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いつかどこかで見た映画 その60 『泥棒役者』(2017年・日本)

監督・脚本:西田征史 撮影:相馬大輔 出演:丸山隆平、市村正親、石橋杏奈、宮川大輔、片桐仁、高畑充希、峯村リエ、ユースケ・サンタマリア

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 コメディ映画のひとつの定石というか“黄金律[セオリー]”とも言うべきものに、ウソつきは泥棒ならぬ「喜劇のはじまり」というものがある(……とは、今ぼくが思いついた「ウソ」です)。ひとつのウソがきっかけとなって、事態が思わぬ方向へと進んでいく。あるいはウソがウソを呼んで、主人公をのっぴきならない状況へと追い込んでいく……。そう、いずれにしてもウソを何とか取りつくろおうとする彼なり彼女なりの悪あがきが、「笑い」を生みだす原動力となる、というものだ。
 たとえばそれは、チャップリンの『街の灯』における、盲目の花売り娘に大金持ちとかん違いされた無一文の放浪者チャーリーのように、いやおうなく「ウソつき」にされた場合もあれば(……その「ウソ」をつきとおすためにチャーリーは涙ぐましい奮闘努力を重ねることになる)、カネと美女のためにウソとペテンの限りをつくすマルクス兄弟の一連の作品のような悪漢譚[ピカレスク]もある。あるいは、善良な男が新聞のニセ記事によって一躍「時代(とき)の人」となり、いやおうなく新聞記者の仕組んだウソの犠牲になっていくフランク・キャプラ監督の『群衆』などは、その“応用形”だろうか。
 その他にも、王女と新聞記者がお互いに身分を偽ったまま恋に落ちる『ローマの休日』や、悪徳ボスに詐欺師たちが挑むダマしの応酬に観客までもがまんまとダマされる『スティング』等々、いかに多くのコメディ映画が「ウソ」によって成り立ってきたことか。そもそも映画そのものが「虚構[フィクション]」なのだから、映画とは「ウソ」をつくことこそがひとつの〈原理〉なのだ、とすら言えるのかもしれない(……もちろん、「ウソ」をめぐる映画がすべてコメディ作品であるはずはない。ひとつの心ないウソによって運命を狂わされたり、破滅させられるといった悲劇的なドラマも、それこそ枚挙にいとまがないだろう。が、ウソが現実には忌むべきものであり、そういった人間の弱さや醜悪さをそれこそ「露悪的」に反映した物語[フィクション]は、やはりどうしても醜く、やるせない……)。
 脚本家の西田征史による監督第2作目の『泥棒役者』もまた、そんな「ウソ」をめぐるコメディ映画だ。しかもウソつきは泥棒のはじまりならぬ、“泥棒がウソをつく”ことで、事態がどんどんとのっぴきならない状況におちいっていく。その右往左往ぶりをめぐる、抱腹絶倒のドタバタ劇なのである。
 ……かつて、先輩に誘われるまま泥棒稼業に手を貸し、少年院に入所していた過去をもつ大貫はじめ(丸山隆平)。今は町工場で溶接工として真面目に働き、藤岡美沙(高畑充希)という恋人とアパートで同棲生活をおくっている。 
 そんな、つつましくも幸せな日々をおくるはじめだったが、美沙の誕生日に、ふたりで外出しようと待ち合わせていた彼の前に現れたのは、かつての泥棒仲間である先輩の畠山則男(宮川大輔)だった。刑務所から出所して働き口もなく、また泥棒に手を出そうとしていた則男。そこで、手先が器用で鍵開けの名人だったはじめを、引き入れることにしたのである。必死に断るはじめだったが、「おまえの彼女に少年院に入っていたことをバラすぞ!」と脅迫する則男。美沙に過去を知られたくないはじめは、仕方なく則男とともにとある屋敷に盗みに入ることになる。
 きちんと更正したはずが、昔の仲間によってふたたび悪の道へ引き戻されてしまう主人公。とは、ありふれた設定ではあるものの、気が弱くて心優しいもじゃもじゃ頭のはじめと、いかにもすさんだ眼差しと荒っぽい物腰の則男というコントラストは、その見た目からしてキャラが立っている。さらに、無事に忍び込んだまではよかったものの、留守だと思っていた屋敷内に次々とこれまたキャラが“濃ゆい”というか際立った人物たちが訪ね現れるのだ。そして居合わせたはじめのことを、それぞれ泥棒とは「別の人物」と勝手に思い込むことで、その「喜劇性」は最高潮に達するのである。
 まず突然に玄関から現れたのは、油絵の教材セットの訪問セールスマンである轟良介(ユースケ・サンタマリア)。則男は死角だったものの、はじめはしっかり姿を見られてしまう。が、はじめをこの屋敷の主人と一方的にかん違いした轟は、強引にセールスを開始する。
 何とか轟を追い出したはじめだったが、今度は本物の家主・前園俊太郎(市村正親)が別の部屋から現れたではないか。今度も則男はクローゼットに隠れたものの、はじめは前園と鉢合わせて万事休す。しかし絵本作家の俊太郎は、はじめのことを出版社から来た新しい編集者だと、これも勝手に思い込んでしまう。
 何とか編集者になりすまし、ここもどうにか乗りきったはじめだが、スキをついて逃げようとした彼の前に、今度は本物の編集者である奥江里子(石橋杏奈)が登場する。彼女は彼女ではじめのことを前園俊太郎とかん違いし、逃げようとするはじめを家のなかへと押し戻す。彼女は上司の編集長(峯村リエ)から、今日こそは締め切りをすぎた前園の原稿を何があっても受け取るよう厳命されていたのだった。
 と、そこへ、ふたたび訪問セールスマンの轟良介が現れる。しかも轟を俊太郎が家のなかに引き入れてしまったことから、はじめは彼ら3人を相手にますます窮地に立つことになるのである……。
 こうして、各人から「屋敷の主人」「編集者」「絵本作家」に間違えられた「泥棒」のはじめは、それぞれの“役”を演じるハメになる。同時に、前園俊太郎のことは自分のことを“前園だ”と信じ込む「認知症の家政夫」に、奥江里子のことは「自分の“奥”さん」に思わせることで、その場その場の辻褄を合わせようとするのだ。
 さらに、クローゼットに隠れたままの則男は、この期におよんでなお金庫を狙い続けているし、さらにさらに、前園家の隣に住む自称ミュージシャンでユーチューバーでクレーマー(笑)の高梨仁(片桐仁)までからんでくる始末。ーーいやはや、このカオス的状況にあって狂奔するはじめ(と、彼を演じる丸山隆平)のその涙ぐましいまでの“迷優”ぶりは、滑稽さを超えてもはや感動的ですらある。
 もっとも、そういった「いかに主人公のはじめ(と、クローゼットに隠れたままの則男)はこの窮地を脱するか、否か」といった設定の面白さだけなら、この映画は単によくできたドタバタ劇というか「笑劇[コント]」でしかないだろう。この映画の魅力であり面白さは、あくまで登場人物たちそれぞれのキャラクター造形にあり、彼らがドラマを引っぱっていくそのダイナミズムにあるのだから。前作『小野寺の弟・小野寺の姉』においても、かつてぼくは、《西田征史は、まず物語ありきのストーリーテラーというよりも、キャラクターたちの『関係性』においてドラマをつみあげていくことに天性の才を持っている》と書いたものだった(またここでも掲載するつもりです)。この“ありえない状況のありえない群像劇”を描いた本作もまた、そんな物語の「設定」以上にキャラクターたちの「関係性」こそが、ひとつの「劇[ドラマ]」を生み出しけん引していくのである。
 そのうえで、これも西田征史が脚本を担当した作品のつねだが、今回も“伏線[ネタ]”の思いがけない落とし方というか、回収の仕方の鮮やかさたるやどうだ。ここでは『タマとミキ』という1冊の絵本が、幼い頃に両親を亡くしたはじめの心のよりどころであり、作者である前園俊太郎にとっては、亡き妻へのある深い悔悟の念からその続編がどうしても書けないものであり、編集者の江里子(と上司の編集長)にとってはその続編こそがほしいのであり、則男が狙うのも金庫内にある絵本の「元原稿」という、ドラマにおけるひとつの動機であり“仕掛け”となっている(……ヒッチコックがいうところの「マクガフィン」だ)。が、それ以上に、映画は最後にその絵本こそが登場人物たちを“救済”し、ドラマを大団円に導くものであることを示してみせるのである。
 ……自身の小説による西田監督の前作『小野寺の弟・小野寺の姉』を、ぼくは原作のほぼ忠実な映画化であることで《作品からはかえって彼ならではの世界が、“らしさ”が少しく失われてしまった。(中略)“自分らしさ”にこだわったことで、“自分の映画らしさ”を見失うことはなかっただろうか》とも書いた。それは作品をじゅうぶんに評価したうえでなお、西田征史の脚本作品を愛してやまない「西田フリーク」としての“あえて”の注文であり苦言なのだった。
 だが、これまた自身の作・演出になる舞台を映画化した今作については、あるインタビューで《舞台版はコメディを前面に出していたので、泥棒がいかに逃げるかということよりも、笑いを優先していたんです。一方で映画版は、勢いだけでじゃなく物語で笑いを見せる「大人も楽しめる喜劇」にしたいという思いがあった》と語るように、大胆に再構築[アレンジ]することで、これぞ西田征史の真骨頂! と言うべき“世界[テイスト]”を達成し得たのではないか。何よりそのことが、ぼくにはうれしいのである。 
 そして西田征史は、何より筋金入りの「性善説」の信奉者である。たとえどんな人物像[キャラクター]であっても、映画は彼ら「人間[キャラ]たち」のものであり、「人間たち」こそを活かさなければならないと信じている。そうして最後に彼らは、どんなかたちであれ決して見捨てられることなく、ささやかに“祝福”されるのだ。
 そういった映画を見ることは、ぼくたち観客にとっても大いなる歓びであり、なぐさめであるだろう。ーーフランク・キャプラ監督の敬作『スミス都へ行く』のなかの台詞をもじって言うなら、「映画とは“お人よし”と呼ばれた人々の信念のたまものである」と、西田征史の作品を見るたびにぼくは思うのである。

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