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いつかどこかで見た映画 その15 『三姉妹 雲南の子』(2012年・香港=フランス)

“三姊妹”
監督・撮影:王兵(ワン・ビン)

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 この世で何がつらいといって、年端もいかない子どもたちの“受難劇”を見聞することほどやるせなく、耐え難いものはない。テレビのニュースや新聞などで、親や大人たちによる虐待やら殺人が報じられたり、子どもたち同士による凄絶ないじめが取り上げられたりするたび、もうたくさんだ……と目を背け耳をふさいでしまう。もちろんそれは、決して「いい人」ぶってるんじゃなく、そんな、この世で最も残酷かつ非道なふるまいを直視する“強さ”が、ぼくという人間に決定的に欠如してるということに他ならない(そして、そういう問題というか「現実」を見て見ぬふりをする態度こそが、やがては加害者側に荷担する最も卑劣なものであることを、ぼくは絶えず自責しなければならないだろう……)。
 映画にしても同様だ。苛酷な状況におかれた子どもたちを描く作品に対しては、たとえそれがフィクションだとしても腰が引けてしまう。平山秀幸監督の『愛を乞うひと』や、阪本順治監督の『闇の子供たち』など、確かに見ておいて良かった秀作だとは思うものの、たぶんもう一度見直す勇気というか“根性”がぼくにはない。トルコからスイスへ違法入国しようとする父子の姿を追った『ジャーニー・オブ・ホープ』を見た時は、あの結末に心が折れて、半日くらい立ち直れなかったものだ……。以来、「子ども(たち)」がメインで登場する映画には、たとえどんなに前評判が良くてもつい躊躇してしまう。いや、実に情けないハナシだが。
(……ところで今、唐突に思い出したのだけれど、そういった“悲惨な子どもたち”の映画に対する苦手意識は、たぶん小学生の時に学校の講堂で見せられた『綴り方兄妹』という作品が“原点”にある。貧困・差別・障害などにさらされながら、それでも「綴り方(=作文)」に自己表現を見出してけなげに生きていこうとする幼い兄妹たち。しかし、貧しさゆえに弟はなすすべもなく死んでいく……。あの映画から受けた、感動とも違う痛みと「衝撃[トラウマ]」の深さは、今なおぼくという人間を呪縛している)。
 そんな人間にとって、《中国最貧困と言われる雲南地方の村。三人だけで暮らす幼い姉妹がいた。びゅうびゅうと風は吹き続け、その風にいのちが拮抗する》(宣伝用チラシより)という内容の、しかもドキュメンタリーなど、まず真っ先にさけて通りたい映画ではないか。では、どうして見たのか? もちろん、これが王兵[ワン・ビン]監督の作品だからである。
 もっとも、ぼくはこの監督の代表作ともいえる『鉄西区』をはじめ、これまでのドキュメンタリー作品を残念ながら見ていない。初の長編劇映画である『無言歌』には、そこで描かれる収容所内の人々のほとんど無慈悲なまでに苛酷な生態と、そんな人々の姿などまるで無関心に現前する大地=自然の、これまた無慈悲なまでの美しさの対比に圧倒された。が、一方で、まさにその「無慈悲さ」こそをねらったのだという“計算”が、どこか透けて見える気がしたのも事実なのである(もちろん、それこそが劇映画としての“演出”というものじゃないか、と承知しつつ……)。
 ふたたびドキュメンタリーの世界に戻ったこの『三姉妹〜雲南の子』は、だからぼくにとって国際的に注目されるワン・ビン監督の真価を、あらためて確認する機会なのだった。そして結論から言おう。見終わって、いや見ている途中からすでにぼくという観客は、そういう姑息(!)な批評意識などすっかり忘れて、ただ画面を凝視し続けるばかりだった。そこに映し出されるひとりの少女から、もはや目が離せなくなっていたのである。
 先にも触れたように、この作品が描くのは中国・雲南地方の小さな村で暮らす3人の姉妹だ。10歳の長女・英英[インイン]、6歳の次女・珍珍[チェンチェン]、4歳の三女・粉粉[フェンフェン]という彼女たちは、母親が家出し、父親は町に出稼ぎに出て長く帰ってきていない。幼い妹たちの面倒を見たり、家畜の世話や野良仕事をこなすのは、姉であるインインの役目だ。 
 時々は近所の伯母一家や祖父に食事などをもらっているが、まだ10歳の少女が幼い妹たちとの生活を支えているという事実に、まず驚かされる。当然ながらその暮らしぶりは、あまりにも貧しい。電気も通っていない家の中にはほとんど何もなく、姉妹たちはいつも同じ服を着ている。そして、ほとんど唯一の作物であるジャガイモを茹でて食べ、寝て、起きたら家畜(……彼女たちの家には2匹の豚がいて、それ以外の豚や羊、山羊などは伯母さんの家のものらしい)のエサを作ったり、逃げないように番をしたり、おそらく燃料用の馬糞を拾ったりの繰り返しという毎日。一応インインは村の小学校に通っている(……おそらく、この映画のなかでインインが10歳の少女らしい顔を見せる数少ない場面こそ、この学校での授業風景だ。黒板を食い入るように見つめる彼女のまなざしの、何という愛しさ)が、そこでも他の生徒たちがお菓子などを買い食いしているのを、ただだまって見ているだけなのである。
 もっとも、インインたちばかりが貧しいのではなく、この村全体があまりにも貧しいことが、だんだんとわかってくる。なるほど、伯母さんの家にはテレビがあるけれど、村の子どもたちは親たちの仕事を手伝わされ、大人たちは、国から通達があった医療保険のためのわずかな支払いすら困難な状況なのだ。 
 だから映画を見ていると、逆にインインたち姉妹の屈託のなさというか“たくましさ”にこそ感嘆することになる。その悲惨ともいえる貧しさや困難な境遇に同情したり胸を痛めたりするのではなく、日々の生活風景を通して、彼女たちの「生命力」にぼくたちは圧倒されてしまうのである。
 ……フランスの歴史家フィリップ・アリエスは、『〈子供〉の誕生』という著書のなかで、近代を迎える前の古い社会にあって「子ども」という概念は存在していなかったと書いていた。中世まで子どもといえば乳呑み児のことで、ものごころがつく頃には「小さな大人」として、親や村など共同体内の大人たちといっしょに働いていたのだと。《かつて子供は「小さな大人」として認知され、家族をこえて濃密な共同の場に属していた。そこは、生命感と多様性にみちた場であり、ともに遊び、働き、学ぶ「熱い環境」であった》(杉山光信・杉山恵美子訳)。
 だが、それは時代の古い新しいではなく、人々のおかれている社会状況や環境によるものではないだろうか。この映画で描かれる、標高3千メートル以上に位置する小さな村のように、誰もが生きていくために働かなければならない場所では、たとえ10歳の少女であっても否応なしに「小さな大人」にならざるを得ない。インインが「子ども」に戻れるのは、学校の教室か、同年代の村の子どもたちといっしょにいる時だけなのだ(……村の男の子と馬糞拾いをしながら、「今度、うちに遊びに行ってもいい?」と訊ねるインイン。映画のなかでほとんど常に無表情の彼女だが、学校の教室とともに、ここでは普通の“10歳の少女”らしい表情を見せてくれることに、ぼくたち観客は心からホッとし、胸を打たれるだろう)。
 一方でこの映画は、そういった村が《生命感と多様性にみちた場》であることも忘れてはいない。映画の冒頭から作品を満たす、豚や犬、羊、ニワトリなどの、その賑やかな鳴き声。それは、“姉妹やこの村の人々が家畜と同次元で生きている”という悲惨さの表象というより、むしろこの貧しい土地の村が思いがけず《生命感》に満ち満ちた場所であることを印象づける。だからこそ彼女たち幼い三姉妹もまたこうして生きていけるのだなと、ふと納得してしまうのだ(ただ、映画の最初から最後まで咳き込み続けるインイン。その「咳」だけは、どこか不安な思いを抱かせられるのだが……)。そこでは、小学校の前で平気で豚を屠る大人たちがいる。しかしそれを野蛮だとか、文化水準がどうこうなどと言うことはできない。なぜならここは、大人も子どもも等しく《ともに遊び、働き、学ぶ「熱い環境」》なのだから。
 ーーある日、ようやく出稼ぎから帰ってきた姉妹の父親。だがすぐに、下の妹たちを連れて町へと戻ってしまう。ひとりだけ村に残り、祖父と暮らすことになるインイン。「勉強なんかより家の仕事をしろ」と言う祖父のもと、相変わらず家畜の世話や野良仕事をこなすことの繰り返しだ(……彼女がいつも着ている、すっかり汚れたパーカー。そこに書かれた「LOVELY DIARY」というロゴの、何という皮肉ともの悲しさ。まったく、これではあまりに“出来すぎ”ではないか!?)。世話をする妹たちがいなくって、ますます無口になるインイン。そして、そんな彼女を映画は、というかワン・ビンのカメラは同じく黙って見つめ続ける。
 そう、この映画にはナレーションも、登場人物たちへのインタビューもない。音楽すらないのである。あるのはただデジタルカメラがとらえたインインたちの生活風景と、荒涼としながらもあまりに美しい自然の風景ばかりだ。そういったふたつの「風景」が交差するところに、インインがいる。それを映画が見つめる時、もはやぼくたちは片時も画面から目を離すことができない。ーー暗い家のなか、そこだけ外の明るさが射し込む一角で、インインは茹でたジャガイモをほおばる。その光景は、単なるドキュメントであることを超えて、ぼくがこれまで見てきた映画のなかでも最も“美しい”映像のひとつだ。憐れみでも、神格化するのでもなく、そこにあるのは〈人間〉というものの最も原初的な美なのである。
 ……その後、インインとその家族に、ある“変化”が訪れる。それは実際に映画をご覧いただくとして、少なくともインインはふたたび妹たちや父親と暮らせるようになる。が、それが本当に「しあわせ」なことかどうかは、インインたちにも、映画を見るぼくたち観客にもわからない。
 けれど、これだけは言える。この2時間30分におよぶ映画をひとりで背負ってみせた彼女は、まるでロベルト・ロッセリーニ作品におけるアンナ・マニャーニやイングリッド・バーグマンのように素晴らしい、と。ーーそう、ワン・ビン監督の本作によってこの名もないひとりの少女は、誰にとっても忘れがたい「ヒロイン」になったのだ。

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