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いつかどこかで見た映画 その189 『三日月とネコ』(2024年・日本)

監督・脚本:上村奈帆 原作:ウオズミアミ 撮影:重田純輝 出演:安達祐実、倉科カナ、渡邊圭祐、山中崇、石川瑠華、柾木玲弥、日高七海、小島藤子、川上麻衣子、小林聡美


 いきなり個人的な昭和ネタで恐縮なのだけれど、皆川おさむ少年が歌って大ヒットした「黒ネコのタンゴ」は、自分のおこづかいで買った初めてのレコードでもある(たぶん家を探せば、このシングル盤はまだあると思う)。それまで黒ネコといえば、目の前を横ぎれば不幸に見舞われるなどという“迷信”を日本の小学生すらどこかから聞きおよんでいた忌み嫌われる存在だったのに(やや誇張あり)、大ヒットしたこの歌によってすっかり人気のネコ種となったんじゃなかったか。
 で、小さなレコードプレーヤーで繰りかえし聴くなかで、その歌詞でもとりわけ「だけどときどき爪をだして ぼくの心を悩ませる」と「ネコの目のように気まぐれよ」というフレーズに、まだ10歳にも満たないやましん少年はいたく感じいったものだった。──ああ、これが好きになった女の子にホンロウされるってことなんだ……と。
 そこでいう「ネコの目のように気まぐれ」とは、もちろん明るさによってネコの瞳孔が丸くなったり縦長に細くなったりするようにすぐ心変わりするさまを、比喩的に表現したものだ。それもあってか、いつしかネコそのものが「気まぐれ」という“俗説”が古今東西の人間界でまかり通ってしまった。確かにネコたちは、さっきまでじゃれついていたのに突然プイッとどこかへ行ってしまったり、抱きあげようとすれば逃げるくせに、こちらが新聞や本を読んでいると上に乗ってきてはニャーニャーないて「遊べ」と催促してくる。《女とネコは呼ばないときにやってくる》とはボードレールの名言とされているが、まさに「ネコはネコの目のように気まぐれ」だと言いたくもなる。
 けれどそれは気まぐれというより、ネコたちは決して人間に「媚びない」ということではないか。たとえばニャーニャーないてすり寄ってくるときも、あの大きな目でじっとこちらを見つめてくるときも、いかにも人間に対する“媚態”のようで実のところまるで違う。それは(何かシタゴコロがあって)人間の気を引こうとしたりおもねったりしているのではなく、ただそのとき「自分がそうしたいから」とった行動にすぎない。ネコはたとえ人間たちに飼われていても決して“従属”することはなく、あくまで〈個(=主体)〉であり続ける。むしろ人間たちのほうが、いつしか喜んで“従属”させられるのである(……いっぽうイヌたちはといえば、飼い主こそが絶対的存在(=主人)として〈個〉としての主体性をゆずり渡すだろう。もちろんそこにシタゴコロなどはなく、そのどこまでも主人への無私の〈愛〉ゆえにイヌたちはヒトにかくも愛され、そしてどこか不幸──が言いすぎなら「不憫」な存在なのだ。ああハチ公よ、忠犬たちよ!)。
 ネコは決して「気まぐれ」なんかじゃない。ネコたちは常に「わたしはわたし」であって、たとえ飼いネコでも自分が“飼われている”とは微塵も考えない。たぶんネコは人間との関係を「ただ居心地がいいからいるだけだし、いっしょにいたかったから今ここにいる」としかとらえていないだろう。だからその行動には真の意味で一貫性がないのであり、その「一貫性のなさ」ゆえに、いつの世も人間たちはふりまわされながらも魅了されてきた(もしくは、「ネコは魔性だ」などと毛嫌いされてきた)のである。
 ウオズミアミの人気コミックを実写映画化した『三日月とネコ』のなかで、こんな台詞がある。「……私は好きよ、あなたたちのヘンテコな暮らし。誰にならったわけでもない、ただいっしょにいたかったからいっしょにいた。──いいじゃないの」と。
 それは、小林聡美演じる作家が主人公の灯(あかり)に向けて言う言葉で、「ヘンテコな暮らし」というのは、40代の独身女性である灯が、30代の女性・鹿乃子(かのこ)と20代の男性・仁(じん)と2年におよぶ共同生活をおくっていたからだ。震災をきっかけに出会った3人は、おたがい“ネコ好き”というだけで血のつながりもなく恋愛関係でもない、「ただいっしょにいたかったから」いっしょに暮らしている。そう、これは「ネコ」の映画というより、ただしく「ネコのような3人」を描いた映画なのである(もちろん、かわいいネコたちも登場します)。
 舞台となるのは、2016年の熊本。熊本市内の書店で勤める灯(安達祐実)は、突然の大地震に飼いネコのまゆげをともなってマンションの外に避難する。そこで出会ったのが、同じくネコといっしょにマンションから避難してきた精神科医の鹿乃子(倉科カナ)と、アパレルショップの店員・仁(渡邊圭祐)。これが初対面の3人は、年代や職業も違うもののおたがいネコ好きということで意気投合する。
 それから2年後、震災の夜をきっかけに今は共同生活をおくっている灯と鹿乃子と仁。老猫だったまゆげは亡くなっていて、鹿乃子が飼っていたミカヅキが3人とともに暮らしている。何となく出会って「ただいっしょにいたかったから」暮らしている3人だが、灯のおいしそうな手料理が並ぶ食卓を囲むその生活は、おだやかな空気に満たされている。
 もっとも、灯をはじめ鹿乃子や仁にもそれぞれ個人的な悩みごとはある。44歳になった灯は、実家の母親から結婚するつもりがないなら家に帰ってこいと言われ、結婚している妹(小島藤子)は理解してくれるものの、両親の期待に応えられなかったという自責の念をかかえている。いっぽう、男性の恋人(柾木玲弥)と別れた仁だが、今度は店を訪れた客のつぐみ(石川瑠華)にひと目惚れしてしまう。けれど彼女のほうは、デートを重ねてもなかなか心を開いてくれない(……後になってつぐみは、「今までひとを好きになったことがない。そういう感情をもてない」と告白するだろう)。鹿乃子もまた、灯や仁との共同生活を理解しない同性のパートナーと別れてしまっていた。
 しかし3人は、個々のそういうプライベートな事情をも食事の席で語りあい、分かちあうのだ。
「大人げないよね、ぼくたち」
「大人げないけど、私たちっぽいよね」
「ほんと」
 そして、つぐみが紹介してくれた保護猫団体の代表(川上麻衣子)から2匹の子ネコを迎え入れて、3人と3匹の共同生活はますますそれぞれにとっての“心のよりどころ”になっていくのである。
 そんなある日、灯の書店に作家の網田すみ江(小林聡美)がサイン会のため訪れる。実は彼女の大ファンである灯が企画したイベントだが、同行した編集者・長浜(山中崇)こそ灯がいつも料理の参考にしているSNSの発信者だった。長浜のほうも灯がアップしているネコの画像をフォローしていると知って、おたがい驚くふたり。あらためてデートの約束をした灯と長浜は、ふたりきりの時間を過ごすなかでますますひかれあっていく。
 デートからもどって、鹿乃子と仁に、長浜とつきあうことにしたと告げる灯。心から祝福するふたりだが、今の3人の生活が終わろうとしていることに、鹿乃子はひそかに寂しさを募らせている……。
 と、ここまでが中盤までの展開。しかしこの映画を見ていて何より驚いたのは、主人公である3人があまりにも“屈託のない”ことではあるまいか。確かに灯は40代半ばを迎えて独身であることに負い目を感じているし、全性愛者[パンセクシュアル]である仁も、好きになったつぐみが他者を愛せない無性愛者[アセクシュアル]であることに思い悩む。鹿乃子にいたっては、精神科医のくせに(!)誰よりも“精神的弱さ”を抱えているかのようだ。
 けれど、そういった年齢やセクシャリティも異なる“迷える大人たち”は、顔をあわせると日々の出来事や心のうちを語り合い、おいしい料理に舌つづみを打ち、すっかり満ち足りた風にリビングで仲よくよりそって雑魚寝している。3人にとって、この共同生活の「居心地の良さ」こそが今の自分たちにとってかけがえのないもので、「ただいっしょにいたかった」ことからはじまったこの暮らしに充足する3人は、正直そのあまりの葛藤のなさゆえにほとんど“ユートピア”的な光景にすら思えてしまう(……恋人の長浜のもとへ行くはずだった灯は、「ここで暮らす私が本当の私なの。だからやっぱりここで生きていきたい」と、土壇場で彼との同居生活をとりやめてしまう。それでも長浜はやさしく許してくれるのだが)。
 でも、それが不思議な“説得力”をもっているとしたら、それは3人が愛でも友情でもなく「ただ居心地がいいからいるだけだし、いっしょにいたかったから今ここにいる」からだろう。ひとつ間違えばとてもエゴイスティックというか自己中心的ですらあるそのスタンスは、しかし誰に対しても「媚びない」という一点でわれわれを魅了してやまないのである。
 あるとき鹿乃子が、「自分なんて」という仁にこんな風にさとす。「でも、少しずつでもとりのぞかれるといいと思う、“自分なんて”という言葉。それに欠けているんじゃないよ、満ちる途中でしょ。人生なんてずっとその繰りかえしだと思うよ」と。──ネコの目がそうであるように、それは「気まぐれ」だとか「欠けている」のではなく、あくまでも〈個〉としての自分が今を充足し「満ちていく」ことこそが大事なのだということ。われわれ観客はここで、そんな「ネコのような3人」からとても“大切なこと”を教えられるのである。
 監督・脚本の上村奈帆の映画を、ぼくはこれまで『書くが、まま』しか見ていない。自分の感情をノートに書くことでしか表現できないいじめを受ける女子中学生と、教師との不倫関係で窮地におちいる保健室の女医の精神的連帯[シスターフッド]をめぐるそれは、人間関係の過酷さを描いたひりつくような、しかし実に美しい映画だった。そしてこれは脚本(共同)を担当した『市子』でも、過酷な人生を生きぬくヒロインの凄絶な愛と犯罪生活に思わず慄然とし、かつ感動したものだ。
 そんな上村奈帆だから、はじめての本格的な「商業映画」の監督作に選んだのが、社会や人間同士のしがらみ、同調圧力から軽やかに離脱した「ネコ(のような人間たち)」の映画だったのは正直いささか意外だった。が、この監督そのような「二面性」は今後大きな“強み”になると思う。次回作にどういった題材を選んで撮るのか、楽しみにしたいと思う。

(……ただ、あの「花火」の場面だけは、大のオトナたちがあまりに“ナイーヴ”すぎて、思わず赤面してしまったですが。)

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