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いつかどこかで見た映画 その101 『アデル、ブルーは熱い色』(2013年・フランス)

“La vie d'Adele : Chapitres 1 et 2”

監督・脚本:アブデラティフ・ケシシュ 脚本:ガリア・ラクロワ 原作:ジュリー・マロ 出演:レア・セドゥ、アデル・エグザルコプロス、サリム・ケシュシュ、モナ・ヴァルラヴェン、ジェレミー・ラユルト、アルマ・ホドロフスキー、オーレリアン・ルコワン、カトリーヌ・サレ、ファニー・モラン、バンジャマン・シクスー、サンドール・フンテク

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 ……女子高生[リセエンヌ]のアデルは、自分に好意を寄せる上級生の男子とのデートに向かっている。その途中、大通りで髪を鮮やかなブルーに染めた女性と出会い、思わず目がくぎ付けになるアデル。運命的なひと目ぼれというか、まさしくスタンダールがいうところの「雷の一撃」。そして、この瞬間からぼくたち観客もまた、彼女と、偶然出会った青い髪の女エマによる「深い愛と胸締めつけられるような物語」(スティーヴン・スピルバーグ)から、目が離せなくなってしまうのである。
 カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールを受賞した『アデル、ブルーは熱い色』は、とにかくさまざまな話題に事欠かない作品だ。女性同士のラブストーリーであり、過激な性愛描写が繰り広げられること。そんな映画を撮ったのが、チュニジア生まれの男性監督であること(さらには、共同脚本と撮影監督もチュニジア出身者だ)。そしてカンヌの審査委員長だったスピルバーグが絶賛し、映画だけでなく主演女優のふたりをも含めてパルムドールを贈ったこと……等々。
 加えて上映時間が約3時間(!)と、さすがにいささか身構えてというか“覚悟”を決めての鑑賞とあいなったわけだが、いやはや参った。同性だの異性だのという以前に、この映画が描くのは普遍的な愛とその終焉の光景であり、“あんなに愛しあったのに”というその〈痛み〉以外の何物でもない。もはや中年過ぎのオヤジにすら、その切なさに胸が潰れる思いをさせうるという、おそるべき恋愛映画ーーというより以上に、ことばの真の意味における「〈愛〉についての映画」なのだった。
 映画の冒頭、アデルの高校での授業風景にはじまって(ここではマリヴォーとラファイアット夫人による小説が取り上げられて、その後のアデルを暗示するかのように“ひと目ぼれ”をめぐる議論が繰り広げられる)、同級生の女の子グループとおしゃべりするアデル、口を半開きにして熟睡するアデル、両親とともにテレビを見ながらボロネーゼをほおばるアデル、エマと身体を求めあい愛撫するアデル、やがて教師となって幼い子供たちを教えるアデル……等々、カメラはひたすらアデルを、何よりその〈顔〉をとらえ続ける。眠ること、食べること、愛しあうことーー自分の人生と「欲望」にただ忠実なアデルという存在そのものが、彼女の〈顔〉に顕現するのである。
 その一方でアデルは、周囲から文学的な才能を指摘されてもあくまで堅実というか“平凡”な生き方を選ぶ。幼稚園や小学校の教員となって、エマと同棲するようになればせっせと料理をつくるばかりだ。ブルジョワの家庭に育ち、画家をめざす野心的で奔放なエマにとって、「私の美の女神[ミューズ]で、創造の源泉」だったはずのアデルが、だんだんとその保守的かつ小市民的な“退屈さ”ゆえに彼女への愛情が薄れていったとしても、仕方がないだろう(……いや、決して「仕方ない」どころか、そんなエマの“傲慢さ”にぼくたち観客は正直苛立つ。ーーエマの心が自分から離れつつあると感じたアデルが、そのさびしさから学校の同僚である男と関係を持ち、それを知ったエマは、泣きじゃくりながら謝罪するアデルを売春婦呼ばわりしてアパートから追い出す。その無慈悲なまでの非情さは、エマにとってアデルがこのときすでに愛の対象ではなかったことを、はっきりと示すものだろう)。
 結局、あんなに愛しあったはずのふたりは別れ、アデルは傷心を抱えたままそれでも教師としての淡々とした日々を生き続ける。やがて、意を決してエマとの再会を果たした時も、すでにあらたなパートナーと暮らしているエマの心を取り戻すことができないことを、思い知るばかりだ。そして、画家としてはじめての個展を開くエマに招かれ、青いドレス姿でレセプションに出席したアデルは、かつて彼女がモデルをつとめた絵を前に、もはやエマにとって自分が決定的に「過去の存在」となっていることに気づかされるのである……
 以上、この映画の「物語」だけを追うなら実に他愛ないというか、“ありきたり”なものでしかないだろう。偶然出会ったふたりが愛しあい、しばらくは幸せな日々を過ごす。だが歳月がすぎゆくなか、ささいな心のすれ違いから決定的な破局を迎えてしまうーーなどというアデルとエマの関係は、たまたま相手が同性だったというだけで、どこまでもありふれたものだ。
 けれど、そういう「退屈」なはずの光景を、ぼくたちはそれこそ2時間59分にわたって息づまる思いで凝視し続け、心揺さぶられ、見終わった後もなおその光景をひきずり続けることになる。この映画を見るわれわれは、アデルの生きざまを通して、誰もが多かれ少なかれ身に覚えのある感情や記憶が呼び覚まされていくことになるのである。そのとまどいとかすかなおののきこそ、「過激」なセックス場面より以上に観客にとって真にエモーショナルな“体験”であるにちがいない。そうして、いつしかアデルの人生がぼくたちにとっても「かけがえのないもの」に思えてくるのだーー彼女の、その喜びや苦悩や悲嘆のすべてをひっくるめて。
 ここで唐突だが、古代ギリシャの哲学者プラトンは『饗宴』のなかで、ソクラテスたちに〈エロス〉の神についてさまざまな議論をさせている。そこでアリストファネスの言葉として、有名な「両性具有者[アンドロギュヌス]」の寓話が登場するのをご存知の方も多いだろう。そこで語られるのは、太古における人間が《現在と同様なものではなく、まったく違っていた。第一に、人間の性には三種あった。すなわち現在のごとく男女の両性だけではなく、さらに第三のものが、両者の結合するものが、在ったのである。》(久保勉・訳。以下同)その「第三のもの」が、アンドロギュヌスと呼ばれたのだと。そして、このアンドロギュヌスが神に反抗したので、最高神ゼウスによって真っぷたつにされ、以来彼らは失われた“半身”を求めて、お互いに結合しようと欲するようになった。それが「男女の愛の起源」である。
 同じようにこの時、男も女も、人間たちは真っぷたつにされていた(なぜなら、彼らもまた2体でひとつだったからだ)。こうして彼らも、男は同じ男の、女は同じ女の“半身”を求めてさまようことになったのだった。
 ……異性愛[ヘテロセクシャル]も同性愛[ホモセクシャル]も、ふたたび2人でひとつだった「全きもの」であることに憧れ、追い求める。それが「エロス(=愛)」と呼ばれ、《われわれが愛の目標に到達し、そうしてあらゆる人が昔ながらの本性(原形)に還元しつつ自分のものなる愛人を獲得する時、ただその時にのみ人類は幸福になることができる》。つまり、真に「半身(=愛する者)」と出会えた人間こそが幸福なのだというのが、アリストファネスの結論だ。
 対してソクラテスは、《私の説では、エロスの追求するのは半身でもなければ全体でもない、友よ、それが少なくとも同時にちょうど一種の善きものでないかぎりは》とのべる。その「善きもの」とは、単に愛する者やその肉体の美しさというのではない、《一つの美しき肉体から二つのへ、二つのからあらゆる美しき肉体へ、美しき肉体から美しき職業活動へ、次には美しき職業活動から美しき学問へと進み、(中略)結局美の本質を認識するまでになることを意味する》のだ、と。
 この『アデル、ブルーは熱い色』のフランス語原題は、「アデルの生涯 第1・2章」という。アデルの高校時代から教員となった20代前半までを描く本作は、まさにひとつの美しい「半身(=エマ)」と出会えた幸福の絶頂から、その喪失の悲しみをつづった物語だ。しかしそれは、プラトンが『饗宴』のなかでソクラテスに語らせる「美しき肉体から美しき職業(……そう、どんなに傷心の最中であっても、アデルは「教師」という職業をやり通すのだ)」へ、そしてさらなる“高み”へと至る彼女の人生の次章ーー「第3章・第4章」を予感させるものであるだろう。
 愛と孤独を経ることで、人間としての“高み”へと向かうこと。そういった、人間が人間であることの〈本質〉へと開かれたこの映画を、文字通り身体を張って(!)演じ支えきったアデル役のアデル・エグザルコプロスと、エマ役のレア・セドゥに、ぼくもまた心からの賞賛を贈ろう。

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