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いつかどこかで見た映画 その191 『君が生きた証』(2014年・アメリカ)

“Rudderless”
監督・脚本:ウィリアム・H・メイシー 脚本:ケイシー・トゥウェンター、ジェフ・ロビソン 撮影:エリック・リン 出演:ビリー・クラダップ、アントン・イェルチン、フェリシティ・ハフマン、ローレンス・フィッシュバーン、セレーナ・ゴメス、マイルズ・ハウザー、ベン・クウェラー、ライアン・ディーン、ピーター・スプリュート、ジェイミー・チャン、ケイト・ミクーチ、ウィリアム・H・メイシー


 1本の映画が「面白い/面白くない」のは、映画それ自体というより、たぶんに観客の側(の「見方」)にある、とぼくは思う。そもそも、決して安くない入場料を払うのだから、何が何でも「面白く見てやる!」つもりでなければ、観客も、映画にとっても“不幸”ではないか。そして、ぼくという観客がその映画を「面白がれた」のなら、その満足感を胸にしまい込んで、人生のおりにふれてそれを思いだすのもいいだろう。あるいは、どうにかしてその「面白さ」をだれかに伝えたい、何がどう面白かったのか“説得”したいと思うかもしれない。そうして、その見方がいくらかでもアナタに届いたーーというか“説得力”をもち得たなら、それこそが、きっとその作品の「本質[リアル]」にふれた瞬間なのだ。
 もっとも、そんなふうに見る側が「面白がる」のではなく、(よほどのひねくれ者でもない限り)誰が見ても面白い映画もまた、この世には存在する。──いや、この場合のそれは「面白さ」というより、「誰もが愛さずにはいられない映画」といった方が適切かもしれない(……なぜなら、アメリカ映画のブロックバスター大作などのように、一瞬たりとも目をはなすことができないようなめまぐるしい展開と演出やら、最新のSFXを駆使したスペクタクルな見せ場の連続やら、やたら伏線やら意表を突くストーリーやらといった、「ただ面白い」だけの映画は、そこに観客たちが自分なりに考えて見る楽しみや、思考が嗜好につながる“創造的見方”がない。それゆえそれらは逆に「退屈」だとも言い得るのだから)。何も大きな予算をかけなくても、そこには誰もが共感しひきこまれてしまう“血肉のかよった”人間味あふれるストーリーと、申し分のないスタッフ・キャストの仕事ぶりがある。何より、描くべきもの(=主題)にたいして誠実かつ最上のかたちで取り組み、観客に送りとどけてくれるようなそんな映画を、どうして愛さずにいられようか。
 そして、『君が生きた証』とは、まさしくそういった映画なのである。

 コーエン兄弟監督の『ファーゴ』や、ポール・トーマス・アンダーソン監督の作品など、「気の弱そうな小市民」キャラを演じさせたら天下一品の名優ウィリアム・H・メイシーがはじめて監督と脚本(共同)に挑み、ご愛嬌的に出演もしている本作。ここで彼が取り組んだのは、亡き息子が遺した曲を歌う父親と、彼をとりまく人間模様を描いたドラマだ。などと聞けば、誰もが「あ~あ」と思うだろう。つまり、今までにもゴマンとあった、いわゆる“最愛の人間を失った主人公の苦悩と再生を描く”といった映画なんだね、と。
 まあ、確かにその通りではある。が、一方でこの作品、そういう「予定調和[ステレオタイプ]」な展開を想定する観客こそが、実はアッと息をのむことになるだろう。平凡な、しかし、どこかひと筋縄ではいかないキャラクターを演じてきたウィリアム・H・メイシーは、自身の初監督作でもやはり“油断のならない”映画を撮った。しかもそれは、「珠玉」ということばがこれほどふさわしいものはないと思える、これまたメイシー本人のように慎ましくも本当に美しい映画なのである。

 とはいえ、映画の冒頭はかなり衝撃的だ。──大手企業との契約に成功したやり手広告宣伝マンの主人公のサム(ビリー・クラダップ)は、祝杯をあげようと、大学で寮生活をおくる息子ジョシュ(マイルズ・ハイザー)を誘う。が、結局ジョシュは現れない。あきらめて店を出ようとしたとき、サムは、テレビのニュースでジョシュの通う大学で起こった銃の乱射事件を知るのである。ジョシュは、この事件で命を失ったのだ。
 それから、2年後。会社も辞めて、湖畔で世捨て人のように孤独なヨット暮らしをおくるサム。ある日、別れた妻のエミリー(フェリシティ・ハフマン)から、彼はジョシュが遺していた自作の曲のCDやノートを手渡される。それを聴き、歌詞をたどりながら、サムはいつしかジョシュの曲をギターで奏ではじめる。そして、飛び入り自由のライブバーで歌ったことがきっかけで、音楽に情熱を燃やしながらも気の弱いロック青年クエンティン(アントン・イェルチン)と知り合い、彼の仲間たちと「ラダーレス」というバンドを組むことになるのである。
 監督であるメイシーは、インタビューに答えていわく、《ケーシー・トゥウェンターとジェフ・ロビソンによる脚本はすぐに気に入ったよ。すごく特別なストーリーだった。音楽があって、ユーモアがあって、そして登場人物が魅力的なんだ》……ユーモア? そう、悲劇的な事件が物語全体に暗い影を落としながら、この映画は、あくまで「ユーモア」を忘れない。サムを目の敵(かたき)にする湖の管理人(ピーター・スプリュート)や、頑固者だがサムやクエンティンを理解してくれる楽器店オーナーのデル(ローレンス・フィッシュバーン)とのやりとりなど、思わずニンマリとさせられるだろう。あるいは、ハンサムだが女の子に声もかけられないクエンティンのヘタレっぷりも微苦笑を誘われる。けれど、そういった“笑い”が、サムの苦悩と孤独を、あるいはクエンティンの複雑な生い立ちを、よりいっそう陰影深いものにしていくのだ。
 そして、何といっても音楽! ここで、主人公の息子が遺したという設定の曲が、全編にわたって演奏され歌われる。しかもそれを、主演のビリー・クラダップ(演技も演奏も、まさに名演!)やアントン・イェルチンたちが実際に楽器を弾きこなし、歌うんだが、その驚くべきクオリティこそこの映画の最も魅力的なポイントであるだろう。しかも、彼らが演奏するその1曲1曲には、冒頭の数シーンに登場するだけで後は“不在”のジョシュをめぐる、深い「ドラマ」が込められている。その歌に、歌詞のフレーズひとつひとつに、主人公のサム同様ぼくたちもまた、否応なくジョシュという青年の抱く苦悩や怒りや絶望と向きあわされるのである(……そういった意味でも、本作の「影の主人公」はジョシュであると言えるかもしれない。それだけ、個々で歌われる楽曲に説得力があるということだ)。

 ところでぼくは、この映画が「誰もが愛さずにはいられない」と書いた。でも実は、もしかしたら「私にはこの映画が納得できない」、もしくは「許せない」とおっしゃる向きがあるかもしれない。そう、事件そのものは直接的に描かれないものの、主人公や登場人物たちは、ずっと冒頭の「悲劇」に囚われ続けている。だのに彼らは(そして、この「映画」自身もまた)、そのことから目をそらし続けているかのようだ──ただひとり、ジョシュの恋人だったケイト(セレーナ・ゴメス)をのぞいて(主人公サムに対する厳しい「批判者」という難役を演じるこの今をときめく歌姫の、その“熱演”にも、ぜひご注目いただきたい)。ドラマ上の設定とはいえ実に重くシリアスなそれを、あたかもドラマ上の“伏線”のように扱うことは、(ケイトがサムを非難するように)やはり「許されない」ことじゃじゃないのか……。 
 確かに、そうなのかもしれない。が、映画の終盤、ようやくその「悲劇」やジョシュと向き合うことを決意してようやく涙を流すことができたサムと、これが「最後の演奏」として息子へと語りかけるように歌うその姿に、ぼくという観客は素直に感動する。たとえサムが、その後も「悲劇」を直視したり乗り越えられず、ずっと囚われたままでも、それでも人は生きていかなければならない。そういう“おだやかな「覚悟」”が、確かにそこにはあったからだ。
 ……ウィリアム・H・メイシー監督、あまり泣かせないでよ。

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