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いつかどこかで見た映画 その10 『叫』(2006年・日本)

監督・脚本:黒沢清 出演:役所広司、小西真奈美、葉月里緒奈、伊原剛志、オダギリジョー、加瀬亮、平山浩行、奥貫薫、中村育二、野村宏伸

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 黒沢清監督の「ホラー映画」に対する偏愛ぶりは、つとに有名だ。トビー・フーパーを絶賛し、ジョン・カーペンターを高く持ち上げ、中田秀夫や清水崇、鶴田法男などといった“Jホラー”ブームを担う旗手たちの作品をいちはやく評価したのも、黒沢その人だった(実際、彼らの映画のいくつかに「黒沢清」の名前は、“協力”や“監修”などといった名目でクレジットされていたはずだ)。何よりも彼自身が、『スウィートホーム』や『地獄の警備員』など、キャリアの初期からすでにこの手のジャンル作品を手掛けてきたのである。
 観客の不安や恐怖心を煽り、得体のしれない「何か」を現出させる(もちろんそれは怪物だの幽霊だのといった超自然的な存在に限らず、時に小鳥や猫、ネズミといった小動物であったり、エレベータや自動車などの現実的なものだったり、何より「人間」だったりする……)ことで、一挙に凶々しい世界へと引きずり込む。それが「ホラー映画」というものなら、確かに黒沢清の監督作品は、初期から一貫してそんな“得体のしれなさ”に満ち満ちていた。商業映画第1作『神田川淫乱戦争』や『ドレミファ娘の血は騒ぐ』、『ニンゲン合格』などの、たとえ恐怖そのものをモチーフとしない“非・ホラー”作品であっても、彼の映画は常に奇妙な「この世ならぬもの・こと」感といったらいいのか、見る者の現実感をフッと喪失させて「超現実的」な世界を垣間見せる。それこそがクロサワ映画の真骨頂なのだった。 
 もっとも、ひと口に「ホラー」といっても、たとえば『リング』の中田秀夫や『呪怨』の清水崇などの創り出すものと、黒沢清のそれとでは、どこか根底的に違うんじゃないか。なるほど、同じように邪悪な幽霊やら怨霊が出現して登場人物たち(と、観客たち)を恐怖のドン底に叩き込んだとしても、中田作品や清水作品(というか、大多数の恐怖映画がそうなんだけれど)において、それはあくまで“この現実世界内で起こった怪異談”として実感されるものだ。ーーこの世界のどこかで、誰かがとんでもなく恐ろしい目に遭っている。明日は自分にも災いが、降りかかってくるかもしれない……という不気味さこそが、ほとんどのホラー映画における「恐怖」の核心だろう。
 しかし黒沢作品にあっては、この現実世界こそが決定的な〈変容〉を遂げてしまうのだ。その“得体のしれない「何か」”が現れることで、(とりわけ、役所広司が主演する作品において)主人公は、彼自身が「何か」へと変貌してしまう。と同時に、彼をとりまく世界そのものが不可逆的に変化していくんである。……あの、『回路』や『カリスマ』のラストでぼくたちが目撃することになる光景。あれは、世界がもはや取り返しのつかない破滅[カタストロフ]的な状態に陥ったことを開示するものだった。『CURE キュア』にしても、役所広司の刑事が〈変容〉した時、世界もまたすべてが破局的な方向へと変わってしまったことを予感させるものだったはずだ。邪悪なるもの(いや、むしろそれは「悪」さえも超越した〈神〉のごとき業、と言いうるかもしれない)の存在とその意思によって、〈終末〉を迎えたこの世界……。そこに立ちこめる不吉さというか、為すすべもないという「絶望感」こそが、黒沢「ホラー」映画の〈本質〉であり、真の“恐ろしさ”なのである(たぶん、ジョージ・A・ロメロ監督による「ゾンビ」映画や「クレージーズ」あたりの初期作品が、その“救いのなさ”において感覚的に近いかもしれない)。
 ……そうして見てきた時、『LOFT ロフト』に続く最新作で、役所広司が主演する映画としては『ドッペルゲンガー』以来となる『叫(さけび)』もまた、この監督ならではの「ホラー映画」に他ならない。宣伝惹句[コピー]では“黒沢清初の本格的ミステリー”と謳われ、確かに、連続する殺人事件とその謎、そのなかで“実は自分が真犯人ではないか……?”と恐れはじめる刑事の姿(このあたり、クリント・イーストウッド主演作『タイトロープ』を思い出す向きがあるかもしれない)が描かれる。しかし監督自身が「これは紛れもなく“ゴースト・ストーリー”というジャンルの映画だ」と述べている通り、映画が始まって程なく、実にあっさりと「本物の幽霊(!)」が現れるのだ。それも、とてつもなく恐ろしい“叫び声”とともに……。
 映画の冒頭、いきなり殺される1人の女。真っ赤なドレスを着た彼女は、湾岸の埋め立て地に湧き出た水たまりで、男に顔を押しつけられて“溺死”する。ロングのワンカットで展開されるこの場面は、まさに「黒沢清テイスト」が全開といった趣でゾクゾクさせてくれる。押し倒され、顔を水たまりに浸けられてバタバタと手足を昆虫のように動かしながら、やがて息絶える赤いドレスの女。そのまま放置された彼女を捉え続けるカメラの、まさしく“機械[カメラ]的”に無機質な眼差しこそ、確かに『CURE キュア』の監督ならではのものだろう。
 とともに、「赤いドレス」ということで、『回路』におけるあの忘れがたい“赤い服を着た女の飛び降り自殺”場面が想起され、と思ったら、同じように本作でもワンカットで男が高所から飛び降りるシーンが登場する。さらに終盤近く、役所広司の刑事が抑圧=封印していた自身の「ある秘密」と向かい合い、それとともにこの世界が“崩壊”していく様を目撃するといった黙示録的な展開は、やはり『カリスマ』と通底するものがあるじゃないか。……そう、『叫』は7本に及ぶ黒沢清=役所広司のコンビ作品の、ある意味で集大成のような映画だといって良いのかもしれない。ここには、「黒沢清のフィルム」のエッセンスが凝縮されているのだ。
 だからといって、そこに「自己模倣」めいた匂いを嗅ぎとることは、端的に間違っているだろう。なぜといって本作には、これまでの黒沢映画が(あえて?)直截的に向けようとしなかった「作品の〈外〉」への眼差しーー現実の〈社会〉と向かいあい、直視するという新たな方向性が実践されているのだから。
 たとえば、黒沢清の映画にあって常に満ち満ちていた〈死〉。今回の『叫』でも、前述した通り赤いドレスの女が死に至るまでの映像[ショット]や、風景のなかに忽然と現れる幽霊など、〈死〉をめぐるその映像[イメージ]は、黒沢作品にあって極めて「リアル」な感触を持っている(だからこそ、それは“恐ろしい”のだ……)。だがこれまでの黒沢作品では、〈死〉をリアルに形象しながらも、見終わった後に残るのはどこか幻影(そう言えば、黒沢清には『大いなる幻影』という作品もありましたね)めいた非現実[アンリアル]感こそだったはずだ。彼の映画にある種の難解さというか、取っつきにくさがあるとしたら、“この世界と似た「もうひとつの世界」”を幻視し、それをあらためてこの世界と重ね合わせるよう見るよう、観客に要請してくることにある。その時、それはひとつの《寓話》に他ならない。
 実際『カリスマ』など、「人は自然状態にあると自己保存の権利を行使しあい、果てしない死闘に明け暮れる」という哲学者ホッブズの『リヴァイアサン』そのままに展開される、まさに哲学的な寓話そのものだった。そこに、「9・11」を頂点とするこの現実を重ねる時、はじめてこの映画の“恐ろしさ”が真に迫ってくるだろう。けれど、あくまでも黒沢清は「絶えざる恐怖と暴力と死」に満ちたこの世界を、「もうひとつの世界」に託して描いたのだった。なぜなら、たぶん、おそらくその「世界」でしか幽霊や〈死〉はリアルなものとして成立し得ないからだ。
 「幻視家」黒沢清……。しかし『叫』のなかで、湾岸の埋め立て地が舞台に選ばれ、頻発する地震が描かれ、朽ち果てようとしている廃墟が登場する時、紛れもなくこれが“阪神淡路大震災と同時多発テロ”以後を生きるこの世界そのものであること、その〈現実〉のなかに、幽霊を、〈死〉を召還(!)したものであることを、ぼくたちは知ることになる。
 もう一度、映画の冒頭における殺人場面を振り返ってみよう。あそこで赤いドレスの女が顔を浸けられる水たまり。その直後、役所広司扮する主人公と恋人の小西真奈美が地震に出会い、まもなく、あの水たまりが雨水などではなく「海水」だと語られる時(その後、異なる犯人による2つの殺人事件が描かれ、いずれも海水を使って溺死させる手口の一致が、『CURE キュア』を想わせる“謎”を形成するのだが……)、そこに起こっているのが、海を埋め立てた土地の液状化現象であることをあからさまに暗示しているのだと、観客は気づかされる。言うまでもなく「液状化」とは、埋め立て地がふたたび“海”に戻ろうとする現象に他ならない。
 そして、幽霊は、まさにそんな、埋め立てられ、今は放置されたままの「忘れられた土地」に平然と現れ、叫び声をあげるのだ。またも黒沢清監督自身のことばを借りるなら、「人が、直面することを最も恐れる過去、それが幽霊の正体だ」としたなら、その時、幽霊とは、この土地とともに忘れ去られた「過去」そのものなのである。こうして、「人と幽霊との、現在と過去との奇妙な葛藤の物語」が、極めてリアルな風景のなかに展開されていく。もう一度繰り返そう、たとえ超現実的な“幽霊譚”であったとしても、黒沢監督がここまで「現実」的な世界像[ヴィジョン]を提示したことは、かつてないことだ。これは「黒沢清映画」の集大成であると同時に、さらに大きな作家的視野[ヴィジョン]を獲得した作品としてあるに違いない。……クロサワ、恐るべし。
 最後に。物語のなかでいくつもの“仕掛け”を施された作品である以上、どうしても内容についてほとんど触れられなかったことを、お断りしておきます。そしてあとひとつ、ーーはっきり言ってこの映画、これまで黒沢清の監督作品にくらべて「面白さ」において群を抜いている。その上で、『LOFT ロフト』とはまた違った“愛”と“救済”のドラマとしても、深く心に残るものだと思う。ーーたとえ最後の、「私は死にました。みんなも死んでください」のリフレインに心底震え上がったとしても!

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