見出し画像

いつかどこかで見た映画 その93 『ELLE エル』(2016年・フランス=ベルギー=ドイツ)

監督:ポール・ヴァーホーヴェン 脚本:デイヴィッド・バーク 原作:フィリップ・ジャン 撮影:ステファーヌ・フォンテーヌ 出演:イザベル・ユペール、クリスチャン・ベルケル、アンヌ・コンシニ、ロラン・ラフィット、ヴィマラ・ポンス、シャルル・ベルリング、ヴィルジニー・エフィラ

画像1

 ポール・ヴァーホーヴェン監督といえば、「ラジー賞(ゴールデン・ラズベリー賞)」にまつわる有名な、そしてぼくの大好きな逸話[エピソード]がある。
 映画ファンなら周知の通り、米アカデミー賞に対抗して「その年“最低”の映画」を選出するラジー賞は、もちろん映画人にとってうれしくないというか、不名誉なもの。本家アカデミー賞の前日におこなわれる授賞式には、当然ながらそれまで誰も出席したことがなかった。が、その授賞トロフィーをはじめて会場で受け取った者こそ、その年の最多部門に輝いた(と、言ってよいのか……)『ショーガール』の監督ヴァーホーヴェンだったのである。
 笑顔(!)で壇上にあがったヴァーホーヴェンは最低作品賞と最低監督賞のトロフィーを受けとり、「蝶から芋虫になった気分だ」とスピーチ。「オランダで映画を撮っていたとき、私の作品は批評家どもから“退廃的で、倒錯して、安っぽい”とけなされてきた。だからアメリカにやって来たんだ。まったく、こんな日がくるとはね! もっとも、『ショーガール』の公開時に目にした新聞や雑誌の批評よりは楽しいよ」と聴衆を笑わせたという(出典はウィキペディア英語版より)。……いやはや、何とも剛毅というか、食えないオヤジであることか!
 そう、本国オランダで作品を発表するたび賛否の嵐を巻き起こし(……それでも、初期の代表作『危険な愛』はオランダ史上最大のヒット作となり、米アカデミー賞の外国語映画部門でもノミネートされた)、アメリカに渡ってからも『ロボコップ』や『トータル・リコール』、『氷の微笑』などの大作・話題作を手がけながら、そのいずれも「R指定」の過激な暴力や性的描写によって、世の良識派の眉をしかめさせてきたポール・ヴァーホーヴェン監督。一方で、彼の作品を単なる「エロ・グロ・ヴァイオレンス」だけではなく、現代社会の現実と暗部への批判精神をするどく反映したものだと評価する向きもないではなかった。が、おおかたの評価は、アメリカにおいても、やはり“病的で、下品で、安っぽい”というものだったのである。
 そして、昆虫のような異星人[エイリアン]軍団と地球側の軍隊が攻防戦を繰りひろげるSF大作『スターシップ・トゥルーパーズ』でも批評的にたたかれ(……ヴァーホーヴェン自身はこれを、ファシズム体制下における戦意高揚[プロパガンダ]映画風を装いつつ大いに皮肉った「パロディ」として撮ったという。しかし多くの批評家や観客たちは、見たままの残虐でバカげた“ファシズム礼賛”映画として受け取ったのだった)、続く『インビジブル』ではスタジオ側と衝突し、とうとうアメリカに愛想をつかしてヴァーホーヴェンはオランダに舞い戻る。そうして本国で撮った『ブラックブック』が国際的に高く評価され、オランダはもちろん全ヨーロッパ的に大ヒットしたのである。
 とまあ、人物も作品も実に毀誉褒貶かまびすしいポール・ヴァーホーヴェンであるのだが、そんな御仁が前作の中編『トリック』から4年ぶり、長編劇映画としては実に10年ぶりとなる最新作が、今度はフランスで撮った『エル ELLE』(以下、『エル』と表記)。案の定というか、これがまた主演のイザベル・ユペールの演技ともども世界中に衝撃をあたえ、絶賛(と、強烈な批判)をあびることとなったのである。……御年(おんとし)78歳にしてなお過激かつスキャンダラスなヴァーホーヴェン、ますます健在、そしておそるべし。
 だが、この映画のなにがそれほど衝撃的なのか? これが、女性への性暴力[レイプ]という題材を扱いながら、それが主人公[ヒロイン]の「怪物性(!)」を際だたせるための口実あるいは“仕掛け[ギミック]”でしかないということ。この映画にとってレイプはたいした「問題」ではなく(……だからこそ良識派の嫌悪と批判をまねいたのだが)、悲劇すらもはや喜劇的な、倒錯した人間たちの「ドタバタ劇」こそが見る者をあ然とさせるのである。
 ここでイザベル・ユペールが演じるのは、コンピューター・ゲーム会社の女社長ミシェル。豪華な自宅で猫とひとり暮らす彼女が、窓から侵入した覆面姿の男に襲われ強姦される場面から映画ははじまる。ーー男が去ったあと、部屋を片づけ、警察に電話するのではなく、訪れるはずの息子ヴァンサン(ジョナ・ブロケ)のために寿司の出前をたのむミシェル。そして、やってきたヴァンサンと食事をしながら、恋人が妊娠して新居をさがす少したよりない息子を心配する。
 ……いったいミシェルは、暴行されたことをなぜ警察に通報しないのか? 翌日からも彼女は、いつものように会社でワンマンぶりを発揮して社員をやりこめ、共同経営者で親友のアンナ(アンヌ・コンシニ)とは仲よくすごしながら、その夫ロベール(クリスチャン・ベルケル)とひそかに不倫関係を続けている。また、あきらかに財産目当ての若い男をかこっている母親エレーヌ(ジュディット・マーレ)に苛立ったり、向かいの邸宅に暮らす若い夫妻を双眼鏡でのぞき見しながら、主人のパトリック(ロラン・ラフィット)にひとりで“欲情”したりといった日々をおくるのだ。そして、元夫で売れない小説家のリシャール(シャルル・ベルリング)やアンナたちには他人事のようにレイプされたことを口にしながら、ミシェルは、自分の身は自分で護るとばかりに護身用の武器を買い求めるのである。
 その後も、ミシェルの周囲には不穏なできごとが続き、彼女は身近にいるらしいレイプ犯を自力でつきとめようとする。やがて見る者は、なぜ彼女が警察の手を借りようとしないのかを知らされるだろう。ミシェルには、まだ10歳だったときに父親がおこした大事件のいまわしい記憶があった。それいらい彼女は、警察を信用せず毛嫌いすることになったのだと。
 そうして、タガが大きくはずれだした日常のなか、次第に“本性”をあらわにしていくミシェル。それは、彼女がふたたび覆面姿の男におそわれ、犯人の意外な正体があきらかになったことでさらにエスカレート(というより、むしろ“絶頂[エクスタシー]”だろうか?)していく。そして待ち受ける、突然かつ決定的なカタストロフ…… 
 ポール・ヴァーホーヴェン監督のフィルモグラフィーには、いずれも特異で強烈なキャラクターによる「女性映画」の系譜がある。オランダ時代の初期作『娼婦ケティ』にはじまって、『氷の微笑』と『ショーガール』というハリウッドで撮った極めつけの2作、ふたたびオランダに戻っての起死回生作『ブラックブック』、そして『エル』である。
 そのいずれも、ヒロインが「女」を武器にして自ら求めるものーーそれは“富”であったり“名声”であったり“復讐”であったりさまざまだが、いずれにしろ彼女たちが、そういったもののためなら手段を選ばず、文字どおり身体を張ることもいとわない姿を描くものだ(……もっとも、それゆえ「下品」だの「女性蔑視」だの「性的搾取映画[セクスプロイテーション]」だのと非難にさらされてきたわけだが)。
 この『エル』の場合、ヒロインが求めたのはレイプ犯への“復讐”だろうか。危機的状況におちいってもなお、ゆるがせにしまいとする“生活”だろうか。それとも、自らの秘められた欲望にめざめそれを“解放”することだろうか。いや、たぶんそれは、彼女が“彼女”自身であり続けることだったのはあるまいか。
 主人公のミシェルは、たとえレイプされストーカー行為にさらされても、家族や人間関係のトラブルに悩まされても、さらには父親が引き起こしたいまわしい過去の記憶にふたたび直面しても、決して“自分”を失わない。すべてを自分自身で対処し、コントロールしようとする。たとえそれが社会的な規範からは「異常[アブノーマル]」に見えようと、彼女はあくまで“彼女”であり続ける。あるいは、あり続けようとするのである。
 そういった意味でミシェルは、これまでのヴァーホーヴェン作品におけるヒロイン像の完成形であり、集大成だといってもよいだろう。そのうえでもし彼女が、他のヴァーホーヴェン的ヒロインにはない醒めたユーモアと快活さをあわせ持ち、よりエレガントな「怪物性」をたたえているとしたら、それはひとえに演じたのがイザベル・ユペールゆえに違いない。
《たとえば、(原作の)小説にはない映画オリジナルシーンで、ミシェルが笑顔のままで身の毛もよだつような話をするシーンがあるのだけれど、イザベルは観客を困惑させるために軽やかに演じるべきだとすぐさま気付いていた。あの演技は、観る者を動揺させるね。あんな女優は、滅多にいないよ》と、監督のヴァーホーヴェン。《これは物語だ。現実の生活でもないし、女性についての哲学的な映像でもない。だけど、ミシェルはやった! そして、驚くべき演技をしてくれたイザベル・ユペールのおかげで、ミシェルの行動が完全に説得力のあるものになった》と(引用はパンフ内のインタビュー記事より。以下同)。……神は、この作品にイザベル・ユペールを与えたもうた。そのことを誰よりも感謝し喜んでいるのが、ヴァーホーヴェンなのである。
 一方のユペールは、ミシェルという役柄についてこう述べている。《ミシェルは、決して落ち込んだりしない。(中略)様々な出来事によって打ちのめされるけれど、壊れはしない。時代を象徴し、権力を手にした強い女性よ。経済、社会、そしてセクシャルな権力をね。彼女の革命は、男性の脆弱さを露わにするわ。》ーーたとえその肉体を蹂躙されようと、君臨するのはミシェルの方だ。彼女の前で「男(たち)」は、縮こまった哀れなペニスをさらし、ゆがんだ欲望をみすかされ、彼女の人生からあっさりとお払い箱になるか、みじめな“最期”をとげていくばかりなのである。 
 いや、ミシェルだけではない。この映画の女たちは誰もが「強い」。父親とはあきらかに肌の色が違う赤ん坊を産んでも平然としていたり、たとえ実の娘になじられても「女」であり続けようと若い男を“飼った”り、夫と浮気した親友をゆるして夫の方を追い出したりする「彼女たち」と、思わず恥じ入りたくなるほどバカで無能で不能な、ただただ醜態をさらすばかりの「男たち」……
 こうしてぼくたち「男」もまた、これが「彼女[エル]」たちに捧げられたヴァーホーヴェン流の「フェミニズム」作品であることを思い知らされることになる。そして、凄絶なレイプ場面で幕を開けたこの映画が、驚くほど“爽やか(!)”なエンディングで幕を閉じるのを、(わずかな苦笑をまじえつつ)ただぼう然と見まもるばかりだ。
 ……最後に。冒頭で“事件”のすべてを(思わせぶりに)目撃していたミシェルの飼い猫だが、しかし、途中からいったいどこへいってしまったんですかヴァーホーヴェン監督?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?