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いつかどこかで見た映画 その59 『ありがとう、トニ・エルドマン』(2016年・ドイツ)

“Toni Erdmann”
監督・脚本:マーレン・アデ 撮影:パトリック・オルト 出演:ペーター・ジモニシェック、ザンドラ・ヒュラー、ミヒャエル・ヴィッテンボルン、トーマス・ロイブル、トリスタン・ピュッター、ハーデウィック・ミニス、ルーシー・ラッセル、イングリッド・ビス、ヴラド・イヴァノフ、ヴィクトリア・コチアシュ

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 「カイエ・デュ・シネマ」と「サイト&サウンド」といえば、もはや映画通なら知らぬ者はいないだろう。かたや、ゴダールやトリュフォーをはじめ“ヌーヴェルヴァーグ”を代表する映画作家たちが批評家時代に活躍し、今なお先鋭的な映画評論を掲載している伝説的な批評誌。もう一方は、10年ごとに世界の映画人に呼びかけて「オールタイム・ベスト50」を発表することでも有名な(……ちなみに、最新の2012年度版“世界の映画監督が選んだベスト50”の第1位は『東京物語』である)、英国映画協会(BFI)発行の月刊誌だ。
 このフランスとイギリスの両誌に加え、ニューヨークのアート・シーンにおける中心的存在であるリンカーン・センター刊行の「フィルム・コメント」誌という、仏英米のそれこそ泣く子も黙る(?)世界的な映画専門誌がそろって2016年度のベストワンに選出。さらに、カンヌ映画祭でも批評家や観客たちからかつてないほどの絶賛を浴び、しかし主要な賞を逃したことでその結果が一大スキャンダルとなった(……最高賞[パルムドール]に選ばれたケン・ローチ監督の『わたしは、ダニエル・ブレイク』は、そのためせっかくの栄誉に水をさされた感がある。こちらもじゅうぶん“受賞に値する映画”だったのに……)という、大げさじゃなく「昨年最も世界を騒がせた映画」ともいうべき作品ーーと聞けば、いったいどんな「芸術的野心作」かと身がまえてしまうというものだ。
 が、あにはからんや、本作が長編3本目というドイツの女性監督が撮ったこの映画は、尋常ならざる父と娘の関係を描いた「コメディー」として受容されている(らしい)のである。事実、海外の評を見ても「腹がよじれる」だの「人情味あふれる面白さ」だの「笑いが止まらないほど愉快」だのという言葉が並んでいる。なかには「ドイツ映画史上初めて、心から面白いといえる」といった、いささか物議を醸しそうなものまである次第だ(以上、引用は公式HPより)。つまり、この映画は「笑える」。そのうえで、うるさがたの批評家をもうならせる「何か」がある、ということなんだろう。
 ……ということで見た当の映画『ありがとう、トニ・エルドマン』なのだがーーなるほど、これはすごい。というか、こちらの予想をはるかに超えて、あらゆる意味で“とんでもない”映画なのだった。
 さきに「尋常ならざる父と娘の関係」と書いたとおり、ここで中心となるのは、どうやら音楽教師らしい初老の父親ヴィンフリート(ペーター・ジモニシェック)と、キャリア志向で仕事にいそがしい娘イネス(ザンドラ・ヒュラー)の父娘の確執というか“すったもんだ”である。もっともこの父娘、とりたてて異常な関係でも特別な問題を抱えているわけでもない。ただ父親のほうが、いいトシをしながら長髪のかつらや奇妙なつけ歯で変装して、宅配便のお兄さんに悪ふざけをしたり、くだらないジョークを飛ばすのが好きといういささか困ったお調子者で、30代半ばをすぎた娘はといえば、仕事にのめり込むあまりいつもぴりぴりと張りつめ、笑顔を忘れてしまっているワーカホリック気味である、といったくらいだ。
 ふたりは、離婚したヴィンフリートの元妻の家でひさしぶりに再会する。企業向けのコンサルティング会社に勤め、念願だった上海支社への転勤のため、今はルーマニアのブカレストで大手石油会社との大きな契約を結ぼうとしているイネス。短い帰省中も仕事の電話ばかりの娘のことが、ヴィンフリートは気になってしかたがない。そしてイネスは、施設で暮らす祖母にも会うことなくあわただしくブカレストへと戻っていく。
 そんなイネスのもとへ、愛犬の死をきっかけに1ヶ月の休暇をとって訪れるヴィンフリート。「おまえのことが心配になって」と言われても、連絡もなしに突然やってきた父親をもてあますイネスだったが、とりあえずその夜アメリカ大使館で催される財界人のレセプションに同伴させることにする。
 しかし、そこでもイネスの大事な取引先の役員を相手に、「娘が仕事で相手にしてくれないから“代理の娘”を雇ったんです。これが良い娘で、足の爪も切ってくれる」などとくだらない冗談を飛ばす始末(……ただ、これが意外と相手の気に入られたりするのだ)。あろうことかイネスのほうも、不用意なひと言で役員の機嫌をそこねてしまう。
 その後も、おたがいの気持ちがすれちがったまま数日がすぎ、気まずいまま予定を切りあげて帰国の途につくヴィンフリート。父親への複雑な心中を抱えながらも、とにかくやっかいな存在が去ってくれたイネスには、いつもながらの日常が待っているはずだった。
 だが、女友だちとの飲み会で父親への愚痴をこぼす彼女の前に、帰国したはずのヴィンフリートが、長髪のかつらとつけ歯にうさん臭いスーツ姿で「私はトニ・エルドマンです」と名のりながらひょっこり現れたではないか! 思わぬ事態に仰天し動揺するイネスを尻目に、ひとしきり彼女や友人たちを煙に巻いたあと、悠然とリムジンに乗り込んで夜の街へと消えていく「エルドマン」……
 以来、トニ・エルドマンはイネスの周囲に出没するようになる。ーー会社の屋上で上司と議論中に、ブーブークッションのおなら音とともに現れる。会社のパーティーでは、居合わせた婦人に娘を「秘書」だと紹介したり、イネスやその同僚たちといっしょに“薬[ドラッグ]”をキメてクラブにまでついていく。その都度「コンサルティングと人生のコーチを手がけるビジネスマン」だの、「ドイツ大使」だのと名のるエルドマンに振りまわされるイネスだが、苛立ちながらもなぜか突き放せない。そして、そんな困った「父親[エルドマン]」との関わりのなかで、ついには彼女自身があるとんでもない“暴挙”にでてしまうのである!
 ……娘のことが心配なあまり、突拍子もない行動をとる父親。とは、洋の東西を問わず人情喜劇の定石[クリシェ]ではあるだろう(……父娘を兄妹に代えれば、それはもう『男はつらいよ』だ)。しかしこの映画の場合、父親が“別人”になりすまして娘にストーカーよろしくつきまとうのだから、とても尋常ではない。というかこのオヤジの神出鬼没ぶりたるや、やはり娘を守るために変装してはその危機を救うクリント・イーストウッドの『目撃』もかくやといったありえなさなのだ(……そういえば、あのイーストウッドの監督・主演作の「サスペンス劇」らしからぬ不思議な“軽さ”は、今にして思えばあれも「喜劇」的なものを狙っていたんだろうか?)。
 だが、そうした父親の異様な「変装」は、やがて娘を“やり手のキャリアウーマン”という「変装」から解放することになる。そのきっかけが、父の伴奏でイネスが歌うホイットニー・ヒューストンの「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」であり(……彼女が幼い頃、たぶんこうして父娘で演奏し歌っていたことをしのばせるこの場面、とにかくイネスの熱唱ぶりがおかしくも実に感動的だ)、続く自分の誕生日パーティー場面でイネスは、文字どおり“すべてを脱ぎ捨てる(!)”ことになるのである。
 そこへ、今度は毛むくじゃらの巨大な着ぐるみ姿(……それは、ブルガリアの精霊「クケリ」という幸せの象徴らしい)で現れた「トニ・エルドマン」ならぬヴィンフリート。そこから、この父娘がはじめて心からの愛を込めて抱擁するまでの場面の美しさは、ぜひ実際にご覧いただきたいと切に願う。
 こうして、ここですべてメデタシメデタシで終わったなら、それはそれで映画としてきれいな大団円[ハッピーエンド]だったろう。聞けばジャック・ニコルソン主演でリメイクされることが決定しているらしいが、アメリカ映画ならきっと“ここ”で終わらせるにちがいない。
 だが、ドイツの才媛マーレン・アデはもちろんそんなヤワな(!)監督ではない。実際この映画には、グローバル化による搾取の構図とそれによる国や人々の経済格差の問題、世代間の断絶、女性の労働環境等々、現代のヨーロッパが抱える「現実」が盛りこまれている。しかもそれらが、「尋常ならざる父と娘」のドタバタ劇を通じてより「リアル」に浮かびあがってくるなど、なるほど世界が絶賛するだけのことはあるとあらためて舌を巻かされる。
 そしてヴィンフリートとイネスも、父娘としての距離は少しせばまったものの、転職したイネスはどうやら同じコンサルタント業務でシンガポールに転勤するらしい。映画のラストカットにおける、そんな彼女の寄る辺ない表情にあるのは、ここでも「現実」の厳しさ直面した者のそれに他ならないだろう。
 それでもこの映画を見ることは、多かれ少なかれイネスたちと同じような「現実」を生きるわれわれにとって大いなる“救済”あるいは“慰め”になるにちがいない。162分(!)といういささか悠揚すぎる上映時間のあいだ、観客はただ見るのではなく、この父娘の「現実」に“付き合わされている”自分たちを発見することになる(……たとえば、エレベーターを待つあいだのあの所在ない数秒間を、主人公たちとともにここまで“実感”させられることなど、これまでの映画でかつてあっただろうか?)。その果てにぼくたちは、それでもイネスが確かに“救われた”ように、この映画に救われるのである。だから、ぼくたちもこう伝えようじゃないかーーありがとう、トニ・エルドマン!

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