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いつかどこかで見た映画 その45 『しあわせはどこにある』(2014年・イギリス)

“Hector and the Search for Happiness”
監督:ピーター・チェルソム 脚本:マリア・フォン・ヘランド、ピーター・チェルソム、ティンカー・リンジー 出演:サイモン・ペッグ、ロザムンド・パイク、トニ・コレット、ステラン・スカルスガルド、クリストファー・プラマー、ジャン・レノ、ヴェロニカ・フェレ、クリス・ゴーシャー、伊川東吾、ジェイコブ・デイヴィーズ、チャド・ウィレット、ガブリエル・ローズ

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 映画『しあわせはどこにある』のなかで、“しあわせとは何か”を知るための旅に出発する主人公が、リュックサックにしのばせてあった恋人からの贈り物を見つける場面がある。それは1冊のノートブックで、上質そうな革製のカバーには複葉機のイラストがあしらわれている。なかを開くと、最初のページには「空白を埋めて!」のメッセージと彼女の顔写真。喜んだ主人公は、さっそく雲と飛行機のらく書きを描きだす。と、その絵がアニメーションとなって動きだすのである!
 その後もこのノートは、重要な小道具となって繰り返し登場するのだが、とにかく最初にその茶色い表紙が取り出されたとき、思わずぼくの目はくぎづけとなり、続いてニヤリとなった。その後も主人公がノートを取り出すたびに、ニヤニヤがとまらなくなってしまったのである。そう、色あいや細かな造作はちがうのだけれど、丸みのある角やゴムバンド、しおりなど、あきらかにそれはモレスキンのノートブックっぽくあしらったものだったからだ。ーーああ、ここにも「ブルース・チャトウィン愛好家」がいた!
 ……ブルース・チャトウィンとは、作家の池澤夏樹氏によれば《才気と旅行欲のかたまりのような男で、すばらしい文章を書いたが、しかし、四十八歳で死んでしまった。なかなかのハンサムで、彼を個人的に知っていた人に言わせると、ものすごくチャーミングだったという》(『読書癖』より)、現代英国のカリスマ的な作家だ。若くしてサザビーの美術鑑定士という要職につきながら、突然すべてをなげうって南米パタゴニアを皮切りに、アフリカ、オーストラリアなど世界中を放浪。そのあいまに紀行エッセイや小説を書き、風土病だかエイズだかでこれまた突然亡くなった。その生前最後の著書となった『ソングライン』に、こんな一節がある。
《私はポケットから黒いオイルクロス張りのノートブックを取り出した。ノートのページはばらばらにならないようにゴムバンドでとめてあった。》(芹沢真理子・訳)
 この黒いノートブックこそモレスキンで、チャトウィンが「ノートをなくすことはパスポートをなくすことより一大事だ」と、生涯にわたって愛用してきたものだ。彼は旅のなかで、ふと心に浮かんだ思想や格言、書物から抜きだした文章、人々との出会い、物語の断片などを、ノートに書きつづった。その一部を、『ソングライン』の後半部分でぼくたちは読むことができる。
(……ところで、現在発売されている「モレスキン」のノートブックは、実際のところチャトウィンが使用していたものと「同じ」ものではない。パリの小さな製造業者によって100年以上前から作られ、古くはゴッホやピカソ、ヘミングウェイなども使っていたという“もぐら皮革[モールスキン]”装丁のノートブックは、1980年代半ばに業者の倒産によって消えてしまう。このノートブックを「モレスキン」と呼んで愛してきたチャトウィンが、それを知って手に入るすべての品を購入しようとした経緯は、『ソングライン』にも書かれている。それを、1997年にイタリア・ミラノの小さな出版社が「モレスキン」ブランドの名のもとに甦らせ、今にいたるというもの。なんだか名声だけを利用しただけのようにも聞こえるが、実際にモレスキンのノートを手にすれば、やっぱり“格別”感がある。お高いですが。)
 そして、フランス人精神科医によるベストセラー小説を映画化したこの『しあわせはどこにある』のなかでも、主人公は世界中を旅しながら、各地で出会った人々から得た「幸せについての示唆[ヒント]」を、せっせとノートブックに書きとめる。時にはこの1冊が、文字どおり彼の生命を救う(!)のである。
 ……サイモン・ペッグ演じる主人公の名は、ヘクター。ロンドンの精神科医として多忙な日々をおくり、恋人のクララ(ロザムンド・パイク)との仲も順調だ。が、カウンセリングで外来患者たちの相手をしながら、いつしか彼自身が人生への疑問と虚無感に苛まれている。
 このままでは自分も患者も不幸になる、とヘクターは「幸せについての調査」のために旅に出ることをクララに告げる。実は、学生時代の親友とガールフレンドにも会う予定の旅だったが、もちろんそのことはクララに言わないまま(……卑怯!)。もっとも、ヘクターたち3人の写真でその存在を知っていたクララは、すべて察知している風だ。それでも、何も告げずにヘクターを笑顔で送り出すーーまったく、なんてできた女性だろう!
 こうして、中国の上海からチベット、アフリカ、アメリカのロサンゼルスと、3大陸にまたがる旅に出発したヘクター。上海では飛行機内で知り合った裕福な銀行家エドワード(ステラン・スカルスガルド)と高級ナイトクラブで遊び、イン・リー(ミン・チャオ)という魅力的な若い女性に惹かれてしまう。一転してチベットでは、仏教徒の老僧(伊川東吾)のひょうひょうとした生き方にふれ、その叡智に感銘を受けたり。
 続いてのアフリカでは、紛争地域での医療ボランティアに従事する学生時代の親友マイケル(バリー・アトスマ)を訪ねる。そこでは麻薬王ディエゴ(ジャン・レノ)とうまがあって親交をあたため(?)、一方では武装ギャングの一味に捕らえられて絶体絶命の危機に陥りながらも、例の「ノートブック」による機転で助かったり、のひと幕も。
 次に向かったロサンゼルスでは、学生時代の恋人アグネス(トニ・コレット)と再会。彼女は2児の母で、お腹には3人目の赤ん坊がいる。幸せそうなアグネスにヘクターはつい昔の感傷にひたって、彼女から「いいかげん前にむかって進みなさい!」と叱られる。実は、旅行のあいだヘクターはネットや携帯電話でクララと連絡をとっていたのだが、次第におたがいの気持ちがぎくしゃくしていたのだった。そして、アグネスが助手をつとめている神経科学者で「幸福研究家」のコアマン教授(クリストファー・プラマー)と会い、教授が開発した“感情による脳内変化を色彩化してモニターで見ることができる(?)”装置のテストを受けるヘクター。が、まさにそんなとき、クララから電話がかかってくるのだ……
 世界を股にかけた旅を続けながら、様々な人物と出会い、悲喜こもごもの騒動に巻きこまれ、それをせっせとノートブックに書き込むヘクター。それは「しあわせ探し」というより、どこか「旅する」ことそれ自体の衝動に突き動かされたかのようにも見える。
 そういえば映画の冒頭は、助手席に愛犬を乗せて旧式の複葉機で大空を駆るヘクターの姿ではじまるのだった。だが、飛行機が宙返りをした拍子に相棒の犬は落っこちてしまい(!)、呆然としているヘクターを、今度は突然現れた悪漢が襲う! ……とまあ、すべてはヘクターの見た“悪夢”だったというオチがつくのだが、後でわかるように少年時代からヘクターの愛読書であるフランスの古典的なコミック『タンタンの冒険』のパロディめいたこの冒頭場面(……そういえばサイモン・ペッグは、スピルバーグが映画化した『タンタンの冒険 ユニコーン号の秘密』の出演者でもある)は、ヘクターのその後の“運命”を予告すると同時に、彼の「旅(=冒険)」への衝動がどこにあったかを暗示するものでもあったのだ。
 結局のところ、「幸せについての探求」がどうなったか。その“成果”は実際に映画をご覧いただくとしよう。ひとつだけ言うとすれば、様々な出会いといくつもの“幸せについての「ヒント」”を得ながら、旅のあいだヘクターは少しも「しあわせ」そうじゃないってことだ。その理由を、ヘクターはもちろんぼくたち観客も、映画の最後に知ることになる。とはいえ、その「理由」自体は予想されていたというか、はじめからわかりきったことじゃないかーーと、映画を見たあなたは思うかもしれない。
 しかし、その「わかりきったこと」に気づくため、ヘクターにはこれだけの大冒険が必要だった。なぜなら、彼は(というか、彼の“魂”は)旅に出るずっと前から「彷徨」していたからだ(それを象徴するかのように、画面に登場する「少年ヘクター」の寂しそうなたたずまい……)。だからこそ、自分の今いる「場所(=現実)」から離れることで、あらためて“自分が還る「場所」”を見出すことが必要だったのである。
 人類学者の今福龍太氏による、チャトウィンについてのこんな一節。《(……チャトウィンにとって)「旅すること」もただひたすら、未知の場所と未知の顔と未知の身体とを呆然と立ち尽くしながらまのあたりにすることだった。場所や人間のなかにひそむ不可思議な魂の実践を目撃し、それに打たれ、旅行者の月並みな期待を裏切られ、そののちに旅行者の遠心的な夢をかきたてられる……。そうであるとすれば、旅における自己の剥離は、チャトウィンにとっては自己崩壊でも悲劇でもなく、自己が帰属していると思っていた現実から引き離されてゆくことによってしか自分が生きのびる術はないのだ、という彼の哲学と世界ヴィジョンの証でもあったことになる。》(チャトウィン著『どうして僕はこんなところに』の書評より)……そう、ヘクターもまた「自己が帰属していると思っていた現実から引き離されてゆく」ことで、「自分の生きる術」を見出していった。この映画は、それを“しあわせ”と呼ぶのである。
 じゅうぶんに笑わせ、ときには人生の意味へのあたたかい洞察をも盛り込みながら(本作のなかに登場する、あの、脳腫瘍で余命いくばくもない女性をめぐる逸話[エピソード]の美しさ……)、かくも味わい深い現代の〈寓話〉たり得た本作。実のところ監督のピーター・チェルソムは、『ヒア・マイ・ソング』を見て以来ずっと大のごひいきのひとりだったんだが、ひさしぶりに会心というか本領発揮してくれたことを心から喜びたい。ーー本当に、この映画と出会えたことこそが「しあわせ」なのだ、ぼくは。

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