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いつかどこかで見た映画 その99 『I'M FLASH !』(2012年・日本)

監督・脚本:豊田利晃 撮影:重森豊太郎 出演:藤原竜也、松田龍平、水原希子、仲野茂、永山絢斗、板尾創路、原田麻由、北村有起哉、柄本佑、中村達也、渋川清彦、大楠道代

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 たとえばカメラのフラッシュなど、もはや日本語のなかでも普通に使われる英単語のFLASHを、あらためて手許の英和辞書で引いてみる。するとそこには、「閃光、ひらめき」や「またたくま、瞬間」といった他に、「派手、みせびらかし、けばけばしさ、虚飾」という意味がある、と記されていた。ーーなるほど、「みせびらかし、虚飾」か。
 このあたり、いかにも新興宗教団体の若きカリスマ教祖を主人公にしたこの映画にふさわしい。実際、藤原竜也演じる教祖・吉野ルイは、団体のPRビデオか何かで、いかにもな口調で「死を恐れるな。死こそ究極の救いだ」などと説教しつつ、いかにもやらせっぽい派手なハンドパワー(?)で信者をなぎ倒したりする。しかもこの教祖、夜の盛り場で百発百中のダーツの腕前や、誰にも負けたことがないという“あっち向いてホイ”でオネエチャンたちの気をひこうとする始末。彼の運命を変える女性・川嶋流美(水原希子)の前でも、最初のうちはほとんど手品めいたインチキくさい“神業(かみわざ)”で関心を得ようとするんである。
 一方でこの映画は、いくつもの「閃光、ひらめき」や「またたくま、瞬間」も用意する。それは一瞬で人命を奪うバイクと自動車の事故シーンであり、その現場で点滅するバイクのウィンカーであり、水中銃の銛で魚を突く光景であり、火を噴く拳銃の銃口だ。さらにまた、「現在」の場面のあい間に「過去」の場面をはさむーー“フラッシュバック”させる本作の展開そのものも忘れてはならないだろう。それらすべてをふまえての作品タイトルが、『I’M FLASH!』だということか……
 だが、そう納得しかけたところで、まもなくぼくたち観客は途方に暮れることになるのだ。新興宗教の軽薄なインチキ教祖だと思っていた主人公は、交通事故に遭ってもひとりだけかすり傷程度で助かってしまう。しかもその後、命を狙う暗殺者に至近距離から銃で撃たれても、まるで当たらないのである! いったいこの教祖は、本当に「奇跡」を起こせるのか。というか、彼は「神」のような存在なのか?
 こうして映画は、「FLASH」の一語が複数の意味を併せ持っているように、すべてが多義的な、どうともとれるような“曖昧さ”のなかで観客を宙吊りにしていく。いかにもチャチな神業も、嘘くさい説教も、確かにすべて限りなく「ニセ物」くさい。実際、ルイの母親や姉たちにとって教団は、ビジネス以外のなにものでもないのだ(それゆえ、ルイが教祖をやめて教団を解散すると宣言した時、あっさりと彼を“抹殺”して別の教祖に取り替えようとするだろう)。そう、ルイの施す「奇跡」を母や兄弟たちも、教団幹部も信じていないし、あるいは自分自身でも信じていないのかもしれない。が、しかし観客であるぼくたちはここにきて思ってしまうのだ、ルイは、本当に「神」なのではないか、と。
 あるいは、松田龍平、ロック・バンドのアナーキーでボーカルだった仲野茂、そして永山絢斗がそれぞれ演じる、ルイのボディガードに雇われた殺し屋3人組にしても、その描かれ方はどこまでも劇画風のコウトウムケイさ(……この日本社会で、拳銃を携えた殺し屋が“職業”として成立することを、何の口実[エクスキューズ]もなく描くことの、不自然なまでの自然さ!)と、不思議な人間くささとによって描かれる。死亡交通事故をおこしたルイの警護をまかされつつ、海辺のリゾートめいた沖縄の教団施設で彼らは、メシを食いながら無駄口をたたくか、海に潜っては魚を獲ってくるルイを待ちながら無為に時間をつぶすばかり。だが、ひとたび侵入者があれば、躊躇なく拳銃をぶっ放して息の根をとめるのである。
 そう、監督・脚本の豊田利晃による本作は、そういった劇画風な通俗性をたたえつつも、常にどこか“別の世界”を見つめているかのようだ。血と暴力と孤独をめぐる、いかにも絵に描いたかのような「虚構[ドラマ]」世界をくりひろげながら、その一方でこの映画は、どこまでも内省的な“自問自答[モノローグ]”をつぶやき続けるのであるーー真の意味で〈死〉の想念から解き放たれることは、可能なのだろうかと。
 豊田監督の前作『モンスターズ・クラブ』について、ぼくはこう書いた。《『モンスターズ・クラブ』も、実は「ニヒリズム」をめぐる、思索的な、あまりに思索的な映画なのではあるまいか。(中略)ここにはアジテーションも政治性もなく、ただひとりの青年の内省的な〈声〉だけがある。もちろん彼自身は映画のなかで、それほど多くを語りはしない。が、作品それ自体が、この主人公の(そして、監督・脚本である豊田利晃の)モノローグに他ならないのだーー俺は、まだこの「世界」を愛しているのか、と》(いつかどこかで見た映画 その11)……あの映画で瑛太演じる主人公は、この世界には何の価値もないとする「ニヒリスト」たらんとしながら、しかし未だ「爆弾」を介して世界とつながろうーー「愛そう」としていたことを、最後に認めることになる。真のニヒリズムとは、彼の自殺した兄や弟のように、この世界の〈外〉に出ることでしかない。それを知ることが、主人公により深い絶望をもたらしたのか、あるいは救済だったのか。やはり映画は答えようとせず、ただ渋谷の雑踏で爆弾を携えたまま泣き崩れる彼の姿を、映し出すばかりだった。
 この『I’M FLASH!』でも、主人公のルイは、教祖として「死を恐れるな、死こそ究極の救いなのだ」と説きながら、彼自身はやがて〈死〉そのものから離れ、「生きることの意味」を“独白[モノローグ]”するようになっていく。世界の〈外〉、すなわち死こそ真なるものだとするニヒリズムの呪縛を、彼は断ち切ろうとした。それが教団解散の発言の真意であり、その結果として、実の母親(大楠道代)は彼の抹殺を決意することになったのである。
 教団の依頼を受けたボディガード3人によって、今度は命を狙われることになるルイ。だがその時になって、彼は思いがけない“反撃”にうってでる。それは「死にたくない」という生への執着というより、戦うことで「生きることの意味」を見出そうとするかのようだ。なぜなら、ぼくたち観客もまた2度にわたって見てきたように、彼は死なない、というか「死ねない」存在なのだから(……実際、銃撃戦のさなかに銃弾を胸に受け、血を流しながらなお死ぬことはない。ここで、松田龍平扮する新野だけがルイを「殺す」ことができたとしたら、それは新野が徹底した無神論者でありニヒリストだったからに他ならない。つまり、彼は「死に神」というか〈死〉そのものだったのだ)。
 『モンスターズ・クラブ』が、〈死〉の側へ自らを置こうとして果たせなかった主人公の“挫折”を描き、しかしその挫折こそを肯定するものだったように、本作もまた、限りなく〈死〉に直面することで〈生〉を見出し肯定するものだった。なるほど、確かにここで主人公のルイは「死ぬ」。が、映画はその直後に、あるひとつの奇跡を描き出すのだ。そしてそれは、ルイが自問自答し続けた〈生〉の意味の、ひとつの「答え」でなくして何だろう。
 実際、『モンスターズ・クラブ』と、この『I’M FLASH!』は、どこか連続した印象を与える。そしてそれは、冬の雪山と夏の沖縄の島という、対照的だがどちらも日常世界と「隔絶」した場所を舞台とし、前作で主人公はライフル銃で鹿を仕留めたのを、ここでは水中銃で魚を獲るという風に“変奏”しているという設定上の相似によるものか。あるいは、前作でぴゅ〜ぴる扮する異様なメイクをした“バケモノ”の登場を契機に、自殺した兄や弟、さらに生存する唯一の肉親である妹によって自らを否定され、それが主人公をニヒリズムから「解放」する。同じく、水原希子の謎めいた“運命の女[ファム・ファタル]”が現れ、彼女によって招いた事故をきっかけに3人の男たちが招聘され、主人公に真の「解放」をもたらすーーといった展開の類似を指摘してもいいだろう。
 しかしそんなこと以上に、前作『モンスターズ・クラブ』のラスト近くで主人公のモノローグとして読まれた宮沢賢治の詩こそが、この『I’M FLASH!』を導いたのではないか。《……なぜならおれは/すこしぐらいの仕事ができて/そいつに腰をかけてるやうな/そんな多数をいちばんいやにおもふのだ》という一節を含む『告別』という賢治のその詩は、誰もが選ばれし者というわけではないと突き放しつつ、それでも愛する女性ができたり、孤独のうちにとどまる時には、たとえ手に楽器がなくても《ちからのかぎり/そらいっぱいの/光でできたパイプオルガンを弾くがいい》と、選ばれなかった者たち(とは、もちろん主人公自身であり、大多数のぼくたちことだ)に語りかける。挫折した「弱い人間」である主人公を、その「弱さ」ゆえに肯定するものとしてあったのだ。
 そして、というか、だからこそ『I’M FLASH!』という本作のタイトルもまた、同じ宮沢賢治による次の詩句を想起させずにはおかない。
 《わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です/(あらゆる透明な幽霊の複合体)/風景やみんなといっしょに/せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/ひとつの青い照明です/(ひかりはたもち その電燈は失はれ)》
 ……賢治の『春と修羅』の序におけるこの冒頭の一節こそ、もはやぼくにはこの映画の“すべて”だと思える。映画の冒頭、それは海の底からゆらめく太陽の光をとらえた光景だった。まさに「ひとつの青い照明」としてあったその場面からはじまる、せわしく明滅しながら灯り続ける「わたくしといふ現象」こそ、この『I’M FLASH!』なのではないか、と。 
 そこから見出されるのは、豊田監督自身が言うように《死の連鎖、負の連鎖を断ち切るというのがテーマ》というより、ただしく虚無とは何かを問うこと、その“つぶやき”だろう。先にも書いた通り、そこに明確な「答え」は用意されていない。けれど、前作『モンスターズ・クラブ』のラストがそうだったように、この映画もまた世界の〈外〉にではなく、いま・この世界に在ることを肯定するものだとはっきり断言できる。というか、そんな気持ちにさせられるのだ。 
 前作『モンスターズ・クラブ』について書いた時、エピローグ風に引用したカフカの言葉がある。それを今回もまた、あらためて引いておこう。《きみと世界との戦いでは、世界に支援せよ》。……つまりはそういうことではないのですか、豊田監督……

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