映画」まで加担するとは!
(……もっとも、ディズニーのアニメや映画における“ある種のイデオロギー臭”については、昔から有名(?)だったことも忘れてはならない。たとえば、南米チリで出版されたその名もズバリのタイトル本『ドナルド・ダックの読み方 ディズニー漫画における帝国主義的イデオロギー』(邦訳タイトルは『ドナルド・ダックを読む』)によると、ディズニーのアニメ作品からは《人種的・文化的ステレオタイプとしての第三世界の描写(とりわけこれらの国の人々の「幼児化」)、自然で変わることなく倫理的に正当化されたものとしての資本家階級の提示、あからさまな反-共産主義的、反-革命的なプロパガンダ、従属的なものとしてステレオタイプ的に描かれた女性たち》が読み取れるという(ジョン・トムリンソン、『文化帝国主義』より引用)。
 まあ、それは極端だとしても、1940年代から50年代に「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」のグローバルな“布教活動”に果たした役割は大きいだろう。そして、当時のアメリカ社会が激烈な「反共」イデオロギーの下にあったのなら、当然ながらミッキーマウスやドナルド・ダックたちは「反-共産主義」の“尖兵(!)”だったのだ。
 が、そんなかつてのディズニー作品ですら、(第二次世界大戦当時の戦意昂揚[プロパガンダ]映画などを別にして)あからさまに他国を「悪者」扱いすることはなかったんじゃないか。たとえ冷戦下の時代でも、婉曲的表現で揶揄はしても「ソ連」を名指しして、その脅威を訴える映画やらTV作品が、ディズニー・スタジオが製作していたことがあったんだろうか(まあ、おおいに“あり得る”気もするけれど……)。それがこの『キャプテン・ウルフ』という映画にあって、現在の「北朝鮮」がはっきりと国名をあげられ、そのスパイを演じる朝鮮人(=アジア人)は不気味にして滑稽な「敵役」として“戯画化”されるのである。
 まあ、そういった北朝鮮に「悪役」をあてがうここ最近のアメリカ映画の風潮は、フセインのイラクに続いて“つぎは貴様たちの番だぞ!”というアメリカ政府による暗黙の外交圧力(?)を反映したものだ、とはいえるかもしれない。アメリカの娯楽映画が一方で強力な政治宣伝[プロパガンダ]を担ってきたように、これら“北朝鮮=悪[ヒール]”映画は1950年代に量産された〈反共映画〉の現代版というか焼き直しなのだといってよい。
 ただそれが、幅広い年齢層を対象にしているはずのディズニーの「ファミリー映画」であったこと。それがこの作品をどこか居心地の悪いものにしているんじゃあるまいか……。
 とは言いつつ、それでもぼくはこの映画のしかるべき場面で見せる“表情”が好きだ。それは、父親を亡くしたことの悲しみをおし隠してきた長女が、ヴィン・ディーゼルの主人公にその心の痛みをうちあける夜のテラスの場面であったり、なかなか寝つかない男の子が主人公に「おやすみパパ」とつぶやいたときの、ヴィン・ディーゼルの表情であったり──と、ここにはそういった“さりげなく、美しい「瞬間」”が散りばめられている。それがきっと、この映画の本来の姿なんだろう。何ひとつ目新しくもなく、平凡な、けれどもいくつもの魅力的な“表情”に出会える映画……。
 だからこそ、そんな映画が一方で「プロパガンダ」めいた“顔”を持たざるをえないことの複雑な〈立場[トポス]〉を、思わずにはいられないのである。

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