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いつかどこかで見た映画 その138 『リトル・チルドレン』(2006年・アメリカ)

“Little Children”

監督・脚本:トッド・フィールド 原作・脚本:トム・ペロッタ 撮影:アントニオ・カルヴァッシュ 出演:ケイト・ウィンスレット、パトリック・ウィルソン、ジェニファー・コネリー、ジャッキー・アール・ヘイリー、ノア・エメリッヒ、グレッグ・エデルマン、フィリス・サマーヴィル、ジェーン・アダムス、セイディー・ゴールドスタイン、タイ・シンプキンス、レイモンド・J・バリー、メアリー・B・マッキャン、トリニ・アルヴァラード、サラ・バクストン、ヘレン・ケアリー、マーシャ・ディートライン

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 本作のパンフレットによれば、タイトルの『リトル・チルドレン』とは「大人になれない大人たち」の意味だとされている。と聞いて、“ああ、またか”といささかウンザリする向きもあるだろう。現代アメリカ映画や文学において、この「大人になれない大人たち」をぼくたちはどれだけ見たり読んだりしてきたことか! そこにまた、新たな1本が加わったというワケだ(……そう、「大人=社会」からドロップアウトする男たちこそを肯定したアメリカン・ニューシネマ以後、もはや映画は「大人になれない大人たち」御用達のものになってしまったかのようだ。そこでは、ウディ・アレンの「大人になれない」ことへの自己弁護めいた饒舌と自閉ぶりが共感をもって迎えられ、“永遠のこども”スピルバーグの映画に熱狂し、『スターウォーズ』やら『ロード・オブ・ザ・リング』などといった作品が“現実逃避[ファンタジー]”へと観客を誘うといった案配。マイケル・ムーアがあれほど支持され人気を博すのも、いかにも彼ならではのキャラクターである「大人になれない大人」としてのボーイスカウト的「正義漢」ぶりゆえに違いない)。
 しかもこれが、ともに家庭のある身で不倫関係に陥った男女を中心に、ボストン郊外の住宅街で暮らす人々の群像劇となれば、どうしても『アメリカン・ビューティー』や『クラッシュ』を想起してしまう(今やアメリカ映画におけるひとつの〈主流[モード]〉となったこの形式だが、その先駆的作品とは、やっぱりロバート・アルトマン監督の『ショート・カッツ』だろうか?)。実際、登場人物たちのどうしようもなく卑俗な“面白ろうてやがて悲しき”スッタモンダを描くあたり『アメリカン・ビューティー』に似ていなくもないし、終盤近く一挙に大団円を迎える展開は、確かに『クラッシュ』を想わせる。そもそも、前述の通り“近郊住宅地[サバービア]”を舞台にした不倫や離婚、時に犯罪がらみの家庭劇というモチーフは、ジョン・アップダイクやアン・タイラー、レイモンド・カーヴァー(アルトマンの『ショート・カッツ』は、カーヴァーのいくつかの短編小説を組み合わせたものだ)をはじめ昨今のアメリカ文学において繰り返し描かれ続けてきたものだ。いったい『リトル・チルドレン』という映画は、そこにどんな「新しさ」、あるいは「何か」をもたらし得るというんだろうか……。
 と、ついイヂワルな物言いを連ねてしまったけれど、本作の作り手たちは、当然ながらそんなこと先刻承知に違いない。その上で彼らがここで目論んだのは、「斬新な映画」を創りあげることよりも、たぶん「大人になれない大人たち」というアメリカ人の「肖像」を等身大のまま凝視し、その生活を、その内面を、寓話としてでなくあくまで「劇[ドラマ]」として構築することだった(……そう、実のところ死者である主人公のナレーションで展開する『アメリカン・ビューティー』にしろ、温暖なロサンゼルスに雪が降る『クラッシュ』にしろ、現代人の生活と内面を戯画化[カリカチュア]をしつつ明らかに「寓話」をめざすものだったはずだ。そのことがこれらの映画を、リアルな「現実」ではなく見事な“オチ”のある「良くできたお話」へと向かわせるものであったこと。そこに不満というか、作品としての“限界”を見ることも可能なのではあるまいか)。それは、登場人物たちの心の動きや振る舞いを、あたかも文化人類学者のごとく観察し分析=口述[フィールドワーク]するかのようなナレーションからも窺えるだろう。そこから「大人になれない大人たち」の生態を、悲劇でも喜劇でもない、けれど十分「劇」的に描き出そうとする。ーーおお、こうして見るとこの映画、実に「チェーホフ的」じゃないか!
 ……などと、例によっていささか先走りすぎました。いいかげんこのあたりで内容にもふれておこう。
 映画の中心となるのは、ボストン郊外の高級住宅街に暮らすケイト・ウィンスレット演じる主婦のサラと、最近では『ハード・キャンディ』でのハンサムな“変態野郎”ぶりが記憶に新しいパトリック・ウィルソンによるブラッド。ネットのアダルトサイトに熱中する夫リチャード(グレッグ・エデルマン)に幻滅し、他の主婦仲間たちの俗物ぶりにもうんざりしているサラは、公園で出会ったブラッドを次第に意識するようになる。一方ブラッドも、司法試験を2度落ちて、今は主夫をしながら次の試験をめざすものの、家計をささえるドキュメンタリー映像作家の妻キャシー(ジェニファー・コネリー)に頭の上がらない日々。それぞれ幼い子供を連れて、毎日のように町のプールで会っていた彼らは、ある日とうとう一線を越えてしまう。
 最初は醒めた目で周囲から距離を置いていたサラは、ブラッドと関係を持つことでアッという間に自分を見失っていく(ブラッドと関係を持つ前、彼女は主婦たちの読書会に誘われ、そこで不倫の果てに身を滅ぼすヒロインを描いたフローベールの小説『ボヴァリー夫人』を擁護する。その「愚かしさ」こそ、彼女をとりまく時代や閉鎖的な状況への“反逆”だったのだと。ここで作り手たちは、サラにあらかじめ自己弁護させているわけだ。……もっとも、ここで『ボヴァリー夫人』をもってくるというのは、巧いけれどちょっと「狡い」気もする)。町の主婦たちから「プロム・キング」と憧憬されているブラッドも、司法試験の勉強で図書館に向かうべきなのに、街なかでスケートボードに興じる若者たちを眺めながらおのれの満たされない現状を憂うばかり。サラとの初めてのセックスの最中、彼女が「悪いことじゃないわ」と言い切るのに対し、ブラッドの方は「いや、いけないことだよ……」と言いながらも腰を振るような男なのだ。なるほど、確かに彼らが情けないほど「大人になれない大人たち」であることを、映画は身も蓋もなく見せつけるんである。
 いや、彼らだけじゃない。小児性愛者[ペドフィリア]として逮捕され町中から白眼視されるロニー(ジャッキー・アール・ヘイリー)にも、少年を誤って射殺した過去を持つ元警官ラリー(ノア・エメリッヒ)にも、この映画は登場人物たちの「情けなさ」を描くことに対してまったく容赦がない。母親(フィリス・サマーヴィル)のすすめで新聞の交際欄に載っていた女性とデートし、お互いの心の傷を慰め合うかのようなひとときを過ごしたと思ったら、いきなり彼女の横で一方的にマスターベーションをはじめてしまうロニー。そのロニーを徹底的に排斥しようとするラリーの行為にあるのも、自身の罪への呵責の念と警官職への未練のはけ口にしているという一種の“弱い者いじめ”でしかない。
(……それにしても、本作で男たちは本当にせっせとマスターベーションに励んでいる印象を受ける。サラが夫に幻滅するのも、彼がネット通販で購入した女性の下着を頭に被ってシコシコとナニしている姿を目撃したからだった。ブラッドにしても、“今日は妻とデキる”と思った夜、すげなく拒否されてしまう。その満たされない欲求を、彼もまた人知れず晴らしたことだろう……。もともとアメリカの男たちは、生身の「セックス」よりも一方的な「自慰行為」を好む。そのためにポルノ産業があれほど発展したのだ、ということを詳細に論じた『ファーストフード・ラブ 都会人の性の飢えと渇き』(J・M・ウェザーフォード著)という本があった。ーー《マスターベーション中心の思春期を通じて、男たちは生身の肉体よりもポルノ雑誌の写真に接する機会のほうが多い。運よく本物の女性に恵まれても、その肉体は空想の世界の女体より見劣りする場合が多い。そうなると男は、女を抱いている間にも妙な空想を羽ばたかせるようになる。マスターベーションの場合も同じだ。自分の手を使おうと女性の膣を借りようと、いつでも最高の刺激はまぶたの裏の幻という男が珍しくない》(内田博・訳)。サラは、まさにそういう男の典型である夫に幻滅したのである。妻とではなく自分ひとりでの、「個人」による快楽[オナニー]を選んだ夫への失望……。そりゃあ、不倫のひとつもしたくなるだろう)。
 映画は、こういった自らのダメな部分をさらけ出していく「大人になれない大人たち[リトル・チルドレン]」を、シニカルでもなく、ことさら露悪的にでもなく、ただ“あるがままのもの”として見つめていく。ロニーが刑期を終えて町に戻ってきたことで人々が過剰反応する光景を描いても、それはあくまでひとつの“点景[エピソード]”でしかない。同様に、ついに駆け落ちを決行しようとするサラたちと、ロニーを溺愛してきた彼の母親の死というふたつの“波乱[アクシデント]”をきっかけに急展開するかにみえた後半も、結局のところ決定的なカタストロフィを迎えることなく、収まるべきところに収まったという感じ。だが、その“中途半端さ”こそがこの映画に、安易な寓話性でも、深刻な現代=社会批判でも、息詰まる悲劇的な身振りでもない、ある「説得力」をもたらしている。つまり、“そう、人間なんて所詮こんなものだ”という。
 とはいえ、それは決して否定的なものじゃない。むしろ、だからこそ「面白い」のだと言っているんである。誰ひとりとして心から共感出来ない登場人物たち(もし、アナタがこの映画を見て彼らの誰かに親近感[シンパシー]を感じたとしたら、実生活というか“性生活”を「反省」した方がいいと思われ……)は、けれど、イヤになるくらいその愚かしさを納得させられる。それは、我々の誰にもそのダメさ、みっともなさに対して“身に覚えがある”からだ。その情けなさや哀れさ、滑稽さを、映画はあるがままに映し出す。ーー先にぼくは「チェーホフ的」といったけれど、それは、その「あるがまま」の感覚においてこの映画はチェーホフの小説や戯曲に近しいからだ。批評的ではあってもそこに肯定も否定もなく、「あるがまま」に人間というものの実相を“臨床的”(実際にチェーホフは医者でもあった)に見つめたチェーホフ。この映画も同じように、「何が彼ら(=アメリカ人)をそうさせたか」をじっくりと見据えつつ、決して何も、誰も否定しようとはしないだろう。……そうして、帝政ロシア末期の停滞と閉塞感を生きる人々の、理想と現実に引き裂かれた「疎外感」を、精緻に「劇」化したチェーホフに対し、この映画の作り手も、現代アメリカを生きる“普通の人々”もまたよるべない孤独と「疎外感」を抱いていることを、ここで静かに告げるのだ。
 本作の監督であるトッド・フィールドは、長編第1作の前作『イン・ザ・ベッドルーム』でもそうだったけれど、役者たちに“演技[アクト]させる”というより、思う存分“芝居[プレイ]させる”といったかたちで乗せるのが非常に巧い。その持ち味によって、役者たちの誰もが気持ちよさそうに自らの役を、熱演ならぬ熱中して生きているのが分かる(そしてこのあたりも、「生きた形象(=役者)から思想(=劇)が生まれるので、思想から形象が生まれるのではない」というチェーホフの言葉をぼくに想起させるのだが)。なかでも、崩れかかった三十路女性の肉体を堂々と披露したケイト・ウィンスレットは、いやもう必見に値する(あ、ヘンな意味でなく)。 
 さらに、この映画で本格的に新たなキャリアを踏み出した元名子役ジャッキー・アール・ヘイリー! ロニーを演じる彼の“変態男の悲哀”ぶりは、『がんばれベアーズ』の昔を知る者にとって涙なくしては見られまい。
 ……これで、ブラッドの妻というある意味最も“損”な役まわりのジェニファー・コネリーにも、もう少し見せ場というか大胆な演(艶?)技を披露させてくれたなら、彼女も、観客も、もっと“満足”できたのにーーと、最後に小さな声でひと言だけ異議(笑)を唱えておこう。

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